Je t'aime

Je t'aime特別編 ※本編読了後にお読みください。

DEPART -奏-


 いつだって本当の自分を探していた。
 結局それは分からないまま、君の元も離れようとしている。
「藤崎君は藤崎君だよ」
 そう言ってくれた君の言葉も信じられない自分は、ずるい人間だろうか。
 きっと愚かな人間に見えているのだろう。
 けれどこのままでは本当の自分に会えない気がして、俺は――。


 第一志望としていた東京の私立大学に合格し、高校の卒業式も終えた後、大和は既に荷物の片づけを終えていて、下宿先の契約も全て父を介して終えていた。後は本当に荷物を向こうへ運び、暮らすだけの状態だった。既に3月も初旬を迎え、世の中が新しい季節に向けて最終段階へと進んでいる。
 明日はいよいよこの町を出るという日になって、大和は正直ほっとしている。親には相談もなくこの家を出ると決めたことに対して何も言われなかったことが一番大和を驚かせ、安心させた。母親が何も言わなかったことは予想できていた。彼女は祖母が亡くなってしばらくすると、まるで関心を無くしたかのように全ての視線を弟の真に向けた。その時からこうなることは何となく分かっていたのだ。問題は父親だった。彼女と自分との狭間であまり動かなかった彼だが、大和が家を離れることを賛成してくれるとも思えなかった。けれど蓋を開けてみれば……意外にもすんなりと認めてくれたことが嬉しかった。
「兄貴」
 母親には無視されている存在の大和だが、真だけは唯一無二の兄としてしっかり認識されているらしく、こうして母親の居ない時はよく話しかけてくる。大和も家族の中で彼の前だけは素の自分を出す。それで良いのだと、そうでなければ嫌だと泣かれた幼い日の彼に、大和は少なからず感謝していた。
「休みの日には遊びに行くからさ」
「うん?」
 大和はベッドの上で横にしていた体を起こし、ドアのところに立っている真に顔を向けた。時刻はちょうど昼の2時を回ったところで、昼食の片づけを終えた母は趣味の料理教室へ出かけていっていた。
「盆や正月くらいは帰ってこいよ」
 真剣な表情で言ってくる彼に、大和は何事かと力を入れていた肩の力を抜いて笑った。なんだ、そんなことか。
「もちろんでしょ、そんなのは」
 けれど真はそれでも硬くなった表情を崩さないで大和を見つめる。
「じゃなくて、この家にってことだぞ。兄貴がこっちに戻ってくる理由はカノジョしかないって感じだろ。そうじゃなくて、ちゃんとこの家に、さ。戻ってくるよな?」
 今にも泣きそうな弟はまだまだ幼くて、すっかり大人びたその背や顔や格好はただの外見でしかない事に、今更になって気づいた。
 彼は分かっているのだ。大和が東京の大学を選んだ本当の理由を言わなくても、どこかで感じて、不安なのだ。その事を今更になって気づかされた。
 残される真のことを考えていなかった自分の身勝手さ、愚かさに、どうして今まで気づかなかったのか。本当は、考えないようにしていたのかもしれない。
「大丈夫よ。ちゃんと顔を見せに帰ってくるから」
 そう言って微笑むことが精一杯で、真の表情をちゃんと見ることはできなかった。
 大丈夫。きっとその頃には、今の“アタシ”はいないだろうから。そう言おうとして、大和は口をきつく結んだ。――そんなことを言ったところで真にとってはどうでもいい話だろう。これは大和だけの問題なのだから。

 その夜、大和はなかなか寝付けないでいた。喉に渇きを覚えてそろそろと起き上がる。そろそろ春だというだけあって、布団から出てもそれほど寒くはなかった。
 何かを飲もうと階段を降りる途中、ふとリビングの明かりが廊下に漏れていることに気づく。確か今はまだ朝と言うには早すぎる時間帯で、空もまだ暗闇を保っている。大和は思わず足を忍ばせて階段を降り、そっと伺うように僅かにドアを開けた。まず始めに見えたのはリビングから繋がる電気の点いていない台所。視線反対側へずらして行けば、父親が大和に背中を向けるように立っているのが見えた。少し丸まった彼の体の向こう側に母親が居るようで、父親は立ったままどうしようもなくそちらを向いている。
「どうしてあんなことを――」
 微かに聞こえたのは母の声だった。大和はもっとよく聞こうと耳をそばだてた。さらにドアが開き、慌ててノブに当てている手に力を込めて引き戻す。幸い二人には気づかれていないようだった。
「あの子があんなふうになったのはわたしのせいだわ……、どうしてあの子が……」
 母の泣きそうな声にどきりとする。大和は乾いた唇を何度も舐めた。
「大丈夫だよ。君が思うよりずっと強いよ、大和は」
 心臓が止まるかと思った。
 まさか、あの母が、自分のことを話題にしているなんて。自分のために泣いているなんて。
 信じられない。
「わたし……怖かったの……。あの子が自分の子じゃないみたいで。あの時のことが頭から離れない……」
 父は何も言わず、ただゆっくりと前屈みになって彼女の肩を摩っている。優しく撫でるように、その手の温もりが返事の代わりだとでも言っているかのようだ。やはり彼の脳裏にも“あの時”の光景が鮮明に映っているのだろう。
「お義母さんが亡くなって、それでもあの子は女の子のままみたいな話し方しかできなくて」
「……」
「ずっと責められてるみたいだった……、わたしが変えてしまったから……ずっと、怖かったの、あの子が」
 そして気づいた。彼女は一度も大和の名前を呼ばない。
「……あの子が、関東の大学へ行くって聞いたとき、正直ほっとしたの。わたし、母親失格ね……。真にまで疎まれて。真はずっとあの子のことが好きだから――」
 母の気持ちも分からないでもない。確かに大和の女言葉は祖母のせいであったけれど、それを合わせるようにと言ったのは母だったからだ。
 全ては親の勝手。それを彼女も分かっているから、大和の存在を感じるたびに恐怖し、自分を責められているような圧迫感に耐えられなかったのだろう。その結果が無視という形を取らざる終えなかったのだろうという事も、母の泣くような声を聞いて納得した。
 だが、それと感情とは別で。
 大和はどうしようもなく溢れてくる憤りを覚えた。
――“どうして”? それは俺のセリフだ!


 大和は草の匂いに目を覚ました。瞼を押し上げれば視界に映るのは晴れ晴れとした青い空と、静かに流れる白い雲。その切れ間切れ間に向こう側の薄い水色がぼんやりと浮かんでいた。あれも空の一つなんだな、と大和はぼんやりと思った。そういえば、どうして空は青色なんだったっけ。海の色が反射しているから、というのは間違いであることはどこかで聞いた。そもそも海は水で、水は元来透明なのだ。海が青いのは確かプランクトンか何かの色だったような気がする。
「あー……」
 頭が痛い。寝すぎたか。大和は寝そべったまま額に手を当てた。目を閉じれば再び暗闇が広がり、それでも太陽の光がポツポツと小さな丸となって映る。
 昨夜、母の泣き言を聞いて、無性に腹が立った。腹は立ったがどうすることも出来ず、日が昇ると何も言わずに外へ出ていた。当てもなく歩いていけば、いつかの河川敷へと来ていたのだ。そこでようやく自分が学校の方へと歩いていたのだと気づいた。ここから少し東へ行けば数ヶ月前まで通っていた高校がある。
 今は何時だろう、と唯一持ってきていた携帯電話を取り出した。液晶画面に映るデジタル時計が昼前であることを示している。逆算してこの草の中で2時間は寝ていたことになる。少しおかしくて笑った。
「何やってんの、アタシ……」
 大和は起き上がり、電話を掛ける。今一番聞きたい声が、機械越しではあるけれど、すぐに耳元に届いた。
『もしもし?』
 少しだけ緊張気味の彼女の声。会えばそうでもないが、電話だといつもこうだ。電話は苦手だと言っていた。
「椿ちゃん、今から出てこられる?」
 そう言って、ふと思った。こんなふうに会えるのも、もうすぐ出来なくなるのだと。
 呼び出してすぐに会えることも、都合よく連絡が取れることもきっと出来なくて、すれ違うことの方が多くなるかもしれないということの実感が、じわじわと体の奥から彼を締め付けていく。
 大和は今すぐ彼女を抱きしめたくなった。

「ひ、大和くん?」
 待っていた椿の声がして大和は目を開けた。上半身だけ起こすと、キョロキョロと辺りを見回している椿を見つける。赤茶色のコートに細身のジーンズ姿という格好はいつもの彼女のままで、それだけのことにふっと表情が緩む。
「椿ちゃん」
 大和は立ち上がりながら声をかけた。椿はハッと振り向き、大和の姿を確認すると、駆け足で向かって来た。
「どうしたの?」
 そう言って数歩手前で立ち止まる椿を、大和は手を伸ばして自分の腕の中に入れる。ふわり、と良い香りが彼の鼻をくすぶる。香水のように甘くはない、けれどとても心地良い香りだ。
「え、あの、大和くん……!?」
 慌てふためく椿の声さえも心地良く響いて、大和は更に力を込めて抱き寄せた。離したくはない。離れることを決めたのは自分なのに、この温もりをいつも感じられなくなってしまうのは、つらい。
「ねぇ、どうかしたの?」
 朝から呼び出しの電話を掛けてきた大和を不思議に思いつつ来てみれば、何も言わずに抱きしめられた。どこか様子のおかしい大和に椿がそう聞いてみても、彼は黙って腕の力を強くするだけだ。この息苦しさは嫌ではない、けれど、ちゃんと顔を見たくて、椿は彼の胸を押して体を離そうとする。それでも大和はただ強く強く、引き寄せるだけで。
「大和くん?」
「ふふ。慣れてきたね、名前を呼ぶの」
 そう言って彼は小さく笑う。名前を呼ばないと怒るからそうしているだけなのに、なぜか恥ずかしくなって、赤くなる顔を彼の胸に押し付けた。
「……ばか」
 椿のそんな小さな変化が嬉しい。それを感じられる今がとても愛しい。
 息が詰まりそうなほど、愛しくて。  そっと腕の力を抜いて、彼女の俯いている顔をこちらに向けさせた。耳まで赤くなった椿が困ったように大和を見つめた。
 さわさわと冷たい風が吹く。二人の頬を撫でる。
 けれど触れ合った肌はとても暖かくて、大和はゆっくりとその温もりを味わうように口付けた。彼女の額に、瞼に、頬に、そして唇に。
 今は、この瞬間だけは、何もかもを忘れて、彼女だけを感じたかった。椿だけが大和の全てになる。椿の温もりだけが大和の肌に触れ、椿の優しさだけが大和の心に触れる。ただ、今だけは、それで充分だ。それ以外はいらない。欲しくない。
 長いキスに、椿は眩暈を覚えた。ようやく唇が離されると同時に、くたりと体がよろめく。大和は椿を抱きとめ、小さく彼女の髪にキスを落とした。少し椿には刺激が強すぎたかもしれない、と心の中で謝りながらも、満足感に胸を膨らませた。
「ごめんね。最後だから許して?」
「最後だからって……、やりすぎだよ……」
「うん、ごめんね」
 大和は、文句を言いながらも自分の背中に回したままの椿の腕に、幸せを感じた。きっと椿ならずっと自分に暖かさをくれる存在でいてくれるだろう。だからどんなことがあっても彼女だけは、離せないのだ。例え家族がいなくなっても、椿さえいれば――。そんなことは断言できるはずもないのに。
「それと、ありがとう。椿ちゃん。大好き」
 好き、なんて、そんな軽い言葉で片付けられないほど想いは積もっているけれど、椿に重く感じてほしくなくて、大和は明るい調子で言った。
 椿にもどうか、この思いが少しでも届いているといい。
「メールも電話も、いっぱいするから」
 大和は思う。自分ほど重くドロドロとした感情ではなくてもいいから、少しでも椿が自分のことを想い続けてくれれば、と。今の表情を見れば彼女がどんなことを思っているかなんてことは分かるが、これからはこんなふうに表情を見ることもままならないだろうから、尚更思う。どうか離れていかないでほしい、と。そんな勝手なことを思っている。
――身勝手さは母親譲りなのか。
 大和は自嘲して笑い、椿を再び抱き寄せる。
「あたしも、好きだからね」
「ありがとう」
 その言葉だけで生きていける。大和は心の底から感じた。
 そしてギリギリの時間まで熱い愛情を椿の唇に降り注いだ。一秒でも長く感じたかった。


「じゃあ、またね」
「うん。またね」

+++ FIN. +++