Cette Place

4周年御礼記念企画作品

UNE LIEN


 頬を撫で付ける風は冷たく痛かったけれど、繋いだ大和くんの手は安心するほど暖かくて、あたしはきっとこの手をずっと離せないんだろうな、と思った。そして強く握られた大きな手に、あたしは知らずに守られているんだ、と――思っていたんだ。



「家族に、会ってほしいんだ」
 初めて二人で初詣に行った帰り道、境内からの階段を下りながら、大和くんは静かにそう言った。僕の家に来て欲しいんだ。そうはっきりとした口調だったから、あたしは頷く以外どうしたらいいか分からなかった。
 大和くんとは高校3年のときに出会った。同じ1年間を過ごしたクラスメイトで、あたしにとっては人生初めての“好きな人”になった。それは今も変わらないでいる。それがどんなに凄いことか、初めてのあたしには分からない。でも、幸せなことなのだ、ということは知っている。
 皆に優しくて、誰もを惹き付ける魅力を持っている大和くんだけれど、家族の中で……特に彼のお母さんとの間には深い溝があった。
 それを聞いたときはすごく驚いて、悲しくなった。
 同時に、話してくれた大和くんの優しさに嬉しくもなった。あたしにはたぶん、それをどうこうする力はないけれど。打ち明けてくれたことに少しの重圧と幸せを感じて、胸の奥がキュッと締め付けられる。苦しくて、甘くて、苦い。そんな感じがした。
「初めてだね、大和くんの家に行くの。なんだか緊張するなぁ」
 ドキドキと高鳴る鼓動を誤魔化しながら、片手を口元に当てて、はあ、と息を吹きかける。暖かな空気が手の中に広がった。それでも顔に突き刺さる冷たさは変わらなくて、もう一度息を手の中へ吐き出した。
「急にごめんね。そんなに身構えなくても良いよ」
 大和くんの方へ顔を向けると、申し訳なさそうに眉を下げ、困ったような笑みを浮かべていた。でも本当は分かっているんだ。あたしよりも大和くんの方がずっと、きっとあたしが想像しているよりももっと、身構えている。駅へ向かう中で、普段でも止め処なく喋ることはないあたし達だったけれど、大和くんの口数はやっぱり段々と減っていた。大学へ入る前には、大和くんから少しだけ彼の家族のことについては聞いていたので、そんな小さな大和くんの変化にも気づけたのかもしれない。
「家族の方は初詣に行ってないの?」
「うぅん。親も弟も行くとは言ってたけど……多分すぐに帰ってくるんじゃない? 彼女を連れてくるって言って来たから」
――かのじょ。
 ……う、うわぁ……。
 何度聞いても、やっぱり慣れないなぁ。特に大和くんの口からさらりと言われちゃうと、すごく照れる。大学で友達と話してるときも、未だに大和くんのことを「彼氏」なんて言えないもの……。あたしがそんな反応だから、彩芽たちにはからかわれるし。大和くんはそういうの――気にするタイプじゃないか。だって初めから、そんな感じだったもんね。
「あっ、ご両親に挨拶するなら、お土産とかいるんじゃない!?」
 さすがに手ぶらじゃだめだよね。
 慌ててあたしが言うと、大和くんは一瞬キョトンとし、ふふっと笑いを漏らした。
「そんなのいいよ、気を遣わなくて。むしろお願いして来てもらうんだから」
 でも、とあたしが反論しようとすると、大和くんは少しだけ真面目な顔をして言った。
「そういう気遣いは、僕が椿ちゃんの家に行く時にするから。ね」
 大和くんはにっこりと微笑んだ。そんな顔をされたらあたしが何も言えないのを知っているんだ、きっと。
「あ、赤くなった。可愛い」
 耳まで真っ赤になったあたしの頬をそっと撫でる大和くんの指はひんやりと冷たくて、思わず肩を震わせてしまった。大和くんのバカ。余計に心臓が速くなってきたじゃない!
 恥ずかしくて俯くあたしをクスクスと笑いながら、大和くんはぎゅっと、繋いでいる手を握り締めた。
 大和くんの家はあたしの家とは正反対の方向にあった。駅を越えた南の方は、あたしはあまり行ったことがなく、同じ町なのに新鮮な感じがした。どちらかと言えば山の方になる北は坂道が多いのだけれど、大和くんの家の方は平地で、駅から離れるにつれて住宅街は少なくなり田舎っぽい風景が広がる。
「ここだよ」
 そう言って指差した家は、大きかった。2階建てのごく普通の家なのだけれど、門構えがしっかりしているというか、車2台分が入る駐車スペースがあるところからして、うちとは大違いだ。
「犬とか飼ってそう」
 雰囲気で何となく呟いてみると、隣で大和くんは肩を竦めて苦笑する。
「残念だけど。母親が犬が苦手なの」
 大和くんは言いながら、門をガチャリと開けて行く。
 うおぉぅ……、いよいよだ……!  今まで割と落ち着いていると思っていたけど、やっぱりダメ! 心臓がこれ異常ないくらいドキドキ言ってきた!
――知らず、大和くんの手をギュッと掴んでいた。もしかしたら掌の汗にも気づかれていたかもしれない。
 ど、どうしよう? どうするべき? とりあえず最初は挨拶っ。そう、挨拶して――今の時間帯だと「こんばんは」かな? あれ、「おはようございます」の方が良いのかな。いやいやいや、こんばんは、でしょ。うん。それから「はじめまして」「藤崎椿です」で……。その後は、その後は……!?
「適当に、そのスリッパ使って」
 パニクるあたしをよそに、大和くんの冷静な声が聞こえてきた。玄関先に立てかけられてたスリッパを丁寧に差し出してくれる。
「う、うん。――オジャマシマス」
 靴を揃えてスリッパを履く。汚れのないマットが目についた。意識してみれば脱ぎ散らかした靴は1足もなく、玄関からして綺麗だ、と関係ないことを思う。キョロキョロとあちこちを見回すのも気が引けて、まっすぐに先を歩く大和くんを見る。ああ、でも、天井が高い。
 大和くんが開けたドアは手前左側にあったもので、右側には階段があった。その奥に一つと、廊下の突き当りにもドアがある。
「ただいま」
 軽い調子でドアを開けると、そこはリビングだった。右奥に広がるダイニングと合わせたらとんでもない広さだ。カウンター式のキッチンがあって、大きな冷蔵庫が見えた。電気が消えてるので良くは見えない。もう一度リビングの方に視線を戻す。L型のソファにテーブル、テレビ、その他AV機器が揃っているのを見ると、映画やドラマに出てくる家庭内そのものにも見える。なんというか、理想的な家の中、という感じ。散らかり放題なあたしの家とは大違いで、羨ましい。
「誰もいないんだ。まぁ、適当に座って」
 ソファを指して大和くんはそう言うと、キッチンの方へ行ってしまった。きっと丁寧にお茶でも出してくれるんだろう。
「煎茶しかないんだけど」
「お、お気遣いなく!」
 あたしが慌てて言ったもんだから、大和くんはおかしそうにクスクスと笑った。
「ふふっ。そんなに緊張しないで欲しいんだけどな」
 うぅ。無理だよぅ。
 恥ずかしい。
 顔が熱い。
 こんなんじゃ絶対大和くんの家族になんて挨拶できないっ。もう、帰りたい……。
「じゃあとりあえず、僕の部屋にでも行く?」
 ああ……気を使わせちゃったかな。ダメダなぁ、あたし。いつもこうだ。
「……うん」
 それに甘えちゃうのも、ダメなんだろうな。もっとしっかりした人になりたいのに。いつも助けてもらうばかりで。どうしたら良いんだろう?
 お盆にお茶の入ったコップを二つ乗せて、大和くんは階段を上っていった。二階にはドアが左右二つずつあって、その内の左側のドアを開けて入っていった。必要最低限のものしかない、と言ったら分かりやすいような部屋が、大和くんの部屋だった。向こうのアパートへ行った時も思ったのだけど、大和くんはあまりごちゃごちゃと物を置かない人だ。あたしの部屋にはポスターとかボードとか写真立てとかを飾ったりしてるけど、大和くんの部屋にはそういったものが一切ない。雑誌を積み上げたりすることもなくて、なんだか潔い。
 不躾にキョロキョロと見回すのも気が引けて、すぐに顔を真っ直ぐに向けて部屋の中央に座ってみる。勉強机とベッドくらいしか座れるものが無かった。もう1年も使われていない勉強机は、それでも高校生時代のものがそのままに置いてあって、安易に触っていいのか分からなかったし、ベッドは……やっぱり簡単には座れない。
「なんで床? あ、そっか、クッションとかないんだ。ベッドにでも座って?」
 一度クスッと笑って、ああ、と気づいた大和くんは苦笑しつつ少し皺の散らかった布団を指差した。
 ここで意識したら、いやらしい子だって思われるかな?
 すぐに立ち上がってベッドの端に腰を下ろす。大和くんは勉強机に持ってきたトレイを置いて、コップを差し出してくれた。
「ありがとう」
「いーえ」
 大和くんちの煎茶はすごくよく冷えていて、とても美味しかった。
「まだ誰も帰ってきてなかったね。ちょっと緊張してきちゃった」
 嘘。本当は今すぐ消え去りたいくらいに緊張している。それも今じゃなくて、玄関を上がる前からだ。
 どうしよう、なんて弱音を言いそうになったとき、頭を優しく撫でられた。慰めてくれてるみたいだった。
「急にごめんね。でも今日じゃないと、僕がダメな気がしたんだ」
 何が、というのは聞かなくても分かる。だってそのためにあたしは呼ばれたんだもの。
「ううん。そんなことは、」
 ふと顔を上げると、思いのほか大和くんの顔が近くにあって、言葉が途切れた。じっと見つめられて、緊張とはまた別に、ドキドキと鼓動が早くなる。
「なに?」
 あまりにもじっと見つめられたから尋ねてみると、いたずらっ子のような顔で笑って大和君が言う。
「キスしても良い?」
「だっだめ! 無理!」
 なにをいいだすんだこのひとはいったいなにをかんがえているんだふつうにかんがえてそんなことできるはずないじゃない!
「ふふ。残念」
 なにがざんねんなんだひとのきもしらないでこっちははずかしくてしにそうだったんだから……。
 ――……。
 あれ? もしかして冗談?
「兄貴、帰ってんの?」
 唐突に呼びかける声とドアが開く音が同時に聞こえた。
 驚いて肩が震えた。大和くんは気づかなかったのか、気にしないでくれたのか、あたしの反応はスルーしてドアの方へと振り返る。ちょうど大和くんはドアに背を向けた状態だった。
「うん、さっき帰ってきた。直は? 父さん達も一緒?」
 答える大和くんの肩越しに見えた彼は、たぶん大和くんの弟さんだ。あまり話題に上ったことはないけど、高校生の弟がいる、と大和くんが言っていたことを覚えていた。記憶が正しければ、大和くんが家族のことを打ち明けてくれた時に、弟さんのことも言っていた、と、思う。大和君とはあまり似てなくて、細身で切れ長の目が印象的な弟さんは、だけどやっぱりモテそうな容姿をしている。タイプは違うけど兄弟揃って美形なんだなぁ。
「途中で一緒になった。年越しそば食べるんだけど、兄貴……は、どうする?」
 低めの声は少し冷たくも感じる。大和くんの柔らかな口調に慣れているからかな。大和くんみたいにニコッとも笑顔を見せないで、あまり愛想を振りまくタイプじゃないようだ。ちょっと怖い、かも。
 チラッと目が合った。睨まれたわけでもないのにあたしはびっくりして体が固まってしまった。これは……人見知りが発動しているんだ。
「下りるよ。彼女も一緒に下りるから、一つ多めに用意してって伝えてくれる?」
 大和くんは何でもないようにさらっと言ったから、一瞬弟さんは細い目を若干丸く開いて、分かった、と頷いた。
 もう一度目が合う。今度はちゃんと弟さんの目を見れた。軽く会釈をしてくれたので、あたしも慌てて頭を下げた。
 バタンとドアが閉まる。途端にほっと体の力が抜ける。
「あれ、弟の真」
「そうなんだ。背、高かったね」
「そう? 僕と同じくらいじゃないかな」
「へぇ。細いから高く見えたのかな?」
「細いっていうか、薄いだけだと思うけど」
 確かに、大和くんも細い方だものね。――あたしと違って。
「じゃあ下に行こっか。大丈夫?」
 大和くんは立ち上がって意地悪っぽく笑みを浮かべた。でも心配してくれてるのはよく分かる。
「うん。大丈夫だと思う」
 これは嘘じゃない。大和くんと喋ったら少しだけ力が抜けたみたい。でもまた人見知りは発動すると思うから、その時は思い切り愛想笑いを浮かべよう、と心に決める。
 あたしも立ち上がる。心情はまさに戦へ向かう兵士そのものだ。
「……いや、そこまで気合入れられることでもないんだけど」
 ちょっと大和くんに引かれてしまった。顔に思い切り出てたみたいだ。失敗、失敗。
 気を改めて引き締めて。大和くんの後について階段を下りていく。ゆっくり歩いてくれてるのは気遣いからなのかな? 逆に怖いんですけど。うう。
 階段を下り終わると、玄関に上がった時左側に見えたドアの前に向かう。大和くんが静かにドアを開ける。
 カチャッとドアノブを回す音が、あたしにはやけに響いて聞こえた。
「お帰り、大和」
 リビングに大和くんが顔を覗かせると、すぐに男の人の声が聞こえてきた。割と渋めの声は、弟さんのそれでもなかったから、これが大和くんのお父さんの声だとすぐに分かった。
 すぐにリビングへ入っていく大和君の後についていきたかったけれど、やっぱりどうしても躊躇ってしまう。少し遅れてリビングに足を踏み入れた。
「っお邪魔してます」
 言葉が喉につっかえそうになりながらも頭を下げてお辞儀をする。顔を上げて改めてリビングの中を見た。
 ダイニングと一緒になっているリビングには、ソファとテレビが壁際に向かい合って置かれていて、ターンテーブルがその横の窓際にある。ソファには弟さんが座っていた。近くのダイニングテーブルの方に大和くんのお父さんが座っていて、あたしと目が合うとにっこりと微笑んでくれた。優しそうな笑みは大和くんによく似ている。体形はふくよかな方でガタイもよく、体形は兄弟のどちらにも似ていなかったけれど。それに正直……大和くんのお父さんは美形、とは言い難い。ここの兄弟はどちらもお母さんに似たんだろうか。
「いらっしゃい。君が大和の彼女だね。はじめまして、大和の父です」
 うわ、中身はそのまま大和くんみたい。口調とか、話し方とか。
「はじめまして。藤崎椿です」
 もう一度ペコリと頭を下げる。名前を名乗ったら僅かに目を丸くされたけど、そんなこと気にならなかった。それよりも心拍数の上がりすぎで体が熱いくらいだ。
「藤崎さん? 面白い子を連れて来たね、大和は」
「まぁね。それより母さんは?」
 ニヤニヤと笑みを浮かべるお父さんに肩を竦めて見せた大和くんは、チラリとキッチンの方へ顔を向けた。カウンター式になっているので、ここらだと後姿が半分ほどしか見えない。大和くんがリビングへ入ってからも声を掛けることはなく、一心不乱に作業をしている。……いつも、こんな感じなんだろうか?
「それより大和、コートくらい脱いだらどうだ。暑くないか?」
 暖房も入っているのに、とお父さんに言われて、あたしは初めて自分がまだコートもマフラーも帽子も何一つ脱いでいなかったことに気づいた。そりゃ暑くなるはずだわ。汗も滲んでくるはずだわ。緊張のせいだけじゃなかったんだ。
 でもあたしだけじゃなかったってことは、きっと大和君もあたしが思っている以上に緊張していたのかな……。
 急いで全て脱ぐと、お父さんに促されるまま二人してダイニングテーブルへと席に着いた。弟さんは相変わらずソファでテレビに集中している。カウントダウンテレビだ。CMが終わってトークに入っている。ってそうじゃない。あたしがテレビを見たらだめだ。
「付き合って1年だって聞いたけど」
 大和くんとあたしが隣に座って、大和くんと大和くんのお父さんが向き合う形になっている。お父さんはあたし達を交互に見ながらそんなふうに口を開いたので、はい、とあたしは反射的に頷く。でも答えたのは大和くんだった。
「こっちの高校のクラスメイトだったんだ」
 それだけであたし達の関係は分かったんだろう。お父さんは納得したように大きく首を縦に動かした。
「きっと大和からアプローチしたんだろう?」
「え、どうして分かるんですか?」
 驚いて聞き返すと、お父さんは面白そうに口元に笑みを浮かべて、悪戯っぽく大和くん方へ視線を向ける。大和君に顔を向けると、居心地の悪そうな顔をして、あたしと目が合うとすぐに逸らされてしまった。二人で分かち合った雰囲気で、あたしだけがキョトンとしている。
「子どもの性格くらいは分かっているつもりだからね。それに椿ちゃんは自分から告白していくようなタイプには見えないし」
 見抜かれている。
 それに「椿ちゃん」だって……。大和君に最初に声を掛けられたときのことを思い出した。
「椿ちゃんは今大学生?」
「はい。O大です」
「ああ、近くだね。学部は?」
「国文学です」
「ふうん。国文ってことは古典とか?」
「そうですね。古代の万葉集から古典、近世、近代をやってます。あと漢文とか国語学とか」
「国語学って?」
「えっと……日本語の歴史とか方言とかについてです。ひらがなの成り立ちとか」
「へぇ。面白そうだね」
「はい、面白いです。最初はあまり興味なかったんですけど、今は国語学でゼミを取ろうかなって思ってて」
 あ、そういえばこういうことって、あまり大和君と話したことないなぁ。大和くんはゼミってどうするんだろう? 他の大学だと全然違うから話も噛みあわなかったりするけど、知らないっていうのもだめだよね。今度聞いてみよう。
「でもそしたら大和とは遠距離だよね。連絡はよく取ってるの?」
「心配しなくても大丈夫だよ。メールは毎日してるし、電話もかけてる」
 お父さんはあたしを向いていたけど、答えたのはムスッとした声の大和くんだ。可笑しそうにお父さんの視線が大和君に向けられる。
「毎日?」
「……じゃないけど」
「まあ、二人の問題だからな」
 そう言われてしまうと、あたしも大和君も何も言えなかった。でも、大和君がそっと向けてくれた視線が「大丈夫だよ」と言ってくれてるようで、あたしはちょっと嬉しかった。もちろん不安とか、寂しいとか、言えない感情はあるけど、大和君が大丈夫だと言ってくれるなら大丈夫に思える。だからあたしは大丈夫だと胸を張って言えるんだ。
 それからよく読む本について聞かれて、好きな推理小説家を答えると、意外にもお父さんと意気投合してしまった。来期に映画化される作品の話題になると、二人して熱く語ってしまい、チラリと視線をやった大和くんはつまらなさそうに頬杖をついていた。
 そうしている内にお蕎麦が出来たようだ。大和くんのお母さんがキッチンから出てきた。
「すみません、運びます」
 慌てて立ち上がってお盆を寄越してもらう。――しまった。料理しているの分かっているんだから、最初から手伝うべきだった!
 あたしが手を伸ばすと、大和くんのお母さんは少し躊躇い、困ったように眉根を寄せながらも、黙ってお盆を預けてくれた。良かった。拒まれなかった。
「椿ちゃんはお客さんなんだからそんなことしなくて良いのに。真、手伝いなさい」
 お盆から丼を下ろし、テーブルへ置いていく。お父さんはそう言ってくれたけど、やっぱりここはカノジョとして動かねば!
「良いですよ、俺がやります」
 張り切ってお盆をキッチンに持っていこうとすると、弟さんがさり気なくあたしの手の中からお盆を奪っていった。
「でも……」
「真、良いわよ。席に座って」
 あたしの抵抗しようとした言葉に重なって、大和くんのお母さんが声を上げた。高すぎない綺麗な声だった。黙ってその場を離れて席に着く弟さんの後ろから、キッチンから出てきたお母さんの姿が現れる。――美人だ。
「どうぞ、座ってください」
 丁寧に席へ促され、そのまま腰を下ろす。あたしの前に弟さんが来る。元々四人掛けのテーブルだったので、お母さんはキッチンからもう一脚持ってきて、テーブルの角に座った。ああ、なんだかすみません……。
 お蕎麦が美味しそうに湯気を立てている。
 実際、薄味で美味しかった。今まで父方の実家ではインスタントが多かったから、こういう本格的なのは久しぶりで、余計に美味しく感じられたのかもしれない。それに絶対、大和くんのお母さんは料理上手だ。間違いない。
 食べている間はほとんどが沈黙だった。大和くんのお父さんも、蕎麦が来る前はよく喋っていたけれど、食べることに集中しているようだ。弟さんはずっとテレビに夢中だし。うちの煩い食卓とは全然違うんだなぁ。ていうかうちは母親が食事の時の会話を大事に思っている人だから、皆が黙ってしまうと耐え切れなくて突いてきたりする。そうやって比べるとちょっと面白い。
 それにしても大和くんのお母さんは美人だ。切れ長の目は弟さんとそっくりだし、でも顔の小ささは大和くんが受け継いでいる。全体的に見れば弟さんがお母さん似で、大和くんがお父さん似なんだな、と勝手に判断する。いやそれにしても美形親子だ。すごいぞ。
 結局、特に会話らしい会話もなくお蕎麦を食べ終えた。
 美味しかったけど、沈黙の中でする食事があまり味気ないと思ったのは、育ってきた環境の違いだからかな?
 だいたい皆が食べ終わると、見計らうようにお母さんが丼を集めて立ち上がる。
「母さん、話があるんだ」
 大和君が意を決したように口を開く。けれど、聞こえなかったのか、お母さんは丼をお盆に乗せる手を止めることはなく、二つ乗せ終えるとキッチンの方へと行ってしまった。いや、気づかなかったはずはないんだけど。
「母さん!」
 声を大きくして大和くんが立ち上がる。それでも大和くんのお母さんは返事をしなくて、三つの丼をお盆に乗せると再びキッチンへと入ってしまった。
 大和くんの震える拳が視界の端に映る。弟さんも、大和くんのお父さんも、どうして何も言わないんだろう。というか、お母さん……完全に無視しているよね、これ? なんで? 関係が上手くいってないとは聞いてたけど――想像していたのとは違う。全然違った。
 どうしていいか分からなかった。大和くんはキッチンを睨んでるし、弟さんとお父さんはどちらをフォローするわけでもない。もちろんあたしが声を掛けられるはずもなくて。
「あ、あの、手伝います!」
 とりあえず勢いをつけて手伝うと言った。キッチンへ入ってみるけど、そこでも何をしていいか分からない。
「あの、手伝います。何したら良いですか?」
 怖くて声が小さくなってしまったけど、振り返ってくれたので聞こえなかったわけじゃなかったようだ。ほっとした。
「……洗浄機があるから大丈夫です」
 断られた。
「そ、そうですか」
 瞬殺。
 撃沈。
「母さん、俺、朝言ったよね。少しくらいは答えろよ!」
 すごすごとあたしがテーブルに戻ってくると、いよいよ抑えきれなくなったように大和君が声を荒げた。
 俺、と言った大和くんは、前に一度だけ聞いたことがある。あたしが絡まれてキレた時だ。でも、様子は全然違っている。これもキレているということなのだろうか。
「大和」
 静かに、重みのある声で制したのは大和くんのお父さんだった。
「そろそろ時間も遅い。一応顔は合わせたし、椿ちゃんを家に送っていってあげなさい」
 お父さんが言わんとしていることは、あたしにも分かった。
 言外にあたしを帰らせろと言っているんだ。きっとお母さんの態度についても、お父さんが一番理解しているんだろう。
「でも、俺はちゃんと紹介するって言っただろ! なのになんで、椿ちゃんに対してもあんな……」
「落ち着きなさい、大和。母さんには父さんからも話しておくから」
「何をだよ! 父さんが何かを言って母さんの何が変わるって言うんだ。今までだって一度もそんなことなかったくせに!」
 噛み付くような勢いの大和くんに、お父さんは困ったように眉根を下げる。
 こんなに苛立っている大和くんを、あたしは初めて見た。
「最低だ。どうして普通のことができないんだ。彼女を紹介するだけだろ、話を聞くくらい、してくれてもいいんじゃないのかよ」
 うん。そうだよね。完全に無視するなんて、普通の親子の関係じゃないよね。どうしてダメなんだろう? お蕎麦はちゃんと用意するし、大和くんの分もちゃんと片付けるんだから、存在を否定しきっているわけでもない。嫌い、のような単純な感情でもないんだろう、とは思うんだけど。
「行こう、椿ちゃん。家まで送っていくよ」
 機嫌が最高潮に悪いと分かる声音で大和くんは言って、あたしの腕を掴んだ。慌ててコートとマフラーとバッグを手に持つと、待っていたかのようにリビングから引っ張り出された。
「ごめんね、椿ちゃん。わざわざ来てもらったのに、最後は嫌な思いをさせてしまったね」
 玄関でコートを着ているあたしに、お父さんが声を掛けてくれた。
「いえ、そんなことは! お蕎麦、とても美味しかったです」
「また是非遊びに来てね」
「はい。ありがとうございます」
 頭を下げてお礼を言うと、お父さんも笑みを浮かべて一つ頷いてくれた。
 あ。
「ごめん、大和くん、ニットの帽子忘れちゃった」
 不意に思い出し、急いでお父さんの横をすり抜けて慌ててリビングへ戻る。ニットの帽子は椅子のところに放っておいたままだった。危なかった。
 一息ついたところで顔を上げると、大和くんのお母さんと視線が合う。
「あ、お蕎麦ご馳走様でした。とても美味しかったです」
 お父さんにした時のようにお礼を言って頭を下げる。大和くんのお母さんは何も言わず、ただじっと立っているだけだ。……このまま立ち去っても良いんだろうか。
 あたしが真剣に悩んでいると、一歩、大和くんのお母さんが近づいてきた。
「……」
 何を言うでもなく、お母さんは一歩前に進んだだけで、それ以上は動かない。
 あたしから話しかけようかとも思うけど、何を話題にしていいかも分からない。お邪魔しました、で良いかな? 良いよね? このまま帰っちゃっても良いよね?
――あぁっ、だめだ。良いよね、って自分で思ってもそれが正しいのか分からないと実行に移せない!
「……椿さん」
 あたしが頭の中で自分と格闘していると、大和のお母さんの小さな声が耳を掠めた。ハッとして思考を止める。
 っていうか今、名前、呼ばれた?
「大和は、元気でやってる?」
「えっ、あ、はい! 向こうでも頑張ってるみたいです」
 咄嗟に答えてしまったけれど、どうしてあたしに聞くんだろう。
 でもそんなことは聞けずに、ホッとした様子を見せたお母さんに、あたしも少しだけほっとした。やっぱりお母さんは大和くんを嫌ってるわけじゃないんだ。ちゃんと心配もしてるんだ。なのにどうして大和くん自身の言葉を無視するのか不思議だけれど。
「お邪魔しました」
 ペコッと頭を下げる。今度はちゃんと言えた。
 良かった。
 玄関へ戻るとすっかり大和くんは準備万端なようで、早く、と手招きをして急かしてきた。慌ててあたしが靴を履くと、背中から可笑しそうにするお父さんの声が聞こえてくる。……笑いを噛み殺しているの、バレバレですよ。
 振り返ってもう一度お辞儀をする。
「お邪魔しました」
「またおいで」
 手を振るお父さんに、大和くんは「じゃあ」と一言だけ発して外に出る。お父さんも大和くんには「ああ」と言っただけだった。
 外に出るとすっかり朝日が家の屋根の下から覗いていて、空は綺麗な紫色をしていた。
「良いお父さんだったね」
 大和くんと並んで歩く。暖かな手があたしの冷たい手を包んで、ぎゅっと握る。
「まぁね。でも結局、目的は果たせなかったけど……」
 せっかく椿ちゃんに無理言って来てもらったのに、とブツブツ言う大和くんは、眉根を寄せて不満そうに顔を歪めた。
 最後に聞いたお母さんの言葉を知ったら、この表情はどんなふうに変化するんだろう。
 本当はお母さんも大和くんのことを思ってるんだよ。どうしてそれを大和くん自身に伝えないのかは分からないけど、ちゃんと大和くんの言葉は届いているんだよ。――あたしがそう言ったら、大和くんは嬉しいかな。「だったらどうして」と怒るかな。
 どっちにしても、お母さんが大和くんを心配していたこと、伝わったら良いな。
 あたしはそんな気持ちを込めて、大和くんの手を強く握り返した。少しでも伝わったら嬉しいな。

F I N .

ご精読ありがとうございました。
この話は投票企画の際に頂いたコメントがきっかけで出来ました。
楽しんでいただけると嬉しいです。
また、5年目もよろしくお願いいたします。
2010.8.8. up  美津希