Je t'aime

Je t'aime特別編 ※本編読了後にお読みください。

Un Souhait


 大和がダイニングに入れば、既に朝食の用意は出来ていた。母親は大和がドアを開けたことも気に留めず、次々と食器をテーブルに並べていく。後ろから父親の気配がして、大和も慌てて席に着いた。
「今日は早いの?」
 新聞を広げながら椅子に座る父親に、母親がご飯を盛った茶碗を渡しながら尋ねた。
「分からん」
「遅くなるなら早めに連絡してよ? あ、真、今日は小テストでしょう。勉強したの?」
 真は大和の弟である。大和が公立高校へ転校したのに対して彼はそのまま私立の高校に残っている。だから真の時間割は母親の記憶にそのまま残っているのだろう。面倒くさそうに顔を歪ませて卵焼きを箸で掴んだ。
「した」
 至極簡潔に答える息子に不満なのか、母親は小さく溜め息を吐く。そしてそのまま台所へ入り、幾つか洗い物を済ますとエプロンを取りながらダイニングテーブルへと戻ってきた。
「この前の小テストもあまり良くなかったじゃないの。ちゃんと家庭教師付けるとか、塾に行った方がいいんじゃないの?」
「いいよ、別に」
 真はぶっきらぼうに答えてご飯を口の中にいっぱい含んだ。またか、とうんざりする。
「何、その言い方は。心配してるんじゃないの」
 独り言のように呟いて彼女もようやく箸を持ち上げた。こういうときはダンマリを貫いた方がいいのだという事を、この場にいる彼女以外の人間は既に学んでいた。
 食べ終えた大和は何も言わずに席を立った。誰も何も言わず、その動作を気配だけで見ていた。
「真、早く食べなさい。お父さんものんびりしてて良いの?」
「分かってるよ」
 真が言い返し、父親は黙ってコーヒーを飲み干すと食べ終わったとばかりに新聞を畳んだ。
 食器を台所へ運んだあと、大和はダイニングへ戻った。真は空になった食器をそのままテーブルに置いて立ち上がったところだった。父親は畳んだ新聞をテーブルに残してソファの上に置かれていた自分の荷物を確認しているところだった。
「あのさ」
 今日初めて発した彼の声に、真が顔を上げた。父親は振り向き、母親は黙ったまま食事を続けている。
「アタ……、俺、大学は関東のところを受けるから」
 大和が自分の進学に関して家族の前で打ち明けたのは、この朝が初めてだった。学校では何度か個人的に担任と話し合っていて、既に行きたい学部も見え始めていた頃だった。
「家を出るの?」
 驚いた声を出して真が聞いてきた。
「そのつもり」
 大和が頷くと、真は「いいなぁ」と本音に近い呟きを漏らした。
「どこに行くんだ?」
 それを聞いたのは父親だった。昔から顔に感情というものが出ない人だったけれど、やはり今も何を思っているのか表情を見ただけでは分からない。
「M大の、法学部がいいと思ってて」
「M大……」
「うん」
「えっ! M大の法学部ってめちゃくちゃ有名なとこじゃん!」
 大和が頷いたのと真が素っ頓狂な声を出したのはほぼ同時だった。「すげー!」と一人興奮している弟を無視して、大和は父親の反応を見ていた。やはり反対されるだろうか。そんな金のかかることはやめろと言われるだろうか。
「あそこは博隆叔父さんが通っていた大学でもある。何かあれば相談するといい」
「うそ! 叔父さんも!?」
 大和も驚いたが真の方が反応が早かった。藤崎博隆は大和の父の弟である。そんな身近な人物が自分と同じ進路を選んでいたことは嬉しくもあり、自分が二番煎じのようで悔しくもあり、しかし何より相談しろと父親が言ったことに安堵した。つまり一人暮らしのことも大学へ進むことも許してくれたのだ。
「二人とも何してるの。早く支度しなさい、遅れるわよ」
 音を立てて母親が立ち上がる。ピシリと言い切る声に3人は口を閉じた。
 嬉しさを感じていた大和の胸は急に冷たさを覚えた。それは冷え切った彼の心なのか、それとも彼女の声に対してか、自分でも判断できなかった。

 年が明ければセンター試験はすぐだ。その少し後に一般入試が始まる。だから大和は椿に会わないことに決めた。一種の願掛けのようなものだった。
「え、初詣?」
 その誘いがあったのは元日の翌日、2日の朝だった。大和は思わず受話器を見つめた。
『そう。ヤマト、今年はこっちにいるんだろう? クラスの何人かと一緒に行こうって修司が言い出してさ。もう行った?』
 大和に電話を掛けてきたのは篠原洋介だ。彼は学級委員になったのは前期だけだというのに、校外で集まるときはいつもこの役回りが来る。もちろん企画するのはその相方と言うべき森岡修司なのだが、大和にしてみれば羨ましい関係である。
「まだ行ってないけど……」
『良かったぁ。ほとんどの連中が元日に行っていてさ、正直集まり悪いんだ』
 心底安堵した様子の篠原に、大和は少しだけ顔を歪めた。
「でもそれ、椿ちゃんは来ないわよね?」
 思わず小声になってしまうのはしょうがない。ここは家の中で、家族に椿のことは何一つ、彼女の存在すら話していなかった。
 大和にしてみれば弟の真ならいざしらず、あの父親と母親に聞かせてしまっては椿が穢れてしまいそうな気がして、話したくないというのが本音だった。
 そんなことを知らない篠原は少し様子の違う大和を不思議に思った。
『藤崎さんはヤマトが誘うだろう?』
「誘わないわよ、アタシ」
『えっ、そうなの?』
 当然彼女と初詣に行くだろうと予想していた彼にとって大和のセリフは意外なものでしかなかった。二人は付き合っているのではなかったのかと一瞬疑い、しかしすぐにそれは無意味な疑問だと気づく。あの態度で付き合っていないわけがない。もちろん、椿が振り向いていないとも考えられない。彼はずっと、それこそ大和が椿に目をつけていた頃から彼女を見て――もとい見守っていたのだ。椿の大和に対する態度の微妙な変化を見逃していないわけがなかった。
「アタシ今、椿ちゃん断ちしてるの」
 だからその言葉は、すぐには理解できなかった。“ツバキチャンダチ”? なんとか断ちというのは、アレか、目標の達成のために好きなものをやめるという、アレなのか?
『……なんで?』
 それは当然と言えば当然の問いだったように思う。篠原は自分の発した問いかけが鼻で笑えるようなものではないことを確信しつつ、どこかで馬鹿馬鹿しく思う自分を遠くから見ている気分だった。
「だって春からは頻繁に会えないのよ。離したくなくなっちゃうじゃないの」
『……へぇ……』
 篠原は胸が詰まりそうな感覚に眩暈を覚えながら、それじゃあ9時に駅で待ち合わせだからな、と必要事項だけを言って電話を切った。
 携帯電話を閉じると、大和はベッドへ仰向けになって天井を見上げた。
 あと半月もすれば一般入試が始まる。合否はバレンタインのすぐ後、県外の受験者は郵送で知らされる。あと、1ヶ月半月で全ては決まるのだ――。はあ、と大和は低い部屋の天井に向かって大きく息を吐いた。
 目を閉じればいつだって笑顔、泣き顔、困った顔、恥ずかしがる顔、いろいろな表情の彼女が浮かんでくる。いつだって触れられていたのに。

 けれど、それ以上に、この家には居られないと思った。

「兄貴――」
 ノックと共に真の声が遠慮がちに聞こえて、大和はゆっくりと体を起こした。まだ今は8時を回ったばかりで誰も出かけていないのに、さらに言えば母親が家の中に居る時に彼が大和の部屋へ入ってくることなど、こちらへ越してきてからは一度もなかった。
「何?」
 大和が返事をすると、そっと部屋へ入り、ドアの前で言い難そうに言葉をついた。
「兄貴、初詣に行くの?」
「……聞いていたの」
 大和が言うと、真は首を振って慌てた。
「や、じゃなくて、盗み聞きじゃなくってたまたま、その」
 その慌てぶりに大和は思わず噴出した。いつまで経っても真は真だった。昔から彼は嘘を付くと早口になる。
「いいわよ、別に。あんたも行きたいの?」
「えっ」
 真が驚くので、違うの? と首を傾げる。
「だってカノジョとだろ、行くの。俺はいいよ」
「何言ってるの。行くのは友達とよ」
「だってツバキちゃんがどうのこうのって。カノジョだろ、そのツバキって人」
 そこまで聞いていたのかと半ば呆れ、だけれど大和は首を横に振った。実際行くのは篠原や森岡たちとだ。
「ねぇ真、彼女のことは――」
「何してるの、真!」
 大和の言葉を遮るように母親が勢いよくドアを開けて真に怒鳴った。驚いて一歩引いた真は、兄と母を交互に見て小さく肩を落とした。母がこうして兄の部屋へ自分が入ることを良く思っていないと態度で表すようになったのは、何も最近のことではない。だから興奮気味の彼女に何を言っても無駄だという事も分かりすぎていた。
「何もしてないよ。なに、朝ごはん?」
 気だるそうに答える真に母は取り乱した自分を落ち着かせようとしながら頷いた。大和の方へ一切視線を向けないようにしているのが白々しくて、大和は思わず顔を歪めた。
 どうして? アタシが――自分が――俺が――何をしたというのだろう?
 その問いにいつも浮かぶのは祖母の優しい笑顔だった。

 駅から真っ直ぐに大通りを抜けると小さな、けれどこの町では一番の神社が坂の上に鎮座している。鳥居は道路を跨ぐように存在していて、意外と地元民はそれが鳥居なのだということに気づかない。何十という段を上りきれば再び小さな鳥居が現われ、厳かに礼拝客を招いていた。
「やっぱ2日目は空いてるなぁ」
 森岡修司の言うとおり、確かに境内にはあまり人の姿はなかった。とはいえ通常よりはやはりそれなりの賑わいを見せていたが。
 集まったのは結局クラスの男子数人と女子がそれよりも若干多いだけの、ごく少人数だった。皆家族の田舎へ一緒に帰省しているらしい。
「ほんとに藤崎さんを誘わなかったんだ」
 篠原が驚いたような呆れたような様子で大和に声を掛ける。まあね、と大和は曖昧に微笑むだけだ。誘わなかったどころか、新年の挨拶メールすら簡素なもので済ませてしまっていた。そのことに少し後悔しているところだった。せめて気の利いた文句でもあれば良かったのかもしれないが、優しさなのか遠慮なのか、椿からのメールも自分の入試や今後を応援してくれているもので終わってしまっている。もう少し恋人らしい甘い空気を出したいのに、どうしてこうも上手くできないのだろう。
「まあ、少し離れてちょうどいいのかもしれないけどな、ヤマトの場合は」
 森岡が横からカラカラと笑って言った。大和は不思議そうに首を傾げる。
「なにそれ?」
「前もさ、藤崎が他の男と喋ってただけですっ飛んで行ったじゃん。ああいうの、当てられるこっちは堪ったもんじゃねえもん」
 夏休み前の棚口とのことを言っているんだな、と篠原は思った。当の大和にしてみればいつのことを言っているのか分からなかったが、言っていることは何となく理解できる。要は独占欲が強いとか過保護だとか言いたいのだろう。けれど、それはどうしたって抑えられなくて、離れれば尚更強くなるだけのような気がしてならない。
 そんなことを話しているうちに大和たちの列にようやく順番が回ってきた。
「やっぱここは皆で合格祈願だろ」
 小銭を投げ入れ、カランカランと重たい鈴を鳴らす。正月に残っている大半は親戚もこの地域に住む根っからの地元民か入試を目前に控えた入試組のどちらかだ。そのことを分かっているから誰も何も言わずに手を合わす。
――アタシも、皆も、志望の大学に合格できますように。
 正月に神社へ来て神様に報告するのは、自分の欲望ではなくてその年の抱負である。できますように、と続く言葉は『願い』ではなくて『がんばります』という意志。大和はそんなことをどこかで聞いたなと思い出しながら、ならば、と隣で手を合わしている友人を見て、もう一度目の前の神様に手を合わした。
――それから、椿ちゃんと一日でも長く一緒にいられますように、がんばります。

 だからどうか――。

 結局最後は願いになってしまうのだけれど、と苦笑しながら、大和は顔を上げた。誰を祭っているかもよく分からない神聖な建物が、優しく微笑んでくれている気がした。

+++ FIN. +++