悪戯編
買ったばかりのニット帽を被り、すみれは鏡の前で数回角度を変えて確認する。おかしなところはないようだ。
「すみれ、どこか行くのか?」
ベッドの上で胡坐をかいていた朱雀が尋ねる。すみれが念入りに鏡の前にいることはとても不自然だった。
「うん。今日は立木君と美術館行くんだ。モネの絵画展がやってるんだって」
「二人でか?」
頷くすみれを見れば、朱雀は目を細めて隣に座る六合に視線を向けた。ビクリ、と六合の体が固まる。朱雀からの視線がとても痛かった。
「ふぅん。まぁ、楽しんで来なよ」
「うん!」
笑顔で頷くすみれに朱雀も笑顔を浮かべる。
それじゃ行ってくるね、と部屋を出るすみれを見送る朱雀は、しかし一緒に出て行こうとする六合の首根っこをがっしりと掴んだ。
「お前は残るんだよ、な?」
底から這い上がってくるような低い声で囁かれ、六合は首を縦に動かすしかなかった。
黙っていた六合が悪い。ということで、朱雀は代わりに天后をすみれに付けさせ、じっくりと六合ににじり寄る。吐き出させることはとても簡単だ。朱雀はわざとらしく微笑んで見せた。
「――遅い!」
言われた場所に着いた途端、朱雀に怒鳴られた。それはないだろう、と大河は表情を険しく歪めた。突然朱雀から呼び出され、すみれが緊急事態だと言われ慌てて飛び出してきたのだ。式神を全てすみれに付けさせているため、それこそ全速疾走だった。校内のマラソン大会でもこれほど真剣に走ったことはない。
なのにその言い草はないんじゃないか。呼吸過多で上手く息ができないまま、ぎろり、と恨めしく目を細める。だいたい何が起こったのかさえ把握していないままだ。そのことにも大河は不満を抱いている。
「これでも……努力はしたんだ……っ」
ぜえぜえ、と大河は整わない呼吸を肩でしながら言った。外気はまだ冷えた冬だというのに、額には汗が浮かび、脇と背中はすでにやんわりと濡れた感触がある。
「そんなことよりアレ、アレ!」
朱雀と大河の間に緊張関係が生まれるのを阻むかのように遮る声が入った。天空だ。電柱の影に身を潜め、縮こまりながら、顔だけは前へ乗り出している。
「ようやく出てきたか?」
そう言ったのは白虎だった。天空の頭の上から顔を覗かせ、建物から出てきたすみれの姿を確認する。すみれと立木が揃って出てきたのはコンビニだ。用事があったのは立木の方だったらしく、小さなビニール袋を左手に持って現れた。
「何だ、あれは……」
二人の後姿を、大河は愕然とした面持ちで見つめた。一瞬息をするのを忘れる。
「何だろう? 食いもんかな?」
真剣な表情で天空はビニール袋を凝視した。当然透視できるはずもない。
「ガムとかお茶とか、そんなもんじゃねぇか」
白虎が真面目に答えると、朱雀がすかさず後頭部を叩いた。
「そんなことはどうだって良いんだよ」
「なんだよ、大河が『何だあれは』って言うから」
「そっちのことじゃありませんわ。たぶん」
可笑しそうにクスクスと声を洩らしながら、貴人が朱雀の後ろから出てきた。ぎょっと驚きの表情を見せたのは朱雀だった。貴人の横には相変わらず表情の読めない青龍が立っている。
「あら、お二人左の方へ曲がりましたわよ。早く追いかけないと」
貴人がそういった時には、既に天空と白虎は角の所まで寄っていた。先ほどと同じようにこっそりと顔だけを乗り出している格好は、後ろから見ればいっそう怪しく見えた。今は結界を張っていないため、傍から見ればいつ不審者と疑われても不思議ではない状況ではある。
「お前ら一体何の真似だ? すみれの隣の野郎は誰だ」
大河は我慢が出来ずに、苛立つ声で言い放った。
「説明は六合からさせるよ。それからどうするかは大河が決めてくれ。私らはすみれの後を追ってるから」
「あ、あたしぃ!?」
朱雀に肩を掴まれ、大河の前へ差し出された六合は、いやいやと首を振る。しかし大河から見下ろされ、その視線を受けると大人しく項垂れる。
「元はといえばお前が何も言わなかったからだろ。六合みたく私らは四六時中すみれの行動を把握してるわけじゃないんだから」
それだけ言うと朱雀は、貴人と青龍とともに足早に天空と白虎の後を追った。
残ったのは六合と大河だけだ。怯える六合に大河は優しく微笑みかける。六合の頬が強張り、引きつる。涙が出そうだった。
すみれと肩を並べて歩く男は立木という名らしい、ということを天空はぼんやりと思い出した。高校に通っていた頃とは違い、大河が傍にいる時間も少なくなってからは、なんとなく天空は暇を持て余していた。だからこういう機会は久々に暴れだせる絶好のチャンスだと思っていたのだが、存外に朱雀が手を出すなと強いるので、若干不貞腐れ気味ではあった。
「何やってんだ、天空。お前こういうの得意だろう?」
不意に背後から重低音が響いた。
「う、ゎ……っ!」
驚きのあまり叫びそうになるのを、誰かの手で口を塞がれる。
振り返ると間近に大河の顔があった。目つきは久しぶりに見る鋭いものになっている。天空はこういう表情の大河が好きだった。このときは何をやっても強く咎められることはない。
「まぁ、そう言うならやるけどさ」
ただ対象物が動いている時にやるイタズラは難しい。それを大河は分かっていないだろう。
天空は手始めに立木が持つビニール袋を狙うことにした。
自分の髪の毛を一本抜き取り、一振りすると、針のように鋭く硬くなった。それを軽く放り投げる。す、と風を切った。針となった毛は狙い通り、立木とすみれの間を通り抜け、ビニール袋に触れた。バサバサ、と突如裂かれた底から中の物が落ちていく。入っていたのはメモ帳1冊とボールペン1本だ。
予期しない事態に慌てふためく二人が見える。立木は素早く落ちたそれらを拾い上げると、照れ笑いのような表情を浮かべ、自分のショルダーバックに直す。ただのゴミと化したビニール袋もまとめてバックの中へ詰め込むと、心なしかその分だけ二人の距離が近くなったような気がした。
面白くない。大河は心底思った。
「しょぼすぎるぞ、天空。もっと派手にやんねぇと」
大河の心を代弁したのは白虎だった。見ておけよ、と得意げに言えば、ふっと右腕を鳴らす。
「きゃっ!」
白虎が大きく腕を振ると、途端に嵐のような強風が吹きぬけた。ブワッと音を立てるような風に、辺りの木々がざわつき、木の葉が舞う。風に煽られたすみれの髪も大きく揺れ、軽く被っていたニット帽が空へ舞い上がった。高く高く舞い上がった帽子は立ち並ぶ家の向こう側へと飛んでいく。
「馬鹿野郎! すみれの帽子飛ばしてどうすんだ。私らも見失ったじゃねぇか!」
朱雀が間髪入れず白虎の頭を叩く。
「悪かったよ! ちょっと力みすぎたんだ」
よほど後頭部への攻撃が強かったのか、涙目になりながら白虎が振り向く。
「さっさと追うぞ」
青龍が冷静に正論を放つ。帽子を追って走り出すすみれと立木に後れを取らないよう、大河は既に駆け出していた。
角を曲がると帽子が木に引っかかっているのが見えた。塀を越えて道路の方へ突き出している木の枝に引っかかっている。高さはそれなりにあり、二メートルの人間が思い切り背伸びをしても届くとは思えない程には高いだろう。二人はそれを見上げ、どうしたものか困ったまま、暫く立ち尽くしていた。
大河が目配せをし、白虎は腕をもう一度振り上げる。風がざわざわと向きを変えて吹き荒れるが、毛糸が葉に絡まっているのか、すみれのニット帽はなかなか落ちない。長くやらせても不自然なだけだ、と大河はすぐにそれを止めさせた。
脳裏で様々な方法を考えてみるが、どうしたって式神を使えばすみれには気づかれそうだった。大河は逡巡し、目を閉じ、意を決する。
「白虎、来い」
「え、あ、おい?」
しっかりとした足取りですみれの元へ進んでいく大河に、呼ばれた白虎を含め、朱雀も貴人も天空も驚きを隠せなかった。それでも口答えや疑問を投げかける者は居らず、誰もが黙ってその成り行きを見守るしかない。決めたのは大河だ。
「すみれ」
静かに大河が名前を呼んだ。すみれは振り返り、目を丸くさせた。立木の目が僅かに細くなるのを捉えつつ、大河は真っ直ぐにすみれを見る。
「こんな所でどうしたの?」
言ってから、大河はしまったと思った。正直に彼女の帽子を取ろうと思っていたのに、いざすみれを前にすると誤魔化そうとしている自分がいる。どこまで臆病者なんだ、と情けなく思う。しかし一度発した言葉をなかったことには出来ず、無理矢理にとぼけた笑みを顔面に貼り付けた。後ろの白虎はどんな顔をしているだろうか。呆れているのか、驚いているのか、確かめるのも怖くなる。
「あの、帽子が風で」
すみれが困ったように指を上に向ける。それしかないよな、と心の中で答え、けれど実際に大河がした事は、指先を追うように視線を移す。
「取ってあげようか?」
いとも簡単に大河は言ってのける。え、と驚きの声を上げたのは立木の方だった。
「取るったって、あんな高さ……」
「俺じゃ無理だけど。こいつ、跳躍力すごいんだ」
こいつ、と親指を向けられたのは白虎だ。そこでようやくすみれも彼の存在に気がついた。白虎、と叫びそうになったのを喉の奥で留める。すみれと視線が合った白虎は、面目なさそうな顔で、申し訳なさそうに後頭部を掻いた。後ろめたさがどうしても出てしまっている。
「頼むよ」
大河のその一言に白虎は頷く以外の選択肢はない。おう、と短く返事をした。
勢いよく地面を蹴って塀の上へ軽く飛び上がる。さらに背伸びをしてなるべく壊さないように丁寧にニット帽を持ち上げた。
塀から飛び降りた白虎は、葉などを叩き落としてからニット帽をすみれに渡す。ごめん、と心の中で謝る。
「あ、ありがとう」
特に毛糸がほつれたわけでもないようだ。そのことを確認したすみれは深く被りなおした。ほっと安堵の息が漏れる。すみれはこの帽子がとても気に入っていて、何度も店の前を行き来したものだ。
「そうだ。柴島くん、もし良かったら一緒に美術館行かない?」
「え?」
突然のすみれの申し出に嬉しいと思うよりも先に戸惑った。どうしてそうなるのだろう。
けれどよくよく考えてみれば、路線も違うこの場所に偶然通りかかったという言い訳は苦しすぎる気がした。この辺りは滅多に来ないし、何よりこの住宅街を越えても特に繁華街があるということでもない。すみれの鈍感さに感謝しつつ、大河は「ああ、そうだね」と有り難く便乗することにした。
「俺もちょうどモネの絵画展を観に行くところだったんだ。すみれ達が良ければ一緒に行きたいな」
大河がにっこりと微笑めば、すみれもいつものように嬉しそうに笑みを見せる。
「立木君もいいよね? もともと四人で行く予定だったから二人だとちょっと寂しいねって、さっきも話してたもの」
「……ああ、そう、だな……」
立木はすみれの笑みに釣られつつ、明らかに困ったように眉を下げる。
どことなく大河は彼に親近感を覚えた。と同時に、優越感にも浸る。まだ彼はすみれの“特別”ではないようだ。二人で居ても軽く大河を誘えるくらいの関係でしか、今は認識されていないのだろう。
ふ、と笑いがこみ上げるのが抑えきれない。
「おい、本当のところはどうなんだ?」
大河は立木の肩に腕を回し、顔を近づけて囁いた。何が、と立木が大河を怪しく見る。
「本当に4人で行くつもりで誘ったのか?」
「……そうだよ」
嘘だな、と大河は思う。肯定した立木の視線は、下へ落ちている。
大河は何も言わずに腕を離す。
白虎の方へ振り向いた。
「解散だ」
大河は白虎が頷くのを確認してから、すみれの方へ向き直った。何事もなかったかのように彼女の隣に立ち、行こう、と二人を促した。
今大河が出来るのは、こうしてすみれの隣に立ち、誰かとの間に割って入ることだけだ。すみれがそれを拒めば、どうすることもできない。まだ許してくれるうちは甘えていようと思う。
「ていうか帽子飛ばしたのって……」
ふと上目遣いにすみれが大河の顔を覗きこんだ。うん? と大河は首を傾げてみせる。ゴクリと喉が鳴りそうなのを我慢した。
「――ううん、なんでもない」
そしていつものようにすみれは前を見て歩く。
もしかしてばれていたのだろうか? 最悪の事態を大河は思い描く。
けれどその想像はすぐに打ち消した。何度か頭を振る。
許されているうちはまだ甘えていよう――。
≪ F I N. ≫
2010/2/28 up 美津希