彼と彼女と…

彼と彼女と二人の距離


 爽やかな朝に似合わないケータイのアラームが部屋に鳴り響く。
 雪野は気だるさが残る体を起こそうとし、それを背後から伸びてきたすらりと長い両腕で阻まれる。雪野の眉間に皺が寄せられるのと、辰巳の手が雪野の胸へ滑り込んでいくのはほぼ同時だった。
「あっ……、辰巳さん?」
 雪野の首筋にキスが落とされる。胸の膨らみは辰巳の長い指に挟まれて、昨夜の甘美な行為を思い出させるかのように動き出す。
「っちょ――だめ……」
 慌てて絡みつく彼の腕を離そうとするが、手の動きは激しさを増すばかりで一向に止めてくれる気配はなかった。むしろ雪野の抵抗を本気で捉えておらず、楽しそうに唇が首から肩や背中へと遊んでいく。雪野はイヤイヤと何度も頭を振って足をバタつかせた。
「ぁん、もう、だめだってば」
 辰巳は胸を掴む反対の手で彼女の腰を抱く。次第に彼の撫でる温もりが下がっていくのを感じながら、雪野は両手を後ろへ回し、辰巳の体を押しのける。昨夜の余韻が残っているのか、嫌がる声は弱々しく、辰巳にしてみればただの喘ぎ声にしか聞こえない。いよいよ彼女の唇が欲しくなって組み敷く体勢に入ろうとすれば、思いのほか強い力で押し返された。
「なんで? 今日土曜だし、学校は休みだろう」
 さすがに驚いて辰巳が尋ねれば、ムッと上目遣いで睨まれた。上気させた頬で見つめられても、辰巳には下半身への刺激にしか効果はなかった。
「学校です! 今日の講義出ないと研修に行けなくなるの」
 だから遅刻するとまずいので退いてください、と呆ける辰巳の下から無理矢理這い出た雪野は、テキパキと床に散らばった服を拾い上げて身に付ける。それをぼんやりと眺めていた辰巳は、雪野がジーンズを履き終えた頃になってようやく我に返った。
「研修?」
「え?」
 辰巳が呟いた言葉が聞き取れなくて、雪野はキョトンと振り返る。
「研修って何? どこか行くの?」
 それを聞いて、辰巳にはまだ話していなかったのかと気づいた。雪野としては随分と前から行くと決めていたことだったから、すっかり話していた気になっていたのかもしれない。しかし今は詳しく説明するにはあまり時間がなかった。
「夏休み辺りに語学研修があるんです。カナダに3ヶ月間」
「カナ――って、なに、必修なのか、それ?」
「いえ、必修ってわけじゃないですけど」
 言いながら手鏡で寝癖を確認し、問題ないと判断すると、荷物を簡単にまとめて支度を終えた。再び振り返れば辰巳は下着を履いただけでベッドの上で胡坐をかいていた。いつもの朝とは何だか逆で、変な気分だ。辰巳は仕事へ行く前、ずっとこうしてこの部屋を出て行っていたのだろうか。
「それじゃ、行ってきます」
 雪野はにっこりと笑みを浮かべて部屋を出て行く。
「あ……」
 辰巳は不意に、まだ彼女の唇にキスをしていないことを思い出して腰を浮かせる。
 が、伸ばした手は空を切り、パタンとドアの閉まる音が無情に響く。

* * * *

「どうしたんだよ、タツミ」
 いつになく不機嫌な辰巳を見て、三橋智久は首を傾げた。ここ最近ずっとそうだ。理由など昨年出来た香水の彼女しかいないと分かりきっているが、それでもあからさまに険しい表情を隣でされ続ければ、聞きたくなるのが人間の性というものだろう。
「いや、彼女がさ」
 辰巳の第一声を聞いて智久は内心呆れた。やはり案の定だ。
「カナダに語学研修で行くんだって言っててさ。3ヶ月」
「へえ。それで? 寂しいってショック受けてたわけ?」
 智久は素直に驚いた。香水の彼女が大学生とは聞いていたが、海外へ行くほど勉学に熱心な子だとは思っていなかった。フツウの、勉強も遊びもテキトウに楽しむ、智久の周りに居る学生とそう変わらない子を想像していたのだ。
「ショック……うん、そうかも」
 自分の気持ちを改めて覚えるように、辰巳はゆっくりと頷いた。智久は思わず笑った。
「え、まじかよ。自分は結構海外ロケとかも平気で引き受けるのに?」
 確かにそうだった。3ヶ月のロケを聞いたとき、辰巳も雪野には簡単な連絡事項しか伝えていなかった。仕事のことは雪野には分からないし、話して要らない心配をかけたくないからだ。
 けれど、逆もまた然りなのだ。雪野が学んでいることは大学へ行っていない辰巳には分からないことだし、語学研修の重要性は雪野自身にしか意味のないことだ。どうして、と思う前に気づくべきだった。そこに自分がショックを受けて落ち込むのは筋違いだ。むしろ応援してやるべきではないだろうか。
 そう思うと今までの己が可笑しくて、辰巳は知らず、喉を鳴らした。
「はは、そうだよな。自分のことを棚にあげて……」
 前髪をかき上げる仕草を途中で止め、そのまま目を閉じ自嘲する。急に雪野が自分の前から居なくなると知って感傷的になりすぎていたのだ。それだけだ。
 彼女の語学研修は夏休み辺りと言っていたからあと数ヶ月もあるのだ。それに、永遠に彼女が戻ってこないわけではない。
――その間にできることは多くある。雪野との未来を少しでも確実にするための布石を置くには、充分な期間だ。
 ふと気づいて、辰巳は自分で呆れた。
 最初はただの一目惚れだったのに、いつからこんなにも深く、重く、想うようになっていたのだろう。……そんな己も、嫌いではない。

* * * *

 朝からワイドショーは賑やかだった。見るでもなく付けていたテレビからは、1年以上の時を経て、モデル・タツミと若手女優Hが噂されている交際の事実関係をはっきりと否定した、との内容が流れている。『別れた、ということでしょうか』とインタビュアーが問えば、彼女はしっかりとした口調で『初めからお付き合いしていたという事実はなかったということです』と答えた。あまりに衝撃的だったその映像が、飽きもせず司会者によるコメント共に繰り返し流されている。
「いよいよ今日か、雪野との最後の朝は」
 まだベッドから出れずにいる辰巳は感慨深く雪野の体を抱き寄せた。
 雪野はくすくすと笑って頭を辰巳の胸に預ける。彼の心音が心地良く響いて気持ち良い。
「なんだか今日がお別れの日みたい」
「お別れだろ? 明日には雪野はカナダだし」
「でもすぐに帰ってきますよ。3ヶ月だけだもん」
「俺にとってはすごく長い。変わらないよ」
 けれど、と辰巳は言葉を続ける。キスも続けて、今の時間を惜しみなく味わう。
 雪野が辰巳の前へ帰ってきた時に、何の咎めもなくこの腕の中へ入れてしまえるようにしておくから、だから迷わずここへ戻って来い。二人だけの世界が広がる、この部屋へ。

≪F I N.≫

2009/12/26 up  美津希