彼と彼女と…

WEB-CLAPお礼画面掲載作品

彼と彼女と二人の未来


「長倉はどうするんだ?」
 事務所で休憩を取っている雪野に、そういえば、と何気ない口調で店長が声を掛けてきた。雪野が顔を上げれば、事務作業をしていた店長はキーボードを打っていた手を止めてこちらを見ていた。この時期に彼が話題にするのは一つしかない。
「まだ分からないです。ただバイトを辞めると生活できなくなるので、しばらくは辞めるつもりはないですよ」
「そうか。……どういう職種が希望なんだ?」
 ひとまず人手がすぐになくなる、という心配が解消されたことに安心したのか、彼はほっと肩の力を抜いた。そして後半の質問はおそらく、彼自身の興味なのだろう。雪野は困ったように笑って肩を竦めた。
「まだ具体的には……」
 広い意味での希望なら頭に描けているが、それを言葉にするのもなんだか恥ずかしかった雪野は曖昧に誤魔化した。彼もそれほど強く答えを望んでいなかったようで、彼女の答えに「そうか」と一つ頷いて見せただけだった。
「まぁ、焦る必要はないしな」
 雪野はまだ大学3年生で、気の早い学生は既に活動し始めているが、雪野の周りではまだ動きあぐねている友人の方が圧倒的に多かった。だから雪野自身も、まだしっかりと将来を見据えて考えているわけではなかった。それでもこの世の中の動きを肌で感じ、焦りを覚えることはあったのだけれど。
「はい」
 来年度からは大学4年生になる。大学の最終学年になるのはあと数ヵ月後のことだ。
 本格的に就職活動を始めるのも、きっと時間の問題であることは、雪野自身がよく分かっていた。

 選択肢としては3つ、大学生の雪野には進路がある。一つは企業に就職、一つは国家試験を受けて公務員として就職、一つは大学院への進学だ。
 金銭的理由により進学は真っ先に雪野の選択肢から外された。今から勉強をし直す気もなので、公務員も選択外だ。となれば企業への就職が最も無難で在り来たりで、そして確実な選択に思えた。
 問題は、その幅の広さだ。簡単に営業、事務、と分けても飲食店や建築、教育、製造、販売店など、職種によってその仕事内容も大きく異なってくる。当たり前のその事実に雪野は溜め息をつかざるを得なかった。高校生の時に受けた職業体験でもこれほど真剣に悩んだことはない。単に実感の違いだろうと分かっている。
 雪野の希望としては、英検を取得しており、せっかくTOIECも受けたのだし、海外留学も3ヶ月だけだが経験したので、それらを活かした職業に就きたいと考えている。自分の英語力が企業にどれ程役に立つものなのかは分からないが、今まで身に付けたものを無駄にはしたくなかった。ただ、どの職業でそれらが活かせられるのか分からない。翻訳、秘書、外資系企業の営業、海外事業部など、思いつくものはいくつかあったがどれもイマヒトツな気がしてならなかった。これは単に甘えているだけなのかさえ、判断できないでいる。

 バイトからの帰り道、迎えに来てくれた辰巳の車に乗り込んだ雪野は、ふと思い出した。辰巳と出会ったのはちょうど1年前、今日よりもまだ暖かい日で、いつもより少し浮かれた気分の時だった。最初はただの道案内だけのはずだったのに、こうして今も関係が続いているのは不思議でたまらない。
「ねぇ、辰巳さん」
 あの日に連れて行ってもらった曇り空の夜景を思い出しながら、運転席に座る辰巳を見上げた。1年前と変わらず辰巳は格好良い。タツミの存在はテレビCMで何度も見ていたから知っていたが、まさか彼がそうだとは思わなかった。本物のモデルと出会うとは、普通、思わないものだ。
「うん?」
 シートベルトを掛けると、小首を傾げて辰巳は雪野へ顔を向けた。視線が合って、それこそいつものことなのに、雪野は思わず顔を正面へ戻した。あの時はこんなに甘い視線を向けられるとは思っていなかった。たぶんこれは、嬉しい変化なのだろうと思う。
「今日は寄って欲しいところがあるんですけど」
 少し恥ずかしそうに雪野は言った。珍しい彼女からのお願いに、辰巳は頬を緩ませて頷いた。雪野がこうして辰巳に対して甘える行為を見せるのは、ベッドの上でもなかなかないことだった。辰巳はいそいそとアクセルを踏み、雪野の望む場所へと車を走らせる。辰巳自身も久々に行く所とあって、二重に気持ちが高鳴っていくのを自覚した。
 山道に入り、カーブが多くなる。揺れる車体を感じながらも、雪野は車酔いしていない自分に気づいた。辰巳が止め処なく会話を続けてくれていたからだと思っていたが、最近はあまりそれもなく、だからと言って気まずい雰囲気になるわけでもなく、今もこうしてBGMを流すだけだ。もともと車の運転が上手いのだというのがよく分かる。揺れる、と言っても曲がる時にほんの少し重力を感じるだけで、整ったアスファルトを滑るタイヤから振動が激しく伝わってくることはない。芳香剤がなく無臭に近い状態というのも関係しているのだろう。
 外から見る景色は闇に包まれてはっきりとは見えないが、そういった光景も懐かしい。時間帯を考えれば当然とも言えた。
 前の視界が広がり、駐車場に入ったのだと分かった。あの時と同様、数台の車が止まっていて、やはり今でも人気スポットであるのは同じなんだと微笑ましくなった。
「着いたよ。降りる?」
 ギアを戻して辰巳が問いかけてきた。雪野はそれに頷いて、シートベルトを外す。
「……さすがに、今はもう寒いな」
 車から降りた辰巳が、思わずといったふうに小さく身震いした。今の季節に当てはめるとすれば、辰巳と出会った頃というよりも、クリスマスのことを思い出した。昨年は辰巳に手袋をプレゼントしたのだ。今年のプレゼントはまだ決めていない。
 見上げれば、晴れ渡る空に満開の星空が広がっている。その下に輝く浩々とした街並みも「綺麗」と評するには言葉が少なすぎるほどだ。
 雪野は辰巳が隣に立つのを確認すると、そっと彼の小指に触れ、握り締めた。辰巳は僅かに驚きを見せたものの、雪野の好きなようにさせていた。握り直すこともせず、触れられた指先を雪野に預ける。
「辰巳さんは、どうしてモデルをしようと思ったんですか?」
 前触れもなく尋ねてくる彼女に、辰巳はキョトンとした表情で首を傾げた。雪野が辰巳の仕事に関心を持つことは今までなかったことだ。それでも自分に興味を向けてくれることは嬉しいので、数年前の記憶を蘇らせる。そういえばここで、雪野には先輩とのことを話したのだと思い出した。
「高1の時にスカウトされたんだ。最初は大勢いる読者モデルの内の一人だったんだけど、2年経って、今の事務所の社長に続けてみないかって誘われて……。最初は悩んだけど、写真撮られるのは嫌いじゃないし、そこで出来た繋がりも捨てたくなかったし、考えた結果が今、かな」
「他の選択肢はあったんですか? 何になりたかったとか」
「うーん、そこまでは考えてなかったなぁ。まだ高校生だったし、俺には大学進学か就職か、その二つしかなかったしね」
 その就職先というのが今のモデルという仕事だったのだろう。雪野は素直に羨ましいと思った。目の前に自分の能力を認めてくれた人がいたということが、すごく羨ましくて、今の雪野には少し妬ましかった。雪野はまだ、自分が何がしたいのか、何に向いているのか、それさえも掴めないで漠然と不安だけがあるのだ。
「もし大学に進学するとして、専攻は何を希望してたんですか?」
 辰巳が雪野の方へ視線を下ろすと、真剣な眼差しで辰巳を見上げている雪野と目が合った。辰巳は苦笑しか浮かばなかった。
「だから、そこまで考えてなかったんだよ。社長に誘われる前は、とりあえず、みたいな雰囲気で進学も考えてたけど。具体的にどこの大学を受けて、とか、そこまでは考えてなかった。だから迷ってたんだと思う。モデルの仕事も絶対に続けたいと思ってたわけじゃなかったから、どっちへ進んだら良いのか分からなかった。『バイト感覚でできるほどプロの世界は甘くない』とも社長に釘を刺されてから、余計に分からなくなってた」
 辰巳は話しながら、当時を思い出すように街並みを見下ろした。こんなふうに誰かに自分のことを話すのは初めてかもしれない。先輩にここへ連れて来られた時もここまで詳しくは言わなかった。彼も特に聞き出す素振りはなかったから、二人してしばらく空と街の光をぼんやりと眺めていただけだった。そうしている内に、己の抱える悩みがひどく小さなものに思え、ある意味で開き直ってしまったのだろう。
「今は……」
 その選択で良かったのか、と聞こうとして、雪野は口を閉じた。そんなことは日々活躍する彼を見て分かっていたはずだ。
 雪野の様子を見て、辰巳は今度はこちらから話を持っていくことにした。なぜ彼女が急にここへ来たいと言い出したのか気づいたのだが、それをはっきりと彼女の口から言ってほしい。
「雪野は何に迷ってるの?」
 静かに届いた辰巳の声に、雪野はハッと彼を見上げた。変わらず優しい表情で雪野を見る辰巳がいる。
 何もかも見透かされているようで、雪野は恥ずかしくなった。俯いて、戸惑う自分の表情を隠そうとした。――無駄だと知っているのに。
「迷っているというか、それ以前の問題で……」
 既に大学3年生向けに、新卒採用の合同企業説明会などが行なわれているのは知っていた。けれどまだ、雪野はなかなか動けないでいた。気持ちばかりが焦って、不安ばかりが募って、自分の未来が全然見えないでいる。
「どうしたらいいのか分からなくて。まだ時間はあるから焦る必要はないって分かってるのに、スーツを着て講義に出てる友達とかをみると焦っちゃうし、昼休みとかバイト先でも、話題はもう就活のことばっかりだし。今、就職難だし……」
 一つ話し出すと、次から次へと抱えていたものが溢れてきた。話にまとまりがつかなくて、小さくなっていく声を自覚しながらも、最後まで言えずに途中でやめてしまった。
 見るからに落ち込む雪野が、それでも自分の小指を握りしめたままだということに気を良くした辰巳は、もう片方の手で雪野の髪を優しく撫でた。少しでも自分の温もりが慰めになればいいと願う。
「やりたいことはないの?」
「大学で学んだことを活かしたいとは思ってます。英語だったら日常会話くらいなら話せるし、留学もしたし、それを無駄にはしたくないとは思うんだけど。でも海外を飛び回りたいとか、そこまでは思ってなくて……」
 くしゃくしゃと雪野の頭を撫で回した辰巳は、高校生の時の自分を見ているようだと思った。ただし、見守っているだけではイヤだとも思う。我侭だと分かっていても、雪野の未来に自分も関わりたい。彼女の隣にいることは当然として、そのために手を貸すことは厭わない。むしろ喜んで手を差し伸べたい。
「ゆっくり考えたらいいよ。どういう仕事があるのかを知ってからでも遅くない。職業なんてそれこそ星の数ほどあるんだから」
 辰巳の言葉は友人達の「焦る必要ないよ」という慰めの言葉よりも、ずっと素直に耳に入ってくる。雪野は俯いていた顔を上げ、辰巳を見た。
「それに英語なんて言語ツールの一つでしかないんだから、自分が楽しいと思ったり好きだと思ったりすることを探したら良いんじゃないかな。旅行が好きならツアーコンダクターがあるし、本が好きなら翻訳家がある。ね? 難しく考えないのが一番だから」
 きっと辰巳の言葉だからすっと心に響いて来るんだ……辰巳がそれを数年前に経験しているから、雪野の中に入ってくるんだと思った。それが雪野には嬉しかった。相談できる相手が友人以外にいてよかったと、それが辰巳で良かったと心から思った。遠慮がちに握っていた彼の小指を離し、改めて手を繋ぐ。ぎゅっと握り返してくれる辰巳を見上げ、雪野は微笑を浮かべた。沈みきっていた心を浮上させてくれた辰巳に「ありがとう」と言いたかった。
「もっとちゃんと自分のしたいこと、探してみます。また相談に乗ってくれる?」
 辰巳はささやか過ぎる雪野の頼みにニッコリと笑って頷いた。
「もちろん。またここにも連れてきてあげる」
「うん」
「雪野はもっと俺に頼っていいし、甘えていいんだからさ」
「ありがとう」
 ほっとした雪野の頬を撫で、辰巳は冷えた手で顔の輪郭をなぞる。
 雪野のために何が出来るだろうか、と頭の隅で考えながら、キスを落とした。寒さでかさつく唇を舌で舐め、ゆっくりと長く、啄ばんだ。今はまだ、甘えているのは俺の方かもしれない――と内心で苦笑しつつ、雪野が嫌がらない間はずっと、触れるだけのキスを何度も交わした。
「もし雪野さえ良ければ、俺が仕事を紹介してもいいよ」
 誘うように、キスの合間に囁けば、雪野は静かに閉じていた目を開けた。
 その視線は甘く、いつも見せてくれる蕩けた表情ではあった。けれど。
「……余計な事はしないでください」
 その言葉は厳しく、辰巳は苦笑を浮かべるしかない。
 きっと雪野は、頷いてしまえば本当に辰巳ならやりかねないと分かっている。芸能界という特殊な世界で生きる彼には、きっと雪野の想像もつかない繋がりを持っているのだろうということも、感じているのだろう。分かっていたことではあったけれど、辰巳はキスを続けながらも納得したわけではなかった。
 雪野の意思は尊重したい。しかし、その気になれば勝手に行動を起こしてしまうだろう自分がいることも、辰巳は自覚していた。
「ん、悪い、雪野」
 だから最初に謝っておこう。
 唇を離した辰巳を見上げる雪野の耳元に口を近づけて囁いた。
「続きはベッドで話そうか」
 その言葉に、彼女の顔が赤く染まるのを愛しく見つめながら。

≪ F I N. ≫

2010/09/12 up  美津希