彼と彼女と…

40万打御礼記念企画・リクエスト作品

彼と彼女とクッキー


「雪野がここに来るのも久しぶりだね」
 彼女を背にドアの鍵を開けながら、辰巳は頬を緩めて言った。
 雪野が辰巳の部屋に来ることも久しぶりだが、辰巳自身も自分の部屋に帰ってくるのは3ヶ月ぶりだった。3ヶ月間、辰巳は海外ロケに行っていて、雪野と会っていなかったどころか日本に居なかったのだ。帰国の時間を夜に指定したのは辰巳で、雪野のバイトが終わる時間を計算してのことだった。
「片付けといて良かった。雪野、今日は泊まっていくだろう?」
 先に雪野を部屋に入れてから辰巳が尋ねた。雪野は驚いて振り向く。泊まるなんて初めて聞いた。
 そもそも辰巳から突然海外ロケが入ったと連絡があってから3ヶ月、音信が途絶えて、今日また突然現れたのだった。
「あの、でも……何も用意してないし」
 困ったような表情で見上げると、辰巳は何事もないように首を捻った。
「大丈夫だよ。朝には帰すから」
「え〜。何ですか、それ……」
 雪野が心底嫌そうに眉を顰めたから、辰巳は残念そうに肩を竦めた。けれど雪野の肩に腕を回し、抱き寄せた。雪野に断らせるつもりは毛頭なかった。
「嫌そうにするなよ。もう決まってるんだから」
 辰巳は苦笑を浮かべ、不満そうな顔の雪野を強引に引っ張った。
「とりあえず何か食べよう。また外に行くのも面倒だし俺が作るけど、雪野、何かリクエストある?」
 玄関横にあるキッチンに向かう辰巳と離れて、ソファに腰を落とした雪野は、何気なく置かれていた女性向けのファッション雑誌に気づいた。
「辰巳さんの好きなものでいいですよ」
 彼が載る雑誌は男性向けのものがほとんどなので、女性向けの雑誌があるのは不思議だった。一瞬自分が置いていった物かとも思ったが、そういえば今まで一度もこの部屋に雑誌や本といった類のものを持ち込んだことはなかった。
「好きなもの、ねぇ。でもこってりしたものは気分じゃないし」
 辰巳の独り言を聞き流しながらパラパラと雑誌を捲ってみる。初めの方のページでその理由が分かった。タツミのインタビュー記事が見開きページ2つも使って載っていたからだ。刊行年月を見てみれば1年前のものだった。
「ねえ、オムレツは好き?」
「好きです」
 振り返る辰巳に雪野は雑誌から目を離さずに答えた。
 辰巳は小さく笑む。
「人参は好き?」
「好きですよ」
「ピーマンは?」
「好きです」
「グリーンピースは?」
「好きです」
「俺は?」
「す――」
 言いかけて、ようやく雪野は顔を上げた。
「なんでそこで止めるかな」
 残念そうに苦笑する辰巳に、雪野は呆れる。
「何を言わそうとしてるんですか」
「いや、雪野から言ってくれることなんてないし?」
「……そんなことないですよ」
 雪野は何だか居た堪れなくて、雑誌を上げて顔を伏せた。耳が熱い。目の前にカメラ目線のタツミの顔が広がる。綺麗な顔と並んで、大きく飾られた文字は焦点が合わなくてぼやけて見えた。
『好きな女性のタイプは? ――特にないけど、彼女の料理を食べる時って幸せだと思いますね。料理じゃなくてもクッキーを焼いてくれたりとか、夢だったりするんです(笑)』
 そこで見えてきた文章にドキリとする。インタビュー記事で答えているのはタツミ以外の誰でもない。
 雪野と出会う少し前の、タツミの言葉だ。
 今もタツミは、目の前にいる賀川辰巳は……料理が出来る女の子に魅力を感じているのだろうか。既に雪野が料理下手であることは知られているけれど。
 包丁のリズム良い音がする。会話が途切れたことに気づいて雑誌から視線を外してみると、辰巳が背を向けて野菜を刻んでいる。小さく鼻歌を歌う彼は上機嫌な証で、今更そんなことを聞けるはずもなかった。
 聞けないと分かっているからだろうか、余計に気になってきた。
 卵をリズム良く引っくり返している辰巳の後姿を眺めながら、雪野は表情を厳しくして考えてみる。聞くべきか聞かざるべきか。多分聞いた方がすっきりして雪野の気分は良くなるのだろうが、辰巳にとってはどうだろう。そんな昔のことを、と怒るだろうか? 気にするなと宥められるのだろうか? ……それはそれで、今も魅力を感じるということでショックを受けるのだけれど。
「どうした、雪野?」
 いつの間にか出来ていたオムレツを皿に盛り付け終えた辰巳が首を傾げてこちらを見ていた。雪野は持っていた雑誌を慌てて背中の後ろに隠して立ち上がる。何気なくソファの上に置いてダイニングテーブルへ寄った。ふわふわの卵に赤いケチャップが飾られていて、その様はまるでプロのようだと思った。
「ほら、食べよう」
 にっこりと微笑んで彼女を促す辰巳と見比べて、雪野は曖昧に頷いた。
 遥かに自分より出来る彼が魅力を感じる料理を出す女の子なんているのだろうか。
「……クッキーって好きなんですか?」
「うん? 好きだけど。何、作ってくれるの?」
「いや、あの……」
 まさか直球すぎた問いかけに真正面から答えてくれるとは思わなかった雪野は、少し戸惑って、それを見た辰巳は随分前に朝食を焦がしていた彼女を思い出した。
「冗談だって。期待してないから困らなくていいよ」
 辰巳の苦笑と優しさに、雪野は乾いた声で小さく笑った。


――困った。
 アパートの小さな台所の前で、雪野は腕を組んで唸る。目の前には焦げ付いた小麦粉の塊と、まま狐色に焼けたクッキーらしきものとが並んでいる。どちらも雪野が一日かけて作ったクッキーである。一応、予定としてはそうなるはずの物だった。
「と、とりあえず、綺麗な方を……」
 言いながらテーブルの上に広げていたラッピング用のビニール袋とリボンを取りにいく。味は少しバターが濃すぎたような気もしたが、食べられないものでもなかった。見た目だけでも飾ればそれなりに美味しく見えるだろう。そう思って材料と一緒に買ってきたそれらは、何とか役に立ちそうだ。
 そこへ携帯電話が鳴る。リボンを取ろうとしていた手を横に伸ばして電話に出る。ディスプレイには辰巳の名前が出ていた。
「もしもし?」
 今日はバイトがオフだということは、辰巳には言っていなかった。基本的に彼から電話があるのは、昼、その日のバイトの帰りに送って行くよという連絡をするときだ。
『あれ、雪野? 今日はバイトなかったんだね』
「え、あ、うん」
 どうしよう、と香ばしい匂いを漂わせているクッキーの方へ振り向いた。
 辰巳の甘い声音が、いろんな意味で雪野の鼓動を速くさせる。
「どうしたんですか?」
『うん、ちょっと。雪野の声を聞きたくなってさ』
「何かあったんですか?」
 そんなことを言うのは珍しいなと、雪野は驚いた声を隠さなかった。向こうで苦笑する声が聞こえた。
『特に何かあったわけじゃないんだけど。今迷惑だった?』
「そんなこと、ないですけど」
 言いよどむ雪野の口調をどのように捕らえたのか、彼女には分からなかった。けれど彼なりに何かを感じたのだろうということは分かった。
『じゃあ今から出て来られない? ロータリーの所で待ってるからさ』
 声は優しいのに有無を言わせない雰囲気を電話越しで漂わせ、雪野を頷かせた辰巳は満足そうに「待ってるから」と言葉を足した。
 ますます困った雪野は、けれど目の前のことは言わずにもう一度頷く。
「すぐ、行きますね」
 電話を切る。
 知らず溜め息が漏れた。
 クッキーは……バイト先に回そう。
 やっぱり辰巳の前に出す自信は持てなかった。
 雪野は頭を振って、急いで服を着替えた。辰巳の前では可愛く見てもらいたいから、バイト先に迎えが来るという日はさり気なく気合を入れている。一つに結んでいた髪も解いて、この秋用に新しく買ったジャケットを羽織る。ブーツはやめてパンプスにする。
 小さめのバッグに必要なものだけを詰め込んだ。クッキーはラップをして冷蔵庫の中へしまう。焦げた方は自分で食べるしかない。
 駅前のロータリーは歩いて五分ほどの所にある。辰巳に送ってもらう時はいつもそこで降りていた。まだ夜も浅いので人通りは多い。見慣れた辰巳の黒い車を見つけ、雪野は小走りに近寄っていく。それだけで辰巳は彼女を見つけ、ドアを開けた。
「急に悪かったね。何かしてた?」
 助手席に乗り込んだ雪野の頭を抱き寄せて、髪にそっと口付ける。雪野は辰巳の過剰すぎるスキンシップに慣れず、顔を赤くした。それが辰巳にとってこの接し方をやめられない要因であることに、彼女自身は気づかない。
「あれ? なんか、いい匂いがする」
 ふと気づいて、辰巳は抱き寄せた彼女の頭に自分の鼻を近づける。いつも香るのはシャンプーの匂いだったり仄かなコロンの香りだったり、バイト先の化粧品の匂いだったりするのだけれど、今日はなんだかいつもより香ばしい。
「美味しそうな匂いだ。パンでも焼いてたの?」
 そっと顔を離して尋ねると、雪野はコクコクと首を縦に振った。
「ふうん。珍しいね」
「そうかな……」
「俺も雪野を食べたくなったな」
「ッハイ?」
 思わず声を裏返す雪野に辰巳は笑って、黙って助手席のシートベルトを締める。
「今日は会うだけと思って来たけど、やっぱりダメだな」
「へっ?」
「お腹空いてきちゃった」
 言って、アクセルを踏む。
 戸惑ってパニックになっている雪野の唇を、赤信号で止まった隙に奪った辰巳は、急いで自分のマンションへ向かうことにした。
 そういえば懐かしい雑誌を彼女が読んでいたっけ、と思い出して、顔が緩んで仕方がなかった。――そのことに彼女が気づくことはないのだろうけれど。

≪F I N.≫

いかがでしたでしょうか。
久しぶりすぎてキャラの性格忘れてます(汗)
そこは大目に見ていただいて、楽しんでくれたら嬉しいです。
ありがとうございました!
2009/01/04 up  美津希