彼と彼女と…

彼と彼女と彼の恋人


 雪野の日曜の朝は早い。
「雪野、起きて」
 さらさらと髪を撫でられ、優しく甘い声に囁かれて目を覚ますこの時を苦痛だとは感じない。だが欲を言えばもう少し、ほんの数分でいいから夢心地の中にいたいと思う。
「ん、待って……」
 それでも体を揺さぶられ、ようやく雪野の重い瞼が持ち上がる。霞む視界の中でなんとか辰巳がこちらに向かって困ったような笑みを浮かべているのが分かった。ああ、もう時間なのだ、と回らない頭で状況を把握する。
「行って来るから、鍵はいつものトコに置いておいて」
「はい」
 じゃあね、と辰巳は最後にくしゃっと雪野の滑らかな髪を撫でて部屋を出て行った。ふと時計を見ると、ちょうど5時を回ったところだ。ようやく空が明るくなりだした。スズメの鳴く声が少し開いた窓から聞こえてくる。雪野は再び気持ちの良い布団の中で眠りにつくことにした。
 朝の8時、雪野は辰巳のベッドから起き上がる。ぼんやりとした脳内で、そういえば彼は既に仕事へ行ったのだと曖昧な記憶を蘇らせる。最近テレビへの出演が減った辰巳だが、モデルとしての仕事は前よりも増えているようで、いつも忙しなく出かけていく。だがその度にいちいち雪野を起こしていくのは、彼曰く「最初の失敗は繰り返したくない」からだそうだ。だから同じ夜を過ごした後の朝だけはどんなに早い時間帯でも「行ってきます」「行ってらっしゃい」という新婚夫婦のような会話がなされる。その半分の割合で雪野は寝ぼけている状態だけれど。
「あー、もう、まただ」
 鏡を前にして雪野は思わず声に出した。また鎖骨の辺りに赤く小さな痕がいくつか付けられている。せっかく消えかかっていたのに、と雪野は眉をひそめ、しかし口元は自然と緩んで不気味な笑みになった。痕を付けられることが嫌なわけではない。ただ困るだけだ。これでは首元の開いた服が着られなくなるではないか。
「しかもまた同じところだし」
 はあ、と溜め息も吐いてみる。指でなぞり、確かにここにあるのだと分かると、困ったような嬉しいような、複雑な思いになる。辰巳はだいたい同じ場所に付けることが多い。偶然にしても故意にしても、付けるならもうすこし隠しやすい場所にしてくれてもいいのに、と自分でも贅沢だと考えながら悩む。ああ、どうしよう。
 ふと、何も知らない友人を思い浮かべ、少し憂鬱になる。彼女は恋人のことをたくさん話してくれるのに、辰巳がタツミであるがゆえに何も言えない自分が、とても悪いように感じてしまう。
 雪野はそこが自分の家であるかのように、シャワーを浴びて着替え終えると、帰る支度もせずにテレビを付けた。何度か泊まっているこの部屋で一人でいるのは割と好きだ。綺麗に片付けられた、むしろ生活感を漂わせないこの空間は、ごちゃごちゃと物が溢れる自分の部屋よりも落ち着くかもしれない。
『なんでそんなとこまで知ってるんですか』
 何気なく付けたテレビは、時間帯のせいかどのチャンネルも競うようにワイドショー番組ばかりが流れる。そのうちの一つに、ふとリモコンを持つ雪野の手が止まった。
『結構有名ですよ。どうやら彼の癖らしいんですけどね』
 コメンテーターの芸能レポーターが自信満々に言う。何の話だろうと雪野が思っていると画面の下にパネルの文字が映った。
“モデルTと女優Hの交際は順調!”
 瞬間、誰のことだかすぐに分かった。辰巳と、辰巳の恋人としてだいぶ前から報道されている新人女優のことだ。あれは雪野と辰巳が出会う前からの話だが、その時はまだ噂でしかなかった。いつの間にか話に確実性が帯びているようで、雪野は知らず表情を歪ませた。どうしてそんな話の流れになっているのだろうか。彼女はただのカモフラージュ? それともこちらがカモフラージュ? むしろ二股……、あるいはただの遊びだろうか。そんなことが雪野の脳裏を何度も過ぎる。
『でもいいですよねえ、いつも同じところにキスマークなんて。私のところなんて、キスマークどころかキスすらしなくなりましたからねえ』
 他のコメンテーターの言葉に思わず雪野は鎖骨の辺りに手を当てた。そっとなぞり、確かにここにあったと思い出す。鼓動が早くなっていくのが分かった。
『ですよね。だからコレですよ。お二人の交際は順調、これで間違いありません!』
 はっきりと断言した芸能レポーターのが顔がアップで映された。彼は自信に満ち溢れた笑顔を見せる。ズキン、と雪野の胸が痛んだ。辰巳とあの女優はそれほどまでに有名なカップルになってしまったことにか、キスマーク云々にかはよく分からないけれど、雪野は泣きそうになり、ここは自分の部屋ではない事を思い出した。
――早く、帰らなくちゃ。
 なぜだかは分からないがそんな焦燥感にかられ、雪野はテレビを消すと鞄を手に取り、足早に部屋を出ると一刻も早くそこから離れようと駆け出した。
 自分の部屋へ戻る頃には太陽はすっかりと頭の真上に昇り、心地良い暖かさと生暖かな風を生み出していた。雪野は倒れこむように敷きっ放しにしていた布団へ体を寝かせる。走ってきたからなのか先ほどのショックが残っているのか微妙なほどの動悸を感じながら体を丸めて目を閉じた。いつまでもコメンテーターの声が残るようで気持ち悪い。
 だんだんと自分の心臓の音に耳を傾けていると思考もようやく回りだした。雪野は自分が冷静になっていくのを感じた。
 所詮あれはテレビ番組だ。辰巳本人が彼女と交際宣言をしたわけでもないし、ネタにもならない冴えない女子大生を捕まえて、彼に利益があるわけでもない。そもそも近づいてきたのは向こうからだ。絶対に彼女とは何もないはずで、仮にあったとしてもそれは関係ないことだ。そうに違いないし、そうでなければならないはずだ。
 雪野は自分自身に言い聞かすように何度もそのことをぐるぐると繰り返した。それはまるで自己暗示をかけているようで悲しくもあったが、今はそうでもしないとこの動悸を抑えることは出来そうになかった。きっとあのままあのベッドの上でテレビを見続けていたら泣いていたかも知れない。そんな予感があったから余計に雪野は力いっぱい目を閉じた。
 あ。そうだ。
 そうして雪野は体を起こし、パソコンの横に置いてあった棚から一つの箱を取り出した。そこには辰巳から貰った香水やブレスレットなどを入れていて、時々こうして取り出しては今が現実かを確かめる。辰巳は雪野だけではない、皆のタツミという存在だから、時々確かめなければ全てが夢のような気がするのだ。前よりはこんなふうに確かめる回数も随分と減ってきてはいたが、やはり思っている以上にショックを受けているらしい。

 どうやら眠っていたらしく、雪野は携帯電話の着信音で目を覚ました。慌てて起きると窓の外はすっかり紫色に染まっていて、咄嗟にカレンダーを見上げた。壁に掛かっているカレンダーの日付を確認してほっと息を吐く。良かった、今日はバイトはない。
 そして誰からの着信だろうと電話を取る。ディスプレイに映る登録者名を目にして一瞬動きが止まり、先ほど以上に慌てて通話ボタンを押した。
『もしもし、雪野?』
 相手は辰巳からだった。彼からケイタイに電話が来るのは珍しい。彼は雪野に連絡を取るよりもまず直接会いに来る方が圧倒的に多かった。
「あ、はい」
 しどろもどろに答える雪野は一度落ち着けたはずの心臓が再び勢いよく打ちつけ始めたことに完全にパニックになっていた。
『鍵持って帰っただろ。俺帰れないんだけど』
「え」
 一瞬心臓が止まったかと思った。急いで放り出したままの鞄を引き寄せて中を見ると、確かに内ポケットに彼の部屋の鍵が納まっていた。慌てすぎていつものところへ置くのを完全に忘れていた。
「あっ、ごめん、持ってる。……どうしよう?」
 困ったように笑う辰巳の息が聞こえた。
『雪野は明日学校だし、俺が取りに行くよ。駅のところにいるから』
 決して雪野の部屋へ来ようとしない辰巳に雪野は感謝し、すぐに行くと返事をして電話を切った。
 辰巳は雪野を部屋へ呼ぶことはあっても雪野の部屋へは来ない。それは雪野が頑なに断ったからでもあるし、辰巳自身も何となくその理由を分かってくれている気がする。そういう優しさが雪野の胸をたまらなく締め付けるのを、彼は知っているのだろうか。
 雪野は軽く寝癖を直し、急いで駅へ向かった。なんだか今日はずっと走っている気がするけれど、その理由は雪野しか知らない。
「珍しいな。雪野が忘れるなんて」
 車で来ていた辰巳は助手席のドアを開けながらそんなふうに言って笑った。雪野は曖昧に笑みを浮かべて、鞄から鍵を取り出す。
「ごめんなさい。ちょっと……急いでて」
「ふうん? で、乗ってくれないの? 彼氏がせっかく会いに来たのに?」
 腰を屈めたまま鍵を渡そうとする雪野の手を取って辰巳は彼女を見上げた。だが雪野は躊躇するだけで、なかなか乗り込もうとはしなかった。
「どうしたの、雪野?」
「あ……“彼氏”って……」
 辰巳は雪野の言っている意味が分からず首を傾げる。
「俺って雪野の彼氏じゃないの? 雪野は俺の彼女じゃないの?」
 雪野は慌ててふるふると首を横に振った。
「あ、ううん。やっぱり、そうですよね」
 安堵したように雪野は助手席に座りながら言った。良かった。辰巳からそんなふうに聞けて本当に良かったと思う。
「何かあった?」
 辰巳は雪野の体に腕を回して尋ねる。口元に来た彼女の髪にそっとキスを落とす。
「……何でもない、です」
 テレビでの噂ほどアテにならないものはない。だからこんなことは何でもない事だ。彼が言う言葉だけが真実で、それだけが絶対なのだ。雪野は辰巳の服の袖を掴んで、抱きしめられるままに体を任せた。
「そっか」
 辰巳はそれ以上言及することもなく、何度か髪を撫でて腕を解いた。雪野が何に落ち込んでいたのかは分からないが、何でもないというのなら何でもないのだろう。それに雪野が変なところで頑固なことも分かっているつもりだ。だからこれ以上聞いても答えないだろうという事は容易に想像できた。
「雪野は俺の彼女だからね?」
「うん」
 そっと、彼女の綺麗な肌に触れる。今日は鍵を返してもらうだけの予定だから早く帰さなければ、と辰巳は指で雪野の頬を撫でるだけにした。
「雪野だけだからね」
「うん。……ありがと」
 雪野は車から降りて窓越しに辰巳を見る。
 ありがとう。辰巳のその一言だけが雪野にとっての真実になる。
 辰巳は手を振って名残惜しそうに車を走らせる。雪野はそれを見送り、そっと鎖骨の辺りに手を添えた。

* * * *

「なあ、お前って香水の子と付き合ってんだよなぁ?」
「何だよ、そんなこと今更」
「いやいや恥ずかしがってる場合でなくて。まだこの子と熱愛報道されてるからさ」
「……。ああ、だから彼氏がどうのこうのと」
「え? 何それ?」
「何でもない。気にするな」
「いやそれは明らかに気になるだろう! 何だよ。教えろって」
「仕方ないな。しつこいキミにはプレゼントだ」
「おおっ、前に言ってたサイン付きボール!」
「で、何が気になるって?」
「ん? オレそんなこと言ったか?」

≪F I N.≫

2007/07/31 up  美津希