彼と彼女と…

彼と彼女と香水


 遠くから明るい光が差し込んできた。重い瞼を小さく持ち上げて初めて、その光が窓の外から燦々と照らす太陽のものだと気づいた。
――朝か。
 それだけを確かめると雪野はまた心地の良い布団の中に顔を埋める。昨日が金曜日だということは覚えている。よって土曜日である今日は学校は休みで、友人と遊ぶ予定もない。バイトはあるが午後からで、少なくとも昼過ぎまではゆっくりとしていられるのだ。
 それにしてもなんて心地良いのだろう。柔らかい毛布に肌触り抜群のシーツ。ほんのりとシトラスの香りまでしてきそうだ。まるで高級ホテル(部屋はもちろんスウィートで)のベッドで寝ているようだ。
――ん?
 雪野はふと違和感を覚えた。目を閉じたまま寝返りを打つ。
――あたし、こんな布団持ってたっけ?
 それにどうしてか布の感触が肌にフィットしすぎている気がする。そこでようやく静かに目を開けた。初めに目にしたのは淡いオレンジ色と白色のチェック模様の掛け布団と、少し皺の寄った真っ白なシーツ、掛け布団に合わせた肌色に近いオレンジ色の枕だった。
「!?」
 雪野は飛び起きると自分の姿を見て更に驚いた。驚きのあまり声が喉の奥に引っかかったようで、息だけを飲み込んだ。
――なんであたし裸なの!!
 パジャマはおろか、下着すら身に纏ってなかった。誰も居ないと分かっていながら慌てて布団を体に巻き付けて周りを見渡す。この布団からして自分の部屋でないことは確かだった。
「ここ……どこ……?」
 見渡す限りではワンルームのマンションのようで、ベッドは壁に向かって置かれているのが分かった。ベッドを背にするように赤いオシャレなソファが置かれてあり、その向こう側にダイニングテーブルがある。椅子は4脚もあった。そして更にその奥がキッチンになっているらしく、テーブルとキッチンの間にカウンターがあった。玄関やその他の扉は雪野の位置からは見えない。
 どうやらこの部屋の主は既に出ているらしく、明かりは窓から差し込む日の光だけだった。それでも充分に明るいのは、壁一面かと思うくらいの大きな窓と部屋の位置のおかげなのだろう。
 雪野はとりあえず服を着ようとベッドからおりようとした。だが服はオレンジ色の枕の隣に並んでいた青色の枕の上にきちんと畳んで置かれていた。
「……嫌味な奴」
 自然と出てきた言葉に雪野自身が驚いた。
 そして昨夜のことを思い出した。断片的ではあるものの、今の状況が何となく分かってきた。
――だからってヤバイことには変わりないじゃん、あたし。


 昨夜の雪野は機嫌が良かった。学校ではゼミの発表が成功し、バイト先では久しぶりにミスをせずに終えた。こんなに気分がいい日に、誰も居ない部屋に素直に帰るのはもったいない気がして、少し寄り道をしながら帰ることにした。普段は駅からすぐの公園を通り抜けて大きな通りに出るのだが、公園を周って通りに出ようと思ったのだ。そこは割りと大きな並木道になっていて、秋になると銀杏の葉が当たり一面を黄色く染める。その景色が雪野はけっこう気に入っていた。
 空を見上げても街灯が明るすぎるこの辺りでは、星はチラチラとしか見えない。けれど雪野には満天の星空のようにキラキラと輝いて見えた。知らず、笑みがこぼれた。
「あの、すみません」
 不意に声をかけられて驚いた。深夜というわけではないが、夜中に声をかけてくる男には気をつけた方が良いに決まっている。
「ちょっと道が分からないんですけど」
 立ち止まった雪野に話しかけてきた男が口にした地名は、この近くの駅からもう一駅先へ行った場所だった。よく見ると男の背後には車が一台止まっている。
「そこならこの道を真っ直ぐ行ったところに交差点が二つあるんですけど、その二つ目で左に曲がって、最初の信号を左に曲がったらあとはずっと一直線ですよ」
 雪野は早口に、地図を頭に思い浮かべながら説明した。雪野もこの辺りに来て1年も経っていないのだが、隣の駅までの道のりはおぼろげにだが覚えていた。先日道を間違えて隣町の方まで行ってしまったことがここで役に立つとは、本当に運がいいのかもしれない。
 だが男は何度か雪野が言った道順を口の中で繰り返した後、少し困ったように長めの前髪をかき上げた。街灯で照らされた男の顔が、そこら辺にいる人間よりも綺麗に整った顔立ちをしていたことに気づき、雪野は目を丸くした。
「うーん、この先の交差点、だっけ? よく分からないからさ、途中まで案内してくれない?」
 困ったような小さな笑みを見せて男が言った。雪野は本格的に「冗談じゃない!」と思ったが、目の前で困っている人を簡単に見捨てることもできずに言葉を濁すしかなかった。
「あ、もしかして怪しんでる? でもさ、俺ほんとに分からないんだよ。何もしないって約束するし。ちょっとだけ付き合って?」
 雪野が自分を警戒していることに気づいた男は慌てて自身の弁解をした。弁解しながら自分でも、これでは怪しまれても当然かもしれない、と思う。こっちは男で相手は女で、しかも随分と遅い時間帯だ。これで警戒せずにホイホイ着いてくる方が、このご時勢、よほど危険だろう。
 しかし何だかんだと雪野は男の車に乗り、案内することになった。雪野を車に乗せるとき、助手席のドアを自然に開け、雪野が座ったことを確認してからドアを閉めて運転席へ着くあたり、女慣れしているんだと分かる。明かりの無い車内だが男との距離は先ほどよりも近づき、その分男の整えられた容姿がはっきりと分かった。
 長い手足。すらりと細い身体。どこにでも出てそうな俳優よりも数段綺麗でカッコイイ。もしかしたら本当に芸能人なのではないだろうかと思えてくる。
「ここを左で良いの?」
 雪野は男の声にハッとして周りを見た。前は踏み切りで、左に小さなパン屋やクリーニング屋が並んでいる。右側はロータリーになっていて何台かのタクシーが止まっていた。
「ち、ちがう。行き過ぎです。この前の交差点を左に曲がるんです」
「うわ、そうなんだ。……良かった、案内頼んで」
 そう言って車をバックさせる男に、雪野は小さく息を吐いた。もう男の方を向くことはなかった。
 雪野の言った所で左に曲がり、一つ目の信号でまた左に曲がる。ここまで来てしまって無事に帰れるだろうかと心配していると、男にもそれが伝わったのか、男は微笑んだ。
「大丈夫、着いたらちゃんと送るからさ。さっきの駅のところで良いの?」
「あ、はい。お願いします」
 男はくすくすと笑う。
「お願いされるのは何か変だな。俺が頼んで乗ってもらってるのに。送るのは当然だろ」
「うーん、そうですかね」
「うん、そうだよ。あっ、そうだ、ここずっと真っ直ぐでいいんだよね」
 突然何かを思いついたらしく、男は楽しそうに聞いてきた。
「え? あ、はい、真っ直ぐ……のはずですけど」
 しだいに夜道を照らしていた街灯も少なくなっていき、本当にこの道でいいのか不安になってくる。だが標識の地名を確認するとその不安はきれいさっぱりと無くなった。
「じゃあさ、この近くにとっておきの場所があるんだ。お礼に連れて行ってあげる。時間とか、大丈夫だよね?」
「え! そんな、いいです、本当。送ってもらえるだけで」
「それじゃあお礼にならないんだって。俺も久しぶりに行ってみたいし。マジで綺麗な夜景が見れる場所なんだよ」
 男の笑みはどこか断れない空気を出していて、雪野は渋々頷いた。
 目的の場所を確認した後、男は自分の記憶を辿りながら懐かしい場所へと車を走らせた。
 その間雪野と男は取りとめもないことを話し続けた。ほとんどは男が質問をして雪野が答えるといった形だったけれど、それでも男との会話は楽しいものだった。たまに雪野から聞くこともあった。男も隠す様子も無く答えていて、それが嬉しかった。
 男について分かったこと。年齢は22歳(雪野と2、3歳しかちがわないことに驚いた)。数年前に彼女に振られて以来恋人はいない。男は仕事をしているけれど、回りの友人達は今就職活動で必死だということ。ここで雪野が「大学生なんですか?」と尋ねると男は「俺は高卒で今の仕事に就いたけど、友達は学生ばっかだよ」と答えた。
 車は山道に入り、普段なら車酔いが激しい雪野だったが、男が会話を続けてくれたおかげで気分が悪くなることはなかった。それに車に乗った時から感じていたのだが、この車にはあの独特の匂いがしない。どちらかと言えば無臭に近い状態だ。それも酔わなかった要因の一つだろう。大きく急なカーブを何度も曲がった後、広い駐車場のような場所に入った。もう既に深夜も過ぎているというのに雪野と男以外の車もあった。
「ここってけっこう人気あるみたいでさ、クリスマスとか大晦日になるとかなり車が止まってるんだ」
 男も昔の恋人と来たことがあるのだろうと思ったが、雪野はあえて何も言わなかった。
 車から降りて目にした景色は思っていたよりもスゴイとは言えなかった。男も降りてくると「ああ……」と低く唸った。
「ごめん、今日は曇っててあんま綺麗じゃないな。あれだけ期待させておいてさ、ごめんな」
 男があからさまに落ち込むので雪野は責める気も起きなかった。
「そ、そんなことないですよ。充分綺麗です。ありがとうございます」
「優しいね。でもほんと、ごめん」
 男は雪野の隣に立って山から見える町の明かりを見下ろした。
「ここさ、高校三年かな、そのくらいの時に初めて先輩に連れてきてもらったんだ。ちょうど受験しようか今の仕事に就こうか迷ってる時で。その時はちゃんと晴れててさ、すっごく綺麗で、感動したんだ」
「……良い先輩、ですね」
「うん、そうだね」
 そこからまた少しだけ話して、山を降りることにした。そろそろ帰らなくてはあまりにも遅くなってしまった。
 山を降りる途中もずっと話は止まなかった。それでも街の明かりが間近になり、だんだんと山道を抜ける頃になると、どちらからともなく口数が減っていった。
 踏み切りの前に車を止まらせると、ここでサヨナラだ。降りれば、もうすれ違っても気づかない他人同士に戻る。
――本当は少しだけ期待していたのかもしれない。
 こういう出会いも運命的で良いのかも、と淡い乙女心を抱いていたのは秘密だ。けれど現実はなんてあっけないのだろう。
「それじゃあ、ありがとうございました。夜景、綺麗でした」
 雪野は静かにシートベルトを外し、ドアに手をかけた。
 刹那。
「もうちょっと、こうしていないか?」
 一瞬の出来事だった。腰を浮かした雪野はいつの間にか男の腕の中にいた。頭の上で男の声が聞こえる。後ろから抱きしめられたまま時間が止まったようだった。
「えっ、あの、でもっ」
 半ばパニック状態の雪野を宥めるように、男は雪野を抱く腕の力を強め、黒く艶やかな彼女の髪に口付けた。雪野は驚きすぎてされるまま、どうしようもない気持ちになっていた。男は雪野が出て行かないように腕を伸ばし、解除した鍵を再びロックした。カチッと音がなる瞬間、同時に雪野の体が固まったのが分かった。
「何もしないって、約束は」
 自然と押し倒される。一番近くで見た男の顔はやはりモデルのように整えられていた。
「うん。でもさ、ずっと話しているうちにイイなって思うようになってたんだ」
 小さく「ごめんね」と微笑む男はどこか切なそうだった。
「そんな……。そんな、名前も知らないのに」
 雪野が抵抗してみても男にはなんの効果ももたらさない。
「タツミ」
「――え?」
「俺の名前、賀川辰巳。お前は?」
 真っ直ぐ見つめる瞳からどうしても逸らすことができなくて。
「……長倉、雪野」
 言ってしまった。
「ユキノ」
 男は甘く雪野の名前を囁いてその唇に自分のそれを重ねた。触れ合うだけの口付けはやけに官能的で、それだけで涙が出そうになった。


――とにかく帰らなきゃ。
 雪野は着替え終えるとベッドから降りた。そこでふと、赤いソファの上に無造作に置かれている雑誌が目に入った。何てことのない、男性向けのファッション誌だ。その表紙を飾っているモデルを見て雪野は思いきり顔をしかめた。
「……嫌味な奴」
 そこに写っていたのは紛れもなく辰巳だった。昨夜のラフな格好とはもちろん違い、きっちりとスーツを着こなしてポーズをとっている。まるで「俺のことを知らないはずないだろう?」と言わんばかりに置かれているそれを見つけてしまった自分にも腹が立った。
 そしてふと思い出した。いつか見たワイドショーで日本のトップモデル“タツミ”と人気若手女優の熱愛が発覚したという内容の記事が報道されていた。あの時は何も思わなかったが、もしかしてこのタツミは酷い女たらしなのではないだろうか。あれだけの綺麗な顔立ちとスタイルを持っていれば容易に納得できる。
 雪野は急いで自分の鞄から小さな香水のビンを取り出した。薬局でアルバイトをしている雪野は時々化粧水やシャンプーなどのサンプルを貰っていた。この香水も数日前に余ったサンプルをくれると言うのでありがたく貰ったものだ。まさか入れっ放しにしていたことがここで使えるとは思わなかった。
 雪野は香水を少し手首につけると、それを枕やシーツにこすり付けた。
――これでカノジョと喧嘩でもすれば良いわ。
 たった一夜の遊び相手だとしても、恋人がいないと嘘をついたり、メモ一つも残さずさっさと仕事に行ってしまうような男は最低だ。
 けれど。
 なぜここまで、こんな嫌な感情を抱いてしまうのか。雪野はそんな自分の気持ちをあえて無視して、部屋を出た。
 ドアを開けて見えた空はこの上なく美しい青空で。
 不意に、泣きたくなった。

* * * *

「あー、タツミ、お前なんで昨日の夜来なかったんだよ? 迷ったって連絡寄越してから音信不通だったじゃん」
「うん、ごめん。迷ってたら可愛い子拾ってさ。朝まで一緒だった」
「なんだよそれ……。で、気に入っちゃったその可愛い子にプレゼントってわけか、それ。でもそれ何なんだ?」
「香水。彼女に似合うと思って。今朝ドタバタしてて一緒に居れなかったから、俺のこと忘れないように」
「あーそー。お幸せに」

≪F I N.≫

+++ あとがき +++
ここまで読んでいただきありがとうございます。
初の読みきり作品のテーマはずばり「香水」です。
香水は私自身付けたことないんですが、なんかマーキング効果ってイメージがあって、
こんな内容になりました。…どうなんでしょうか。
で、ですね。この読みきりは他の二つとは違って、素材からお題を貰う感じで出来上がったんです。
最初に背景を決めて、これに関連する話はどんなのがいいかな、という具合に。
自分的に新境地って感じで楽しめたので良かったです。

皆様にも気に入っていただければ幸いです。
2006/08/27 up  美津希