彼と彼女と…

彼と彼女と香水2


 出会いというは結局偶然の重なりからできた産物であって、二度目の偶然が運命と呼べるものだ。雪野はそう信じていた。だから期待なんかしていなかった。例え出会った相手がテレビでも雑誌でも取り上げられるトップモデルだったとしても、一度別れればあとはすれ違っても気づかない他人同士に戻るだけだと思っていたし、そのことを疑うはずもなかった。
 二度目があった時こそ、最初の出逢いが運命と呼べるものに変わるのだと信じていたのだ。そしてそんな偶然というのは、人生のうちに1度あれば良い方だということも分かっていた。あるはずもないことだから、人はそれを特別なこととして記憶するのだということも知っていた。
――所詮、現実なんてこんなものよね。
 それでもどこかでまた会えるかもしれないと期待している自分がいた。そんな自分がひどく恥ずかしい。
「お先に失礼しまーす」
「お疲れ」
「お疲れー」
 雪野はタイムカードを切り、事務所に戻るとエプロンをハンガーに掛けた。荷物をまとめてまた挨拶していきながら店を出る。やはり今日も上がった時間はいつもと同じで、外はすっかりと暗くなっていた。他の店もほとんどがシャッターを閉じている。
「今日もきつかったなあ」
 まだ生暖かい風が吹いている。雪野はほとんど車の通らなくなった道の脇を歩きながら空を見上げてみた。ほとんど星の見えない空に、ぼんやりと大きな月だけがその存在を見せ付けているかのように浮かんでいる。祖父母の家から見る空にはもっとたくさんの星が見えていて、小さい頃は手を伸ばしたら空に届くかもしれないと思えるほどで、その星達が一番綺麗で輝いて見えたのに。だけど今はぽつんと浮かぶあの月がとても美しく感じる。これも大人になったということだろうか。
「明日もバイトかあ」
 口にしてみて、少し気が重くなる。今日は簡単なミスを幾つかしてしまった。最近大きな試験やゼミの発表も終わって、気が抜けているのだろう。全く集中できていなかった。おつりを渡し忘れそうになったり、説明足らずでお客さんに注意されたりもした。特に今日は酷かったなと一人で反省する。
 それに何より、ほんの数週間前のあの出来事が集中力を途切れさすように思う。別にハジメテだったわけではないけれど、その日会った男と寝たのは初めてだった。そんなことをした自分にも驚いたが、雑誌やテレビで彼を見る度にあの日のことが思い出され、何とも言えない気持ちになる。そして、もしかしたらまた会えるかもしれないと思っている自分が恥ずかしくて、そんな自分に苛立つのだ。
 そんなふうに頭の中を巡らせていた雪野は、人が近づいてきたことに気づかないでいた。
「ユキノ」
 突然声を掛けられ、雪野はハッと我に返る。少し低く甘い男の声に聞き覚えがあると分かると、途端に彼女の心臓は飛び跳ねた。
「雪野?」
 男は固まってしまった雪野の背に再び呼びかけた。ようやく恐る恐るといった感じで雪野が声のした方に振り返る。その動きはあまりにぎこちなく、しかし雪野の体は意に従ってくれない。
「久しぶり」
「……久しぶり、です」
 そこには思った通りの彼がいた。雪野が忘れるはずのない賀川辰己の姿が、今目の前にある。相変わらず綺麗な顔で微笑みながら彼女を見つめていた。
「元気だった?」
 その声も、姿も、忘れるはずが無いのに。でもどうして、記憶の中の辰己はこんなにもぼやけてしまっているのだろう。
「はい――っていうか、どうしてここに?」
 未だ彼の姿を見つめても、辰己が自分の名前を呼んだという事実すら信じられなくて、雪野は口を開くのもやっとだった。それにしても本当にどうして、彼が自分の目の前に姿を現したのだろう。雪野の名を愛しそうに呼ぶのだろう。
「また会いたかった。それだけじゃだめかな」
 肩を竦めて微笑む辰己に、雪野はどう答えたら良いか分からなかった。
「それとも雪野は、あの日のことは一夜限りの夢で終わらせたかった?」
 そういう辰己の表情は月の光が雲に隠されるようにどこか霞んで見えた。モデルを職業としているだけあって顔立ちは整いすぎていて、そこにある瞳に見つめられるだけで雪野の胸は騒がしくなる。だというのにそんな表情をされてしまっては、雪野の心は苦しくなるだけだ。
 しかし雪野の心情も、月の明かりと申し訳程度の街灯の明かりの下では、辰己に気づかれることはなかった。
 何も答えない雪野に辰己はもう一度彼女の名前を呼んだ。
 しかし反応は同じだった。
――もともとそのつもりだったんじゃないですか?
――辰己さんにはあんなにキレイな恋人がいるのに?
 そんなふうに出かかる言葉を飲み込んで、そんなことを聞く勇気のない自分に苛立ちつつ、やっと出たのは「でも」の一言だけだった。
「でも……」
「うん?」
 あの日のように上手く話せない自分が嫌だ。初めて会ったあの時間が、彼のことを何も知らなかったあの時間が戻れば良いのにと思う。
「立ち話もなんだし」
 いつまで経っても続きを言えないでいる彼女に辰己はおもむろに言った。
「車に乗る? 駅まで送っていくし」
 雪野は一瞬断ろうかと迷ったが、戸惑いがちに頷いた。
 辰己は素早く助手席のドアを開け、雪野が座ったのを確認すると、車の前を周って運転席に着いた。その一連の動作はあの時と同じだ。
「このままドライブでもしていく?」
「えっ?」
 振り向いて目を丸くする雪野に、彼はおかしそうに軽く笑った。
「冗談だよ。でも今度こそきれいな夜景を見せたいのは本当だけど」
 ふとあの日のドライブを思い出した。道案内のお礼と言って、辰己の気に入っている場所へ行ったのだ。その日は曇っていてせっかくの夜景が見れなかった。そしてその場所は辰己にとって思い出深い所だということも思い出した。
「あ、そうだ」
 雪野は辰己の呟いた声に、記憶を辿ることを中断した。どうしたのだろうと横を見ると、辰己は体だけ回して後部座席から小さな紙袋を取った。キレイにアイロンされたその袋は白色を基調としていて、紐の部分に黒色が配色されている。またブランド物に疎い雪野でも知っている有名なロゴがシンプルに飾られてる。辰己はそれを持ち上げると、雪野の前に差し出した。
「え?」
 条件反射で受け取ってしまってから、あたふたとする雪野に辰己はにっこりと微笑む。
「俺からのプレゼント。雪野に似合うと思って買ったんだけど」
「……何ですか?」
 雪野は困惑したような表情を浮かべて何度も手の中の袋と彼の顔を見比べた。
「ん、香水。たぶん雪野も気に入ると思うよ。控えめなのにしたし」
「あ、ありがとう……」
 でも、こんな高そうなものを貰って良いのだろうか? というか、絶対高くないはずがないのだ。正直、貰っても使いこなせない自信がある。バイト先でたまに貰う小さなサンプルさえ、何日も鞄の底で眠らせてしまうくらいなのに、本物を手に入れたところで宝の持ち腐れ、豚に真珠だ。
「でも、返します。こんなの貰っても」
「もっと高い物が良いって?」
「や、まさか! そうじゃなくてっ」
 慌てふためく彼女の反応が面白くて、辰己は我慢できずに吹き出した。
「分かってるって。冗談」
「ええ? もうっ!」
 雪野は眉を額に寄せて辰己を睨みつける。そんな上目遣いで睨まれても彼には何の効果も無く、逆にまた笑われた。
「とりあえずそれは雪野のために選んだんだから、俺が持っててもしょうがないし。要らないなら捨てて良いよ」
 さらりと言われて、雪野はますます困った顔になる。見るからに高価な香水を、使わないからといって簡単に捨てることは、どうしたってできない。しかし返すことも拒まれては受け取るしかないではないか。
「分かりました」
 雪野は渋々といった感じでその紙袋を抱きかかえた。こんなふうに言いくるめられるのも、あの日と似ている気がする。
「うん。もし良かったら次会うときに付けてくれると嬉しいんだけど」
「え!?」
 思わず声が裏返った。雪野は顔を赤くしながら辰己の方をまじまじと見る。
「それも冗談ですよね」
「もちろん、本気ですよ」
「えー……」
「えー、じゃなくて」
「無理です」
「残念だなぁ」
 声の調子は落としているのに彼の表情はとても楽しそうで、雪野は辰己がどこまで本気で言っているのか判断できないでいた。
「明日もまた会えない?」
 残念だなぁと言った時と同じ表情で、けれどどこか真剣な目で辰己は言う。雪野はつい頷いてしまいそうになってハッと思い出した。
「仕事は? あるんじゃないですか?」
 思わず口にしてから、しまったと思った。どうせ自分は明日もバイトがあるのだし、素直に頷けば少しは可愛げがあるだろうに、なぜこんな時ばかり捻くれた思考をしてしまうのだろう。案の定、辰己は少し苦笑いになった。
「俺が誘ってるんだから、俺のことは心配しなくて良いよ。それより雪野はどうなの?」
 顔を覗きこまれ、すぐにでも触れ合いそうな距離にどぎまぎしつつ、雪野はおずおずと首を縦に1回振った。
「じゃあまた同じくらいの時間に待ってるから」
 辰己はそう言うと、軽く唇を合わせた。ちゅっと音を立てて雪のの表情を見てみれば、あの夜初めてキスを交わした時のように困ったような恥らうような可愛い反応を見せている。辰己はもう一度雪野に口付けた。今度も触れるだけのものだが、すぐには離さなかった。

 次の日、辰己は約束どおり同じ時間に車から降りて雪野を待っていた。
 雪野は閉店後の作業が思ったより遅くなったことに焦りを感じ、スタッフ同士のいつもの雑談もそこそこにタウムカードを切って足早に店を出た。昨日より少し遅れたこともあって自然と歩く速さも上がる。
「お疲れ様」
 そこに昨日と変わらない辰己の姿を見つけて、嬉しいようなほっとしたような、彼の言葉はいつでも本気だったのかという驚きのような感情がぐるぐると回る。
「今日はドライブに付き合ってもらうからね」
「え?」
 唐突に誘われて動けなくなった雪野を、辰己は優しく抱き寄せながらも有無を言わせない口調で車に乗せた。
「どこに行くんですか……?」
 雪野は仕方なくシートベルトを掛けながら、遠慮がちに尋ねた。辰己は微笑んで見せただけで答えない。車は静かにゆっくりと走り出す。会話のないまま、ラジオから流れる音楽だけが沈黙を作らずにいた。
 最近ヒットしている曲が続き、雪野は声に出さず口ずさんでいた。窓から見える景色は知っている街並みからだんだんと知らない風景へと変わっていく。夜の暗さも手伝って十数分もすると全く分からない場所を走っているように思えた。実際雪野が来たことのない道を走っているのだろう。そのうちに坂道が多くなっていることに気づいた。また山を登っているのだろうか。
「雪野」
 いくつめかの信号に捕まり、ゆっくりと停車すると辰己が雪野の名前を呼んだ。
 振り向くと唇が触れた。かすめるようなキスだった。
「何するんですか!?」
 突然のことにパニックになる雪野を横目に、辰己は変わらない態度で信号が変わるとアクセルを踏んだ。けれどよく見ると、彼の横顔はどこか楽しそうに見えた。そんな表情を見て、勝手にパニクっている自分がひどくバカらしく思える。
「もうすぐ着くよ」
「どこに行くんですか?」
 ふとデジタル時計に目をやると、すでに車に乗ってから1時間近く経っていた。その時間の半分以上を無言で過ごしていたはずなのに、それほど苦痛に感じていなかったことに驚く。
「どうしてもこの前より綺麗な夜景を見せたくてさ」
 車は坂を上りきると広い駐車場のような場所に入った。この前とは違って、そこは山の上ではなく、開拓された住宅地の傍にある高台だったということだ。山の上よりも高さはないが、木々に邪魔されない視界の広さでずっと下の街を見下ろせる。
 雪野は辰己に言われるまま車から降り、下に広がる景色に一瞬にして目を奪われた。見上げる星の数とは比にならない明かりの多さと、その輝きは美しかった。
「きれい……」
 知らず、漏れた雪野の言葉に辰己は満足げに笑顔を見せ、彼女の隣に立った。優しく雪野の肩を抱いて引き寄せる。雪野が抵抗しなかったことに内心安堵した。自然と彼女の肩を抱く手に力が込められる。
「ここは俺も初めて来た」
「え、そうなんですか?」
 雪野は辰己の顔を見上げたが、辰己は真っ直ぐ向けた景色から視線を外さなかった。
「友達に教えてもらったんだ。――なあ、雪野」
 それから静かに雪野と視線を合わす。
 雪野はこれ以上ないくらいに心臓が高鳴っていることを辰己に気づかれないかと緊張していたが、辰己の不思議なほどに穏やかな表情を見て、そんなことはどうでも良い気がした。
「明日も、あさっても、これからもずっと、俺と会ってくれない?」
 そうして降りてきたキスはあの日よりもずっと甘美的で、優しくて、心地良くて、返事も出来ないくらいに繰り返される。
 卑怯だと思う。
 こんなふうに口付けされては、「いや」の一言も出せないではないか。
 だから雪野はそっと、辰己の背に腕を回した。貰った香水は、次に会うときに付けてもいいかな、と思ったのは雪野だけの秘密だ。

* * * *

「おいタツミ。お前最近夜の仕事取ってないんだってな? それってこの前言ってたカワイイコのためか?」
「ん、まぁね。あっそうだ、教えてもらった場所、最高だったよ。これ約束のやつ」
「おお! マジでか! 悪いな」
「何だよ、自分で言っといて」
「だって本気でくれるとは……。で、そっちのは?」
「これは彼女の」
「ふうん。また香水?」
「香水よりも付けててほしいものだよ」

≪F I N.≫

+++ あとがき +++
ご拝読ありがとうございました。
「彼と彼女と香水」の続編として書いてみましたが、
いかがでしたでしょうか?
一度私自身も続編を書こうとして失敗に終わり、
そのまま断念したのですが、その後続編希望の声を頂き、
こうして再びこの作品と向き合うことになりました。
久しぶりすぎて、しかも彼らの性格などの設定もないままだったので、
若干言動に「違うだろう」と思われるところもあるかもしれません。
それは、まぁ、温かい目で見てくだされば…。すみません。
そして次もありそうな終わり方ですが、今のところ予定はないです。
この後は皆様のご想像にお任せしつつ
また希望があれば考えてみようかなと思っています。
その時はお題というか、ネタも頂ければすごく嬉しいです。
2007/04/05 up  美津希

2007/04/11 改訂