彼と彼女と…

3周年御礼記念企画

彼と彼女と「愛してる」


「ちょっ、まっ、聞いた!?」
「えっ、なに! 嘘でしょ!?」
「マジで! 来てるんだって! マジで!」
「うっそぉ! ヤバイんですけど心臓!」
 店の入り口で女の子達が騒いでいる。携帯を片手にやり取りしているらしく、所々話が繋がらない部分があったが、要約すればどこぞの有名人がこの近くに来ているらしい。
 商品を整理しながら雪野は思わず眉根を寄せた。近くで何かがあるらしいという彼女達の話に興味はなく、むしろ店の前で固まらないでほしいという思いだけが募る。数人で固まっている彼女達を迷惑そうに横切る客もいて、けれど無闇に彼女達を注意して波立たせるのも利口ではない気がした。
「雪野ちゃん、雪野ちゃん」
 そろそろ彼女達が店から離れた頃、ヘルプで入っている日高望がちょいちょいと手招きをしながら、小声で雪野を事務所へ呼んだ。休日ゆえに朝から入っていた雪野はそろそろ上がりの時間でもあったので、レジのスタッフに一言声を掛けると、望の後について事務所へ入った。
「何ですか?」
 自分よりも頭一つ小さな望の背中に尋ねる。小柄で可愛らしい雰囲気をまとう彼女は、これでも一つ雪野よりは年上だ。
 もともと違う店舗で働いている望ではあるが、同じチーム店舗であるこの店には、よくヘルプとしてやってくる。そのため、あまり会わないとはいえそれなりに親しくしている仲だった。やや人見知りをする傾向にある雪野でさえ、たまにやって来るスタッフとこうして親睦を深められたのは、彼女の柔らかな口調と人懐こい性格のおかげだと思っている。
 そんな望が言いにくそうに振り返った。
「あ、あんな。雪野ちゃん、もう上がりやろ? うちもこれから休憩に入んねんな」
「あぁ、はい」
「だから今からちょっと、……一緒に見に行かへん?」
 おずおずと雪野の顔を窺うように望は言った。
 しかし雪野は彼女が何を言っているのか、半分ほど理解していなかった。キョトンとした表情で望を見つめた。
「見に行くって、何をですか?」
 雪野が尋ねれば、途端に望の目がキラキラと輝きだした。少し興奮気味に笑顔を見せる。
「今この近くでタツミが撮影やってんやて! うちもさっき教えてもらってんけど。タツミやって! あのモデルの!」
「えっ!?」
 思わず雪野は素っ頓狂な声を上げた。どうして、なんで、と疑問符があちこちに飛び回る。先週会った時にはそんな話、一言もしてくれなかったのに。
 そんな彼女の反応を、当然違う意味で捉えた望は、嬉しそうに更に捲くし立てた。
「あ、知ってる? タツミ超カッコイイやんなぁ! うちめっちゃ好きやねん! うちの周りあんまりそういうコトに興味なくて全然話せへんかってんけど。ああ、でも雪野ちゃんがいてくれて良かった! ていうかていうかタイミング合ってくれて良かったわぁ。な、一緒に行ってくれるやろ?」
 その勢いに押されて、考える間もなく雪野はコクコクと頷いていた。にぱぁと望の笑みが満面に広がって、ようやく自分が承諾したのだと気づいた。それでも思いがけないチャンスに、素直に仕事をしている辰巳の姿を見てみたいという欲求も湧き出てきた。
 思えば、雪野が知っているのは個人である賀川辰巳であって、モデルとしてのタツミを間近で見るのはこれが初めてなのだ。
 表面上は望に付き添って、内心では楽しみで仕方ないくらいドキドキと胸を高鳴らせ、雪野はタイムカードを切って望と共に店を出た。
 もしかしなくても店の前で騒いでいた女の子達は、タツミのことを言っていたのかもしれない。雪野がそのことに気づいたのは、住宅街から離れた空き地の辺りに見たことのないほどの人だかりを見つけたときだった。

「うわぁ、やっぱすごい人気やな」
 人だかりを見上げて望は感心した声を出した。頭上に携帯電話を掲げて写メを撮っている人もいれば、上手く見えなくて飛び跳ねている人もいる。
「見れないですね、これじゃあ」
 雪野は気落ちした声にならないよう気をつけながら、望に声を掛ける。
 キョロキョロと辺りを見回していた望は、何かを見つけたのか、雪野の手を取って人だかりの外れへと移動していく。連れられるままにしていると、ちょうどスタッフや機材が集まっているテントが見えてきた。辰巳の姿からは離れるが、なんとか見える距離にはなった。
「やっぱりちょっと離れると人も来ないもんやね」
 確かに辰巳が撮影している場所は道路側に寄っていて、望が来たのは空き地の中央付近であり、舞台裏という感じがありありとして一般人を寄せ付けない雰囲気があった。
「あーでもやっぱり、カッコイイなぁ」
 感嘆交じりに望が隣で呟いた。雪野も同意したかったが、彼の姿に見入ってしまい、声を出すことも首を動かすことも出来なかった。
 カメラに向かってポーズを決めていくその様は、当たり前のことなのだが、雪野の知っている彼ではなかった。一度その眼差しを見てしまえば、騒いでいた傍観者さえも思わず呼吸を止めてしまうほど、醸し出す空気が違う。
 こっちを見てほしいという気持ちと、見ていることに気づかれたくないという気持ちが交差して、雪野は不思議な気分になった。
 簡単に言えば初めて見る彼の仕事に興奮――しているのだろうと思う。
「あれ? 日高先輩?」
 不意に後ろから声がして、望と雪野は一緒に振り返った。そこに居たのは端正な顔立ちをした青年で、どうやら望の知り合いらしい。
「あれ、藤崎くん。どしたん?」
「どうしたって、そこのスーパーに行ってみようかと思って」
 そう言って彼が指差したのは、この空き地を過ぎた坂の上にある大型スーパーだった。駅前にあるスーパーよりも大きく、安さよりも品揃えを重視している店舗である。
「それよりもコレ何ですか?」
「タツミの撮影やってんねん! うちファンやってんよ」
「タツミ……、ああ、モデルの」
「やっぱ生で見るとカッコ良さが尋常ちゃうわ。何あの手足の長さ。顔ちっちゃいし」
 褒めちぎる望の言葉を聴きながら、そうだよね、と雪野は意味もなく落ち込んだ。そんな彼の隣に自分なんかがいるのは可笑しい気がしてならなかった。今まではそんなこと、深く考えたことはなかったのに。
「あ、もちろん藤崎くんもカッコええよ。タツミとはタイプは違うけど充分イケると思うもん」
「ありがとうゴザイマス」
 本気に受け取っていないのか、藤崎と呼ばれた青年はにっこりと笑った。
 ドキッとした。確かに望の言うとおりタイプは違うが、顔もスタイルもプロであるタツミに引けを取らないような雰囲気が彼にはあった。タツミが華やかさがあるタイプだとすれば、この青年は爽やかさといったところか。
「冗談ちゃうのに」
 望は彼の笑みを見て不満気に頬を膨らます。その表情があまりに幼くて、かわいらしく、雪野と藤崎は同時にくすっと笑みを零した。
「あかん、うち、そろそろ戻らんと」
 時計を見て更に悲しげに言って、望は二人に声を掛けた。その声音にはもっと撮影風景を見てみたいという未練が出ている。
 それでも時間が気になっているのだろう、望は名残惜しそうに二人と別れた。
 残された二人はお互いに見合って、へらっと微笑む。不思議だな、と雪野は思った。初めて会うのに彼の雰囲気は優しくて、落ち着けた。
「え、っと……?」
 じっと見つめられるとドキドキする。それは単にこの青年が望の言うとおり、テレビや雑誌に出ても可笑しくない程には整った容姿をしているからだと分かっている。
 そして問いかけられた意味を把握して、雪野は慌てて頭を下げた。
「あ、長倉です。日高さんとはバイトが一緒で」
「ああ、そうだったんですね。僕は大学の後輩で、藤崎です」
 大学生――ということは雪野と同じ年くらいだろうか。望の後輩というのだから雪野と同い年か一つ下ということになる。
「それにしても凄いですね、本物は。ああいう人の恋人って大変そうだなって思うんですけど」
「え?」
 いきなり核心を突かれたような気がして、でもまさか彼が自分たちのことを知っているはずもなく、雪野はどういう言葉が適切か判断しかねた。
「いやほら、前に結構騒がれてたじゃないですか。えっと、女優の……」
 それでようやく思い出した。噂は噂で曖昧なものではあるが、両者とも未だにはっきりと否定の言葉を口にしないため、業界の中では公認カップルとして定着しつつあるタツミの交際相手のことを、彼は言っているのだ。
「騒がれるのは、当人にしたら大変ですよね。そうじゃなくて、普通の人が恋人でも、それはそれで大変そうですけど」
「まあ、そうですよね。近くにいても遠距離してる感じなんですかね」
「そうかもしれないですね」
 遠距離恋愛とは、なかなか的を射ている、ような気がした。実際海外での撮影も少なくはなく、1ヶ月会えないことはざらにある。
「好きだとかちゃんと言葉にしてくれないと、疑っちゃいそうです。芸能界って綺麗な人とかがたくさんいるし」
 思わず本音が出てしまった、と焦ってみるが、藤崎は小さく笑って見せただけで特に何も言わなかった。
「それは一般人の僕も一緒ですよ。彼女の周りの男は皆気になります」
「あ、やっぱりいるんですね、彼女」
「いますよ。僕はちゃんと愛情表現してますからね」
「はは、惚気ですか」
 二人でクスクスと笑っていると、不意に歓声が上がる。
 何事かと見てみれば、撮影は終わったのか、タツミが雪野たちの前にあるテントへと向かって歩いてきた。
 雪野の心臓がよりいっそう高まった。
「あれ? 僕達見られてるのかな」
 歓声に紛れないように、藤崎が雪野の耳元に口を近づけて言った。もしかしなくても辰巳の視線は雪野に向けられている。
 だが雪野はその視線から逃れるように藤崎の方へ曖昧に微笑んでみせる。気のせいであってほしいと心底願う。
「まさか」
 気づいていても辰巳なら動揺を見せず、雪野のようにこんなにもうろたえず、やり過ごすに決まっている。
「でもなんだか、こっちに近づいてきてるけど」
 藤崎の言葉にやっとの思いで顔を上げれば、確かに辰巳は悠然と足を進めてきていた。目の前にスタッフ用のテントがあるのだから、おそらくはそちらへ向かっているだけなのだろうが、野次馬と共に移動してくるその威圧感は、雪野には耐えがたかった。
 知らず、その場を離れようと後ずさる雪野だったが、その腕は不意に引っ張られた。
「っ!?」
 彼女の進行を阻んだのは他の誰でもない、辰巳だった。そのことが更に雪野を混乱させた。
 真実がどうであれ、今の彼は芸能人で、雪野は一般庶民だ。触れ合うことなどあってはならないのに。
 キャアッ、という悲鳴にも似た声があちこちで上がる中、当のタツミは平然と、むしろ悠然と微笑んでいる。
「ああ、ごめんごめん。俺の知り合いによく似てたから。驚かせたかな?」
 それはわざとらしい言い訳にしか聞こえなかった。――と感じたのは、辺りの気配を窺えばどうやら雪野だけだったようで。
「ところでキミ、カッコイイね」
 腕を引っ張り雪野をやや自分の方へ引き寄せた辰巳は、用はそれだけだというように手を離し、目の前に立つ藤崎に視線を移した。
 プロのモデルに容姿を褒められた藤崎は、さすがに照れた様子で小さく笑う。
 その視線の鋭さに気づいたのは、きっと彼の表情を下から見上げていた雪野だけだっただろう。
 辰巳の視線に宿る僅かな違和感は、それを真正面から受けた藤崎は気づいていたかもしれないが。


 その日の夜、辰巳にしては珍しく電話がかかってきた。
『昼間のアイツ、誰だったの?』
 声だけでは不機嫌なのかそうでないのかの判断ができなかった。けれど電話をするくらいなら会いに来ることの方が圧倒的に多い辰巳にしてみれば、やはり気分は不機嫌な方向に傾いているんだろう、と雪野は結論付ける。
「バイト先の人の大学の後輩だって。別にどういう関係もないよ? 今日初めて会ったんだし……」
 いつになく雪野の口が饒舌に動くのは、誤解を早く解きたかったからだ。けれど辰巳には怪しいだけにしか聞こえなかった。
『それだけ? 良い雰囲気に見えたけど』
「それだけです。確かに話しやすかったけど」
『ふぅん』
「それにあの人、ちゃんと彼女いますよ。ラブラブって感じで、惚気られちゃいましたもん」
 雪野がそういうと、ふ、と電話の向こうの空気が和らいだ気がした。先に言えば良かったと反省する。
『雪野は? 惚気なかったの?』
 急に甘い声になった辰巳に、雪野の顔は赤くなった。電話でなかったら思い切り辰巳にからかわれただろう。
「してません。ていうかできるわけないじゃないですか。……本人が目の前にいたのに」
 ふふ、と笑う声が小さく聞こえた。
『それもそうだね。そういうところ、雪野らしくて可愛いよ』
「……辰巳さんもけっこう、そういうこと言いますよね」
『そういうこと?』
「可愛い、とか」
『好きだよ、愛してる、もね。俺は言うよ』
「……」
 言い出した雪野が照れてしまった。きっと辰巳はそれも分かったのだろう、嬉しそうに声を低くして囁いた。
『だって雪野は不安になるだろ』
 それを聞いて、雪野は思わず息を呑んだ。
 気づかれていたのだ。
 雪野が何も言わなくても、彼女の小さな不安は辰巳に気づかれていたのだ。
 その優しさに雪野は気づいていなかった。
「すみません……」
 気づけば謝っていた。どうして? と辰巳が尋ねてくる。
「あたし、面倒臭いですよね」
『何言ってるの? 面倒臭いのはむしろ俺でしょ。街で堂々とデートできないし、他の恋人疑惑まであるし。謝るなら俺の方だよ』
 それは――なんだか次元が違う気がする。
『だから謝らなくて良いし。それよりかは雪野からも言ってほしいな。かっこいいとか好きだとか、そういう言葉をさ』



「……っ好き、ですよ……辰巳さん」


『うん、俺も愛してる。雪野だけだよ』

 真剣な声で囁かれ、雪野は思わずバカ、と呟いた。

≪F I N.≫

ありがとうございます!
おかげさまでサイト開設から4年目を迎えられました。
ひとえに皆様のおかげです。
とりあえずこれは…恥ずかしすぎました…。
2009/08/08 up  美津希