彼と彼女と…

15万打御礼記念企画・リクエスト作品

彼と彼女と残り香


『え? 今から、ですか?』
 雪野の驚く声に、辰巳は自然と笑みを浮かべていた。ふと隣の鏡に気づき慌てて表情を元に戻すが、顔の筋肉はどうにも緩んでしまう。それも全て携帯電話越しの彼女のせいだと思うと、結局は自分の気持ちの問題になるわけで、仕方なく時計に目をやった。
「車で飛ばせばすぐだから、店の前で時間潰してて。近くまで行ったらまた連絡するから」
 腕時計と壁時計の誤差を確認し、辰巳は立ち上がった。
「じゃあ、また後でね」
『うん』
 携帯電話をしまうと楽屋から出る。今日は思いのほか時間がかかってしまった。本当は雪野の上がる頃には向こうに着いている筈だったのだ。知らず溜め息が漏れる。彼女の声を聴いては表情が緩み、時間を見ては溜め息が出る。最近はそれの繰り返しだった。だから雪野の反応も「無理だったら来なくていいのに」というものなのだとは分かるのだが……。
「会いたいのは俺だけなのかな――」
 扉の前で呟いてみても答えが帰ってくる筈もなく、辰巳は踵を返して廊下を歩き始めた。時間はないのだ。
 角を曲がると、前から慌しく走ってくるスタッフの男と目が合った。確か衣装担当の新人スタッフだった気がする。
「お疲れ様ですっ」
「お疲れさま」
 そうして爽やかに挨拶をしてくれた彼の横を通り過ぎようとした時、「あのっ」と呼び止められた。振り返ってよくよく見てみれば自分とそう変わらない年の男だった。新人と言っても自分より年上であることが多い中で珍しい気さえした。
「あの、マネージャーの方が呼んでるのでお伝えするようにと言われたんですけど」
 辰巳は心の中で舌打ちをしつつ、腕時計に目をやる。
「ああ、ありがとう」
「いえ。お疲れ様でした」
「お疲れさま」
 そして今度は本当に通り過ぎる。その足は急ぐでもなく、辰巳はただ若いスタッフには背を向けて表情を歪ませた。

 雪野は気まずそうに外の景色を眺めていた。隣で運転する辰巳の様子がおかしいのは、近くまで来たという連絡が入ったときから感じてはいたが、彼自身があまりに普通に振舞うのでその理由を聞くタイミングが計れないのである。
 今も不機嫌なオーラすら隠してしまっているが、運転中何も話しかけてこないこと自体が珍しいほど不自然なことを、辰巳は気づいていないのだろうか。雪野も元々口数の多いタイプではないが、黙り込まれては成す術もない。だから仕様もなく外を眺める。
 知っている街並みから最近見慣れてきた通りへと入る。この先にあるのは辰巳のマンションだ。
 まだ新しい外観のそのマンションの駐車場は地下にあり、辰巳は車を滑らすようにそこへ入れる。いつ乗っても彼の運転は上手いのだと実感する。最初に会ったときもそうだったが、辰巳が運転する車ならば雪野は酔うことがなかった。
「先入っていて」
 車から出ると家の鍵を雪野に渡し、辰巳は携帯電話を取り出した。
「でも……」
「すぐ行くから」
 雪野は戸惑いながらも、辰巳が申し訳なさそうに微笑むので、強くは拒めずに頷く。それを確認した辰巳は背を向けてどこかへ電話を掛けたようだ。
 雪野はその様子を気にしながらも言われたとおり、先に彼の部屋へと入ることにした。何度か来たことがあるので迷うことはないし、一人で通ったこともあるのだが、来る時に一人ということはなかったのでどこか不思議な気がした。部屋から出るときはたいてい一人なのに、と可笑しささえ込み上げてくる。
 鍵を開けてそっと扉を開く。
「お邪魔します」
 本人がまだ駐車場にいることを知っていてもつい声を掛けてしまうのは、日本人としての性だろうか。玄関のドアの鍵は掛けずに扉だけを閉める。ワンルームのこの部屋の電気を付けると、先日来たときと変わらない部屋の様子にどこかほっとする。自然と雪野の足はベッドへ向かう。
 壁とソファに挟まれるように置かれているその空間が雪野にとってお気に入りのスペースだった。辰巳がいないのをいいことにベッドへダイブする。その衝撃にベッドが僅かに軋み、雪野の体が揺れた。
「……ん?」
 その違和感に気づくのに時間はかからなかった。ただ何に対して違和感を抱くのかがよく分からなかっただけで。
 雪野はそっと体を起こして周りを見渡す。何も変わったところもおかしい所もない。気のせいだったのだろうか? 雪野はもう一度体を横にした。
「あ……」
――やっぱりだ。
 雪野は上半身だけを起こしてベッドに敷かれている布団をまじまじと見つめる。原因が分かった気がした。
 それと同時にどうしようもない立ち込める暗雲のような気分が襲ってきた。雪野はすぐにベッドから降り、ソファの上に座る。背もたれ越しからベッドを睨んだ。
 そうしているうちに辰巳が部屋へ戻ってきた。鍵を閉める音がして振り返ると、彼はコートを脱いでいるところだった。雪野はまだ上着を脱いでもいない。
「ごめん、雪野。遅くなった――」
 言いながら辰巳は彼女の様子の異変に気づく。いつもなら真っ先にテレビを見ようとするのに、どうしてベッドを見るように後ろを向いてソファに座っているのだろうか。
「どうかした?」
 聞いてみるが雪野はただ辰巳を睨むように見上げるだけだ。
「雪野?」
「……くさいです」
 辰巳は驚いて、思わず自分の衣服の臭いを嗅ぐ。煙草は吸わないし、酒を飲んでいるわけでもない。部屋の掃除は欠かしていないから問題はないはずだ。
「違う。辰巳さんじゃなくて」
 雪野は少し顔を俯かせて言った。
「ベッド、香水の匂いがします。あたしは付けないのに」
「え……?」
「誰か来たんですか? 女の人」
 辰巳は一瞬、雪野の言っている言葉の意味を理解できなかった。ベッドに香水の匂い。そんなものに心当たりなどまるでなかった。
「この部屋に入れたのは友達や雪野以外には居ないよ。友達も男ばっかだし」
「とりあえず嗅いでみてください。しますから、甘い匂いが」
 雪野の強い口調に気圧されながらも、辰巳はベッドへ近づき、言われたとおり息を吸ってみる。確かに僅かだが香水独特の甘い香りが漂っている。
 辰巳はハッと、バツが悪そうに顔を歪めた。そういえばこの香水には覚えがあり、その人物については先ほど電話で言われたばかりだった。
 その辰巳の表情に雪野が気づかないわけはなく、途端に顔を曇らせる。
「やっぱり……」
「違う、そうじゃなくて」
「何が違うの」
 今にも泣き出しそうな雪野と向き合うように、辰巳はベッドの上に上がり、腰を屈めた。そっと彼女の頬に触れる。触れる事を拒まれなかったことに安堵しながらも、心中はなかなか落ち着かない。彼女に悲しい思いはさせたくはないのに、どうして自分は――。
「確かに雪野以外の女性をこの部屋に泊めたけど」
 刹那、雪野の肩が震えた。けれど辰巳は優しく彼女の頬に手を添えたまま撫でる。いつ雪野の目から雫が溢れてもすぐに拭えるように。
「俺はその間この部屋には帰らなかったんだ。夜は雪野とデートしてるし、その後は事務所に泊めてもらってた」
 どういうことなのか、と雪野は視線だけで尋ねた。そんな状況になるのはどうしてだったのかと。
「今、俺と噂になってる子、いるでしょ」
「うん……」
 それは雪野が辰巳とこうして出会う前からあった噂で、今ではすっかり公認カップル扱いになっている。その真相は雪野自身も分からない。聞いたこともないし、聞きたくないというのも本音としてあったからだ。もし聞いてしまえば、何かが壊れるのではないかと、恐怖にも似た不安がたまらなく溢れてくることなど分かっていた。
「今日マネージャーにも確認されたし、さっき下で電話も入れさせられたから、雪野にも言うけど」
 ズキッと胸が痛んだ。
「あの子、今付き合ってる人がいるんだよね。その相手も同じ業界の人らしくて、今そういうスキャンダルがご法度なんだって。で、彼とデートしてるところを偶然写真に取られたんだけど、どうも俺と背格好が似てたらしくて、記者が俺と間違えて報道したんだよ。真っ先に俺に謝りに来てさ、でも事情が事情だし、その時は俺も雪野と会う前だったからさ、安請け合いしたんだけど」
 もちろん事務所側にも黙っていたことは失敗だったと気づくけれど、その時は既に雪野と出会っていて、雪野とのことがバレないのなら良いカモフラージュになると考えて今まで当事者のみが知るトップシークレットとなったわけである。そこまで説明して、辰巳は彼女の頬から手を離した。
「本当なら雪野には関係のない話なのに、ごめん。不安にさせて、ごめんな」
 雪野は思わず辰巳の首に抱きついた。欲しいのはそんな言葉ではない。フルフルと頭を横に振って、辰巳に回した腕に力を込めた。
「もっと早く言えば良かったかな?」
 雪野から抱きついてくるのは初めてで、そのことに嬉しさを感じながら、辰巳も同じくらい強く雪野を抱きしめた。彼女からの抱擁がこんなにも喜びを感じさせてくれるものだとは思わなかった。
 辰巳は雪野を抱きしめ、ソファからベッドへ持ち上げた。雪野を抱きかかえるように座らせると、何度も彼女に口付けをする。
「雪野――」
 彼女も自分を想ってくれているのだと感じるだけで、辰巳の理性は呆気なく片隅に追いやられてしまう。けれど雪野はそれを拒んだ。
「やっ」
「雪野?」
 体を寝かそうとすると、思い切り力の限りそれを阻止する彼女に、辰巳はどうしたのかと彼女を見る。耳まで赤くした雪野は、さっきまでの悲しそうなものとは違う涙を浮かべながら、いやいやと首を横に振る。
「どうして?」
「どうしてって……」
 理由など決まりきっているではないか。そう言いたげな表情の雪野に、辰巳は困ったように眉を寄せた。自分が彼女を好きなように、彼女も自分を想ってくれているのではないのか。それとも。
「やっぱり俺だけが雪野にしたいと思ってるのかな。雪野は俺とあまり会いたくないようだし」
「な、なんでそうなるの」
「だって電話でもメールでも、いつも素っ気無いじゃないか」
 今度は雪野が困ったように辰巳を見つめる。
「電話もメールも苦手なんですっ。友達にだって絵文字なんか使わないし――」
 いや、そんなことはどうでもいいのだ、と雪野は気を取り直す。
「じゃなくて、香水!」
「香水?」
 キョトンとする辰巳に雪野は力いっぱい頷いた。
「理由はどうあれ、他の女の人の香水が付いたところなんて、嫌です……」
 ああ――。
 辰巳は自然と緩む表情をどうすることもできなかった。
 どうして彼女はいつもいつも、こうして自分を幸せにしてくれるのだろう。たった僅かな残り香にさえも嫉妬してくれる愛しい彼女を、辰巳はいつまでも抱きしめた。きっとこの腕を離すことはないだろうと感じながら。

≪F I N.≫

+++ あとがき +++
リクエストにより「彼と彼女と…」の続きを、ということでしたので。
いかがでしたでしょうか。一応本編として読んでいただければと思います。
約半年ぶりのカレカノでしたが、こちらもお気に召してもらえれば嬉しいです。
ご精読ありがとうございました。
2007/11/17 up  美津希