彼と彼女と…

彼と彼女と甘い香り


 ドアを開けると両手一杯の花束を抱えた辰巳の姿があった。
「おめでとう、雪野」
 雪野は面食らった顔でしばらく驚きから動けないでいた。ようやく我に返ると、おずおずと手を伸ばして何とか抱えきれそうなほどの大きな花束を受け取る。「おめでとう」の意味は理解できたが、まさかこんな演出をしてくれるとは思ってもおらず、素直に嬉しい。
「ありがとう。辰巳さん、狭いけど入ってください」
「うん、お邪魔します」
 花束を抱えたまま体を横にずらして辰巳を部屋の中に入れた。辰巳の部屋へは何度も行っている雪野だが、こうして自分の部屋へ招き入れるのは初めてだ。見慣れたはずの空間が途端に別の風景に見え、なんとも不思議な気持ちだった。しかしいつまでもじっとしているわけにもいかず、中へと足を進める。
「なんだ、綺麗に片付いてるじゃん」
 ぐるりと部屋を見回した辰巳が感心したように呟けば、勢いよく雪野が振り返った。心なしか顔が赤く染まっている。
「あんまりじろじろ見ないでくださいね。……あの、それよりこの花、嬉しいけど、入れるものが無いんだけど」
 困ったように視線を寄越してくる雪野に辰巳は、それもそうだなと初めて気づいた。確かに8畳1Kのアパートで暮らしている大学生の部屋に両手一杯の花束を飾れるような花瓶があるはずもない。祝い事には花束だとしか考えていなかった辰巳は、そこまで頭が回らなかった。
 しかし、わざわざ花瓶を買いにまた出かけるのも勿体無く、辰巳はすぐに考えることを放棄した。
「まぁ、とりあえずそこらにでも置いていてくれればいいよ」
「そう?」
 あっさりとそんなふうに言われ、雪野は戸惑いつつもテーブルの上へ横に置いた。せっかく貰った花束を無碍にするような扱いでいいんだろうか、とも思うが、くれた本人がそう言うのだからと言われたとおりに従うことにした。
「じゃあ早速だけど、これ持ってきたんだ。開けよう」
 そう言って辰巳は持っていた紙袋から一本の赤ワインを取り出した。酒に詳しくない雪野に薀蓄を垂れるつもりはないが、ソムリエの資格を持つ店主と相談して選んだ一本だ。値が張ったのは確かだが、大事なのは高価かどうかではない。雪野が気に入るかどうかである。
「え、でも、ワイングラスも無いよ?」
 またしても戸惑う雪野に、辰巳はクスッと笑った。
「そう思って一緒に買ってきた。数百円のグラスで悪いけど」
「値段は別にいいけど。ありがとう。あ、どうぞ、座って」
 ずっと立ち話をしていてもどうかと思い、雪野は丸いクッションを一つ床に置いてそこへ座るよう促した。辰巳の部屋とは違い、ベッドとテーブルに挟まれた空間にソファなどを置けるスペースがあるわけもなく、雪野はこの日のためだけにクッションを買ったのだった。雪野一人ならば直でも構わないが、さすがに辰巳に対してそんなぞんざいなことはできない。
 そうして、予め作っておいたチョコレートケーキをキッチンから持ってくる。これは雪野が辰巳へ連絡をした時、彼から言い渡された“宿題”だった。――雪野の手作りチョコレートケーキである。
 いびつではあるが一応円形を保っているそれを見て、辰巳は素直に驚いた。思っていたよりもちゃんとしていて美味しそうだ。
「上手いな。やるなぁ、雪野」
「頑張りました! でもどうしてチョコケーキ? 辰巳さん甘いもの、そんなに好きだったっけ」
 頬を膨らませた雪野は、辰巳と向かい合うように座ると、疑問に思っていたことをそのまま口にした。“宿題”を出された時からずっと思っていたことだった。
 基本的に辰巳は好き嫌いが無い。かといって特別甘い物好きというわけでもないことは、約1年半付き合ってきた雪野は知っている。
 すると辰巳は、やはり何かを企んでいるようなニンマリとした笑みを浮かべた。
「単に俺が雪野の作ったものを食べたかっただけ」
 なまじプロとして容姿を売っている彼の笑みは、それだけでドキリとするほど魅力的だった。
「なにそれ?」
「雪野でもお菓子なら大丈夫かと思ってさ。チョコケーキにしたのは、ちょっとハードル上げてみようかと思った俺のSゴコロ」
 1年半の付き合いの中で、雪野の料理の腕前は当然辰巳の知るところにある。あまりにも単純な理由に雪野は少しだけムッとした。
「ひどい!」
 憤慨する雪野に、辰巳は頭を撫でながら「悪かったよ」と謝る。辰巳としては何も馬鹿にするためにさせたことではないのだが、ここで彼女の機嫌を損ねるのは得策ではない。
「だからチョコに合うように、赤ワインを買ってきたんだ。ほら、乾杯しよう」
 何に対して「だから」なのかは分からなかったが、雪野としても辰巳といるのに不機嫌でいたくない。撫でられる手に慰められるように気を落ち着けると、コクンと頷いて同意を示した。良かった、と安堵の息を吐いた辰巳の手がそっと離れる。
 グラスに注がれたワインを見つめ、雪野は少しだけドキドキとしてきた。実を言えば、これがワイン初体験となるのだ。今まではその独特な強い香りが苦手で手をつけてこなかったが、辰巳の買ってきたものはそれほど香りの強くない優しいワインだった。これなら飲めそうな気がする。
 雪野がグラスを手に取るのを確認した辰巳はそれを持ち上げ、雪野の持つグラスへと傾けた。
「それじゃあ、雪野の内定祝いに、乾杯」
「乾杯っ」
 カチン、とガラスの当たる音が響く。僅かに香りを堪能してからグラスへ口付ける辰巳を真似して、雪野もワインを一口飲んだ。しつこすぎないコクと酸味が口の中に広がり、まろやかな後味が気持ち良い。
「飲みやすいだろ? すごい年代モノってわけじゃないけど、その分あっさりしてるから、雪野でも大丈夫かと思ったんだ」
「うん、美味しいです。ありがと、辰巳さん」
 ニッコリと笑う雪野の返事に満足した辰巳は、さて、とグラスを置いてチョコレートケーキへ目を移す。本来の目的はワインを勧めることではなく、このケーキだ。
 雪野が取ってきてくれたフォークで適当な大きさに切り取り、自分の手元へ持ってくる。適度な硬さのスポンジで、チョコレートの塗り加減に目をつぶれば、それなりな出来栄えのようだ。辰巳はそれをパクッと食べた。
「んっ! 美味い」
 思わず辰巳が言えば、雪野は嬉しそうに破顔した。安堵と嬉しさだ。一度も味見をしなかったことは辰巳には決して言うまいと心に決め、自分も、と自作のケーキへと手をつける。初めてにしては良い出来栄えではないかと自画自賛してみる。難を言えば少しチョコレートが多かったというところだが、ワインの酸味がそれを緩和してくれている。なるほど、「だから」なのか、と雪野は納得して、一人でうんうんと頷いた。
「辰巳さんに言われてレシピを色々調べたんだけどね、すごいんですよ! 炊飯器で作るレシピがあって〜」
 ワインをグラス1杯分飲み干した頃、楽しそうに雪野が話し出した。普段の彼女はどちらかと言えば大人しい雰囲気なので、辰巳は相槌を打ちながらも用心深く雪野の様子を眺めた。ニコニコとする彼女は耳まで赤くしていた。今までの経験からして、もう少し酒には強かったはずなのだが……初めてのワインにテンションが上がったのだろうか。
「もう酔ったのか? 首まで真っ赤だぞ」
「えぇ? 酔ってませんよ。それにしてもワインってこんなに美味しかったんですね。なんか感動!」
 ヘラヘラと笑って答える雪野を見て、辰巳は内心で首を横に振った。酒と言うよりは気分に酔っているのかもしれない。
 ふと、辰巳の中で悪戯心が頭を覗かせた。内定が出たとの連絡を受けた時、祝いをやるから手作りチョコレートケーキを用意して、と言った時と同じ見えない悪魔が、辰巳の耳元に囁いたのだ。
「雪野」
 辰巳が甘い声音で彼女の名前を呼ぶ。呼ばれた雪野はワインから辰巳へと視線を移すと、ずい、と目の前にチョコレートが突きつけられた。
 正確にはチョコレートが付いた辰巳の人差し指、だ。雪野は意図が読めず、不思議そうに辰巳を見上げた。
「なぁに?」
 小首を傾げる雪野に、辰巳の胸が高鳴る。普段色気など微塵も見せない彼女の潤んだ目や、赤く染まった頬、そして何よりも己の脳内補正が相俟って、想像以上に興奮した。
「付いちゃった。舐めて?」
 言われたセリフに、雪野は目を丸くして驚く。
「……それ、なんてエロゲー?」
「さぁ? 生憎、俺はゲームをやらないから分からないけど」
 絶対に引こうといしない辰巳の指先を見つめながら、雪野はそっと辰巳を窺う。ニッコリと笑っているのにこの威圧感は何だろうか。今までふわふわといた幸せな気分が一気に萎えていく。今度は恥ずかしさから顔が熱くなっていくのが分かる。
「やらないとダメ?」
 最後の悪足掻きと思いつつも、とりあえず抗議をしてみる。辰巳の笑みはそのままだ。
「ダメ。舐めてよ、雪野」
 言って、更に指先を近づけてくる辰巳に、雪野は泣きそうになった。なんだ、この羞恥プレイは。
 今までこんなことは無かった。からかって恥ずかしいことを言わせようとしてきたことは数々あるが、それでもここまで無理強いされたことはない。そのことに戸惑いつつも、やはり無自覚な面食いである雪野は、整った辰巳の笑みに抗い続けることもできず、いよいよ腹を括る。
 目を瞑って口を小さく開け、恐る恐る舌先を出す。ペロッと舐めるとチョコレートの甘さを僅かに感じた。それだけで一杯一杯だった雪野は口を離し、辰巳を見上げる。とりあえず舐めたことは舐めたのだし、これで勘弁して欲しい、と切実に願う。
「どうしたの?」
 そんなふうに問われて、雪野は困った。
「え……、あの、舐めました……」
 辰巳の反応が怖くて、小声で答えたのだが、雪野の願いは届かなかったようだ。
「ダメだよ、ちゃんと綺麗にしてくれなくちゃ」
「……」
 ひどい。そう心の中で叫ぶが、せっかくのお祝い事の席で喧嘩をするのは嫌だった。しかしできないことはできないので、雪野はどうしていいか分からなくなる。気づけば熱くなった目頭から、ほろほろと涙が溢れ出した。アルコールが入って涙腺も弱くなっているのだろうか。何にしても、本当に泣いてしまった自分に、ますます雪野はパニックになった。
 しかし雪野よりも慌てたのは辰巳だ。泣きそうになる雪野を「可愛い」などと思いつつ見ていれば、実際に涙を流し出したのだ。
「あっ……ごめん、雪野。そんなに嫌ならやらなくていいから、泣くなよ……」
 急いでテーブルを回り、雪野を腕の中へ抱きしめる。わざと付けた指先のチョコレートは近くにあったティッシュで拭き取り、さらに雪野を抱く腕に力を込めた。
「た、辰巳さん……」
「意地悪が過ぎたな、ごめん」
 辰巳は雪野の声が聞こえると、そっと腕を緩め、片方だけの手で彼女の涙を拭った。
 しかしそれが間違いだった。より間近になった彼女の潤んだ目、赤く火照った頬、先程自分の指先(についたチョコレート)を舐めた口を見て、辰巳の欲望が沸々と沸き起こってくる。
「雪野。改めて内定おめでとう」
「うん」
「うちの事務所は滅多な事が無い限り内定取り消しなんてないから、雪野が辞退しない限りはこれで決まりだ」
「うん」
「これからもずっと一緒だ、な?」
「……うん」
 頷いて、ようやく小さく微笑んだ雪野に、堪らず辰巳は口付けを落とした。遠慮なく、チョコレート味のキスを隈なく堪能する。名残惜しかったが、息の上がる雪野に気づくと、そっとキスを終えた。
 雪野に辰巳が所属する芸能事務所を就職先として紹介したのは、他でもない辰巳だった。が、実際に受けるのは雪野で、彼女が本当に受けてくれるかどうかは賭けだった。現に雪野はいくつかの企業と並行して彼の芸能事務所の就職試験を受けていた。
 そして雪野のことを事務所に隠している辰巳が人事に関して口を挟めるわけもなく、実際に採用されるかどうかも、また運次第だった。その二つの奇跡を手にした彼女と、己の運の強さに、誰よりも喜んだのは辰巳だ。辰巳だけが知る事実ではあるが。――だからこそ、この幸運を決して手放さない、と信じていなかった神に誓った。
 辰巳は雪野を腕に抱いたままワインを口に含み、再び雪野へ口付ける。いわゆる口移しだ。雪野が飲み干しても暫く彼女の味を貪り、そしてまた口を離してはワインを口移しする。
「ん、だめっ……酔っちゃう」
 幾度目かの口移しを終えたとき、苦しそうに雪野が喘いだ。しかし辰巳はもう止める気はない。今泣かれても止めてあげられないだろう、と申し訳なく思う。
「酔えよ、ほら」
 そうしてまたワインを飲ませ、辰巳は彼女の舌を吸い上げた。妖艶なワインの香りは、辰巳の持つ雪野とはかけ離れていて、しかしそれはそれでそそられるのだ。そして不意に、初めて雪野に会った日のことを思い出した。
 初めて会ったその日に雪野を抱いた。しかし朝から仕事があったため、彼女を一人部屋に残すことになったのだ。仕事から帰れば当然彼女の姿はなく、代わりに部屋の中は妙に甘ったるい香りに包まれていた。すぐに香水のそれだと分かりはしたが、その香りと雪野と、すぐに結びつかなかったほど彼女のイメージにそぐわなかった。
 今の状況はそれによく似ている。
「雪野……」
 しかしあの時とは全く違う状況でもある。今、求めていた雪野は己の腕の中に居るからだ。
「――ずっと一緒だ」
 囁く声に、応えるように雪野の腕が辰巳の首に回される。
 辰巳は気を良くし、更に腕の力を込めて抱き寄せる。辰巳も雪野と共に酔いそうなその香りに包まれた。

≪F I N.≫

ご精読ありがとうございました!
2011/01/16 up  美津希