彼女の場合
番外編

A-エィ-

 エミと出会ったのは高校に入った年の夏だった。
 友人の紹介で、と言えば体裁は保たれるだろうか。簡単に言えば合コンだ。近くの女子高の子をナンパしたから一緒に遊ばないか、と地味なタイプの俺に声がかかったのは、いくつかの偶然が重なった結果だった。
 一つは俺の幼馴染みであるタカシに彼女ができたことだ。同じ塾に通っていたという彼らの馴れ初めはともかく、そのおかげで合コンの話がタカシを伝って俺のところにやってきたわけである。恋愛に興味はなかったが、“彼女”という響きには興味のあった俺は二つ返事で快諾した。
 初めて会った時からエミは積極的だった。だからこそ俺とエミは簡単に関係を結び、一度は恋人のような真似事もしたが、結局はセックスも含めた友人としての今の位置に落ち着いた。
 それからのエミとの関係は、ただのセフレと言ってしまえばそれだけだ。それでも高校の時に知り合ってから今までの時間は、まだ20年弱しか送っていない人生の中では大きな割合を占めている。知り合ってから5年経っているとして、単純に計算してみても4分の1だ。
 それだけの時間を重ねてきた相手から、突然連絡が来なくなった。そのことに動揺しない程、俺は醒めた人間でもないはずだ。
 エミのことはセフレとしてだけでなく友人としても気に入っていた。言葉に裏表のないエミの傍にいることはラクだったし、楽しかった。少し頭の弱いところも、そのクセ成績は俺よりも良いようなギャップも可愛かった。そんなふうに、それなりに気に入っていた相手から突然無視されるのはかなりのショックだ。
 それでも携帯の通じないエミの近況を知る手段は、俺には無かった。一番手っ取り早くて確実なのはヒロに聞くことだが、なぜかその選択は躊躇われた。だって微妙じゃないか? 俺のことを可愛いと言ってくれるヒロに、体の関係を持つ他の女の事を聞くのは……さ。まぁ、何だかんだ言いつつ、エミとの関係を切れないでいた俺にも問題があるというか……。悪い言い方をすればエミのことはキープってやつだ。ヒロと離れることになったときの保障というか。結局は逃げ道をエミに求めていたのだ、俺は。
 だからエミとの連絡が来なくなって思うよりショックを受けたのかもしれない。時間の長さとかも嘘ではないけれど建前でしかなく、本音はそこにあるのかもしれない。

 ヒロと出会ったのは、大学に入ってすぐの時だ。
 エミから、サークルの先輩の部屋で飲み会をやっているらしく「今から出るのだけど一緒に行かないか」ということで、珍しく飲みに誘われた。バイトも休みだったし、特に予定もなかったから、気軽にそれを受けた。
 そして、そこに仮眠を取りに行っていたヒロと出会った。
 飲み会というだけなら聞こえは良いが、実際はそんなにキレイなものではなく特殊な環境ではあったのだけれど、だからこそ、初めて会ったその日から俺は既にヒロに気に入られていたらしい。それからはエミを介さずヒロと会うようになったのだ。
 思えば最初から、俺たちは友人と言うには甘すぎる関係を築いていた。

 その日は、ヒロから珍しく待ち合わせの提案があった。ほとんどが突然来たり、ヒロのアパートまでの呼び出しだったりしたから、今まで外で落ち合うことがほとんどなかった。だからなのか、若干浮かれ気味の俺は早めに家を出てしまった。時間までだいぶ余裕があったから、そういえばこの近くにエミに連れられてきた小さなバーがあることを思い出した。落ち着いた店内の雰囲気と、それを統べるマスターの人柄に好感が持てて、しかしながら何となくアレきり近づくこともなかった。どうせ近くまで来たのだからいい機会じゃないか、と思ったのは自然な流れだ。
 記憶だけを頼りに道なりに進んで行き、決して目立つ店構えをしていないその扉を開けると、記憶通りの店内が姿を現した。
「いらっしゃい」
 カウンター越しにマスターが声を発する。俺は前と同じように少し壁際に寄ったカウンター席に腰を下ろした。軽めのカクテルを頼んで、改めて店内を見回す。客は少なく、俺以外にはボックス席に一人、文庫本を片手に寛ぐ中年男の姿があるだけだった。
「お待たせいたしました」
 不躾に店内を見回し、体を元の位置に戻すのとタイミングを計ったかのように、頼んだカクテルが目の前に出される。俺は何も言わずそれを手にし、一口飲む。甘いサワーが喉を通り、心地良く炭酸が弾けるのを感じた。
「あの、エミはよくここに来ているんですか」
「エミちゃん……ですか?」
 俺の口からエミの名前を聞くことが意外なようで、マスターは驚いた顔をして聞き返してきた。一度しか来ていない俺の顔をマスターが覚えていないのも無理のないことだから、そんな彼の反応も当然だろう。怪しまれないように俺はエミからこの店を知ったのだと簡単に話した。
「ああ、あの時の。これは失礼しました。覚えていますよ。エミちゃんが誰かを連れてくるのは珍しかったですから」
 そういえばエミもそんなことを言っていたな。あの時は俺が落ち込んでいて、励ましてくれるつもりでここに連れてきてくれたのだ。強かに酔っていた俺は、あの時何を飲んでどんな話をしていたのかをあまり覚えていなかった。
「勿論エミちゃんは有り難い常連様ですよ」
「一人で来てるんですか、エミは」
「そうですね、たいていはお一人です。だから貴方と来られた時は少し驚いたんです」
「まぁ、あいつの友達って賑やかなのが多いから」
 それでもヒロや歴代の彼氏達も連れて来ていないのは意外に思った。結構開けっ広げなところがあるから、ここに限らず隠れ家的な場所を持っているイメージが無かったからだ。そんな場所に俺を連れて来たエミの真意は分からないが、悪い気はしなかった。
 そんなふうにエミのことを話すともなしに話題にしながら過ごしていると、見知った顔の男が入ってきた。ジーパンにシャツという会社員にしてはラフな格好の男はそれなりにハンサムな顔で、祐とは違った感じの女にモテるタイプに見えた。
「あれ、今日は早いですね、椎名さん」
「今日は休みだったんだよ」
 隣で繰り広げられたマスターとの言葉の掛け合いから、彼もまたこの店の常連なのだと知った。椎名と呼ばれた男は狭いカウンターの内、俺と一つ間隔を空けた席に腰を下ろす。ちらりとこちらに目をやったかと思えば「彼と同じものを」とマスターに注文しているのが聞こえ、こんな甘ったるいカクテルを飲むことに少し驚いた。見た目の勝手なイメージからして辛党な印象があったからだ。
「ねえ、君。この前エミちゃんと一緒に飲んでた子だよね?」
 不意に男が俺に話しかけてきた。気さくな口調に、俺は驚きはしたものの素直に頷く。相手に警戒心を持たせない軽い雰囲気が彼にはあった。
「君は彼氏じゃないみたいだけど、決まった人が居るのかな」
 振り向くと男はにっこりと笑みを浮かべた。気障ったらしい笑顔は完璧で、それ以外の表情を読ませない。俺の眉根が寄るのとマスターが咎めるように男の名前を呼んだのはほぼ同時だった。それでも男は笑ってマスターの懸念を制する。
「……エミに気があるんですか?」
「そうだと言ったら?」
「友人として、遊びなら止めてください」
 本当は俺にそんなセリフを言う資格はないのだけれど、口から出てしまったものは仕方がない。合コンの席でエミを紹介されて、友情が芽生える前に体を繋げた俺に言われたって説得力は欠片もない。でも、俺が告白しなければ男には分からないことだ、と開き直る。
 ふと携帯を見て時間を確認すると、そろそろ出ないといけない時刻になっていた。マスターに声を掛けて立ち上がり、会計を済ませる。またね、と男に声を掛けられたが、俺は会釈だけをして店を出た。ここに来ない限り二度と会わないだろうと思うと、もっと話してみたかった気もしたが、何を話せばいいのかは分からなかった。

 ヒロに椎名という男のことを話して案の定不機嫌になられてから数日後、何の因果か再び彼とばったり会ってしまった。
 場所はあの小さなバーではなく、駅からそれ程離れていないショッピングモールだ。平日の真昼間、会社勤めのサラリーマンがいる時間帯ではないその場所で、男は相変わらずラフな服装で歩いていた。最初に気づいたのは彼の方だった。
「ああ。君、エミちゃんの友達の」
 まるで旧知の友人のように明るく声を掛けてきた彼に驚きつつ、俺は日本人らしく「どうも」と頭を下げた。
「今日は学校は?」
「昼からなんで、ここら辺で飯でも食おうかと思ってたところです」
「そうなんだ。エミちゃんとは同じ大学?」
 あまりにも自然に話し出した男に、俺は思わず眉根を寄せた。何かの勧誘か、と一瞬疑い、そう思えば思うほど平日に軽装のこの男がひどく怪しく見えた。
「なんでそんなこと聞くんですか」
 俺が警戒心剥き出しにしていると分かったのか、彼は慌てて「違うよ」と苦笑を浮かべた。
「単なる興味だってば。一応エミちゃんとはイイ関係を持たせてもらってるから、彼女の友達とも友好関係を図ろうかとね」
 そのセリフで、既にエミとは肉体関係を結んだのだと知った。それなのに敢えて先日そのことを誤魔化したのは、マスターの前だったからか、他に意図があったのだろうか。エミは身持ちの軽い方だから彼と寝ていたとしても驚くことではないが、男の本意が分からず困る。
「別に付き合ってるわけでもないんですよね」
 俺の感覚からして友人の友人は赤の他人だが、男にとっては友人の友人も己の友人であると言うのだろうか。だとしたら羨ましいまでの社交性の持ち主だ。確認するように聞けば、男は困ったように笑う。
「僕としては後々そうなっても良いと思っているけど」
「今はその気がないと?」
「エミちゃんの方がそうなんじゃないかな。今は良いオトモダチだよ」
「友達に甘んじているのは、それ程エミに惹かれているわけじゃないってことじゃないですか?」
「なかなか言うね。でも、それを君に答えるのは止めておこう」
 何事にも時期というのがあるから、と男は言ったが、俺にはその意味が分からなかった。ただ、彼はやはりオトナで、俺なんかよりもずっと先のことを考えているのかもしれない。それは自分だけの未来ではなく、エミが関わる未来だ。
「時間を取らせて悪かったね」
 これ以上話してもきっと内容は平行線だろう、と見限りをつけたところで男はふと腕時計に目をやる。俺も釣られて携帯で時間を確認する。確かにゆっくり食べられる時間は少なくなっていた。多少時間を押しても大学へは近いから特に問題はないのだけれど、それを教えるのは癪だったので何も言わなかった。
「あの、エミに本気なら、ちゃんと優しくしてあげてください」
 別れ際、何となく声を掛ければ、彼は少し驚いた顔を見せ、すぐに微笑に変えた。
「肝に銘じておくよ」


 ヒロから「エミが大学の准教授にアプローチしている」と何かのついでに聞かされたのは、数ヶ月経ってからだった。椎名とマスターに呼ばれた男がその准教授とは思えなかったからきっと違う男のことだろう、と考え、すると彼はエミに振られたのかと気づいた。
 だけれど俺にはそれ以上の感想はなかった。それよりもエミのことを気にしていた俺に気遣い、態々そんな報告をしてくれたヒロを愛しく思い、エミが少しでも幸せであれば良いなと願った。ヒロの腕の中でそんなふうに思うのは、建前ではなく、本音であると信じている。



+++ F I N . +++

2012/11/12 up  美津希