モーニング・キス

番外編

一度離れて、もう一度。


 純の部屋には似つかわしくないものを見つけ、あたしは思わず手に取ってしまった。
 ふわふわ素材が可愛らしい、猫耳のカチューシャ。
「ていうか、こういうのってどこで手に入れてくるの?」
 思ったことをそのまま口から出していた。何が、とあたしの手の中の物を純が覗き込んでくる。
「ああ、フツウにドンキとかで売ってるだろ。コスプレの衣装とかと同じコーナーでさ。アキバに行ったら専門の店もあるけど」
 何でもないことのように言って、興味を失ったらしい純はまた、自分のベッドの上に戻って漫画の続きを読み始める。
 イトコのあたしには遠慮も何もない。まぁいいけど。今日は親に用事を言いつけられて来ただけで、あたし自身が純に用事があったわけでもないし。
 けどさ。これはちょと……、興味をそそられるわ。
「秋葉原まで行ったの?」
 わざわざ、と言おうとして振り向く。純は「それ俺が買ったんじゃないし」と首を横に振っていた。
「常連のお客さんに貰ったんだよ。スタイリストやってる人でさ」
「それでネコミミ?」
「コスプレは趣味だって言ってたけど」
「コスプレ……」
 そうか。やっぱり買う人いるのか。あたしはプリクラでもコスプレはしないから分からないけど、似合う人は絵になるもんね。
「興味あるならあげるよ?」
 あたしがあまりにまじまじと見ていたからだろうか、純がにやにやとしながら言ってきた。面白がってるな、こいつめ。
「いいよ別に、――」
♪〜
 断ろうとしたところへ携帯電話の着信音が響く。あたしのだ。いつもバイブ設定だったから自分でも少しビビッてしまった。
「なに、見吉さん?」
 サディスプレイに目をやって思わず顔を歪めてしまう。純のにやにや顔がよりいっそう深くなって、ちょっとウザい。そういえば純と朋子は上手くいっているのだろうか。最近お互い忙しくて朋子と連絡とっていなかった。
「もしもし?」
 僅かに躊躇って出てみれば、案の定いつもの偉そうな遼佑くんの声がした。
「――え。今から?」
 毎度のことながら遼佑くんの言うことは唐突だ。急に「来い」なんて言われてあたしが困ることを考えないのだろうか。考えないんだろうな。今まで断ったことの方が圧倒的に少ないもの。
「うん……。分かった。はい、じゃあね」
 そう言って通話を切る。知らず溜め息が出てしまう。
「呼び出し?」
 純が聞いてくる。言い得て妙だなと感心してしまった。遼佑くんはどこぞの番長かよ。
「まあね。というわけで帰るわ」
 指定された時間がギリギリだったから、バタバタと荷物を片付けて部屋から出る。なんだか遼佑くんと会うときはいつも急いでいる気がする。
 別に、遼佑くんと会うのが嫌だとか、そういうわけじゃない。曲がりなりにも恋人……なわけで。あたしだって、い、いい一応、遼佑くんのことを想ってるわけだし。会いたいと言ってくれるのは嬉しい。そう、本当は嬉しいんだ。喜んでいるんだ。でもさ。(でもという逆接が必ず付いてくるのも好きじゃないけど仕方ないからこの際は触れないでおくとして)事前に約束とか欲しいわけよ。いつも思いついたように連絡してきて、こっちの都合とか考えてくれてもいいじゃない、という言い分は当然だと思う。
 そりゃああたしの性格を知ってる遼佑くんにしてみれば休日に予定があるとは考えないというのも分かるけど。
――という文句を頭の中でぐるぐるとさせている内に、遼佑くんのマンションまで来てしまっていた。
 車を持っていないのであたしの主な交通手段は公共機関に限られる。そうすると純の家から遼佑くんのマンションまではやや遠回りをする形になる、ということを初めて知った。
 知らなかったものは仕方がない。少しくらい時間に遅れても許されるはずだ。遼佑くんだって鬼じゃないし、時間のことで細かく注意されたことはあまりない。掃除や片付けの時はうんざりしたけど、基本的に彼は自分のテリトリー内を汚されなければ文句はないらしい。
 なのにどうしてだろう。あたしの心臓はまるで小さくて、エレベータが上がるにつれてびくびくと鼓動が速くなる。
 怒られるのは嫌だものね。遼佑くんの不機嫌な時って本当に怖い。何も怒鳴られないのが逆に怖い。勢いに任せて叫ぶなり何なりしてくれれば落ち込めるのに、黙られるとそれさえも出来なくて、気を遣うしかなくなるのだ。
 電話では分からなかったけど、今日は機嫌が良い日なのだろうか、悪い日なのだろうか。どうして呼び出されたんだろう。
 いつものパターンからして、あたしが何か不注意をしたわけではないと思うけど。以前に一度だけ、こうして突然電話でマンションまで呼びつけられて、いきりなり玄関先で説教されたことがあった。……あれは本当に最悪だったなぁ。確かに、確認もせずに領収書を捨てちゃったあたしが悪いんだけど。
 あの時は領収書って言ってもどこにでもあるレシートだったし、それをテーブルの上に放置させておく方にも問題はあった、ということで厳重注意で済んだのが幸いだった。――あれ、これって完全に上司と部下の関係じゃない? あれ、あたしたちって恋人じゃなかったの?

「遅かったな。どこ行ってたんだ?」
 合鍵を使ってドアを開ける。リビングに顔を出すと、それに気づいた遼佑くんがソファに座ったまま顔だけをこちらに振り向かせて出迎えてくれた。
「えっと、純のとこ。親に頼まれことして」
「ふぅん」
 大して興味もないように頷くと、遼佑くんは自分の隣をポンポンと叩いて、座るように促す。
 あたしが腰を下ろすと、さら、と髪に指を絡ませて、頭を撫でられた。
 ……な、なんだ!?
 いきなりこんなことをされるのは滅多になくて。というかほぼ初めてで、あたしは一気に体温が上昇するのを感じつつ、どうして良いか分からなくなってしまった。遼佑くんの姿を見るまで散々文句を垂れ流していたから、余計に思考が追いつかなかったのかもしれない。
「あ、あの? どど、どうしたの?」
 とりあえず尋ねてみた。遼佑くんは更に自分の方へ抱き寄せて、あたしの頭を抱きかかえた。近い! 近いってば!
「あのさ、今日って何日か覚えてる?」
「え?」
 馬鹿にしているのか、この人は。日付くらい分かる。そこまで考えなしな人間じゃない。
 そしてそこまで単純なわけでもない。遼佑くんがただ日付の確認をしたとは思ってない。こう聞くってことは、今日は何か特別な日なのだ。
 でも、遼佑くんもあたしも、誕生日はまだだし。日曜というだけで祭日でもないし、大々的なイベントがあるというニュースも聞いてない。……何かあったっけ、今日?
 あたしが答えられずにいると、抱き寄せたまま遼佑くんは呆れたように溜め息を零した。あれ〜? 本当に分からないよ。
「フツウこういうのって――」
 言いかけて、彼の動きが止まった。
 何だろうと思っていると、遼佑くんの、あたしの頭を抱きかかえる逆の手が、膝に抱えたままだった鞄の中を探る。
「なんだ、これ?」
 そして取り出したのは。
「あっ――」
 ふわふわ素材の可愛らしい、猫耳カチューシャ。遼佑くんの手の中にあるのが不自然すぎるほど似つかわしくないファンシーグッズだ。
 あたしの馬鹿! なんでこんな物を持ってきてんだ!
 いや確かに急いでいたけれどもっ、よく見ずに自分の荷物を片付けたけれどもっ。
「こういう趣味あったのか、遙?」
「んなわけあるか!」
 堪らず叫んでしまったけれど、少し過剰に声を出してしまったのかもしれない。「ふうん」と相槌を打った遼佑くんは、面白そうに喉の奥で笑うと、あたしから腕を解いて、あろうことかそのカチューシャをあたしの頭に乗っけた。
 一瞬の静寂後。
「プッ! にっ似合わねぇ!!」
 あたしの猫耳姿を目にした途端、あたしの彼氏は盛大に噴出した。
 だけならいざ知らず、腹を抱えて笑い転げている。
「ちょっと、笑いすぎ!」
 確かにあたしののっぺり顔に猫耳は似合わないわよ、分かってるわよ! だからって涙まで流して笑うことないじゃない!?
「いやだって、ここまで似合わないのも……くくっ、ははっ、腹痛ぇ……っ」
「煩いっ! 遼佑くんが勝手にやったくせに!」
「ごめん、ごめん。遙はどっちかっつーと犬だもんな」
 それはどういう意味なんだろう。突然羞恥プレイをさせられた挙句、大笑いされて、ショックと怒りであたしは素直に言葉を受け止められなくなっていた。犬ってなんだ、犬って。主に忠実な僕ってことか? え?
「遼佑くんは犬派なの?」
「いや、犬よりは猫の方が好きかな」
 なんだそりゃ!
「あっそ! もう知らない!」
 頭に来たあたしはすくっと立ち上がると、脇目も振らず寝室へ直行し、ドアを思い切り閉めた。
「おい、遙!?」
 驚愕する遼佑くんの声が後ろから聞こえたけど、知らない。構ってやるもんか。どうせ可愛くないわよ。笑い飛ばされるような容姿だわよ。
 恥ずかしい。悔しい……。
 ベッドにダイブして体を丸める。遼佑くんの匂いがして、泣きそうになった。あんな馬鹿笑いしなくたっていいじゃない。仮にも恋人の猫耳なんだから、可愛いの一言くらい、お世辞で言えないの? あり得ない。遼佑くんが「会いたい」なんて言うから急いで来たっていうのにさ。何、これ。この状態。
 いや本当はあたしだって――会いたかったんだもん。
「遙、ごめん。悪かったよ」
 静かにドアを開けて遼佑くんが近づいてくるのが分かった。僅かにベッドが沈み、彼はあたしの横に腰を下ろしたんだろう。優しい手が猫耳と、髪を慰めるように撫でてくれる。あたしの気分を下降させるのも上昇させるのも、遼佑くん次第なんだ。いとも簡単にあたしの気持ちを振り回して、その度に、あたしは最初からこの人には敵わないのだと思い知らされる。
「ちょっと衝撃的過ぎたんだ」
「……」
 それ、フォローになってないよ、遼佑くん。
「機嫌直せ、遙。今日はこんなふうにさせたくて呼んだんじゃないんだから」
 遼佑くんの声はどこまでも優しい。
 ゆっくりと閉じていた目を開けると、髪を撫でていた指は前髪をかき上げ、頬を滑っていく。少しくすぐったい。
「遙は覚えてないかもしれないけど、俺たち、付き合い始めて一年過ぎたんだぞ」
 ……え?
「記念日ってさ、女の方が気にするもんじゃなかったか?」
「……知らないよ、そんなの……」
 あたし今まで付き合った人なんていなかったし。恋人達がどんなことを気にしているかなんて、知るわけがない。それに元々あたしは、人の誕生日とかを覚えるのが苦手なのだ。
 呟くと、頭の上で、ふっ、と笑う声が小さく聞こえた。きっと呆れたんだろう。
「ま、遙らしいけど」
「馬鹿にしてない?」
「してねぇよ。って、そうじゃなくて。だからさ、もう一度、コレ渡そうと思ったんだ」
 そう言ってあたしの腕が持ち上げられた。何だろう、と思って遼佑くんを見上げれば、いつか見た指輪があたしの左手に嵌められている。
「んで、代わりに合鍵は返して」
「へっ?」
 どくどく、と耳の後ろで鼓動が煩い。
「一緒にここで暮らそう」
 それは紛れもなく――。
 ――ああ、でも。
 本当に?
 これは夢でもなく、現実?
「でも、遼佑くんは猫の方が好きなんでしょ……?」
 思わず口にしていた。
 馬鹿だな、と笑われた。うん、あたし、馬鹿かもしれない。でも、それでいいや、とも思う。こんなに優しく笑ってくれるなら。
「犬でも猫でも、遙だったらどっちでも良い」
 両手で頬を挟まれ、そうして唇が触れる。
 一度離れて、もう一度。

+++ F I N . +++

ご精読ありがとうございました。
2009/11/01 up  美津希