モーニング・キス

40万打御礼記念企画・リクエスト作品

コーヒーが熱くて飲めません


 遼佑くんからの誘いはいつも急だ。思えば再会した時からそうだった。5年ぶりに集まって、でも実質10年以上顔を合わせていない関係だった相手に、いきなり「彼女にならない?」みたいなことを言ってくるような人だとは思わなかった。それで結果的に受け入れちゃってるあたしもどうかと思うけど……。
 問題はそこにある。なぜかあたしは遼佑くんの言うことに逆らえないのだ。最初から、嫌だ嫌だと言いつつ結局その通りに動いてしまっている。初めの内は自分自身で、緒方遙はなんて良い人間なんだろうと自画自賛していたのけれど。よくよく考えてみればただの馬鹿だとしか言いようがない。再会したばかりの同級生に朝ごはんまで作るか、普通? 好きだった人〜とか、昔は仲が良かった〜とか、そういうのじゃなくて。むしろ同じクラスだった頃があったのかさえ覚えていない相手に、だ。
 それでも何やかんやで恋人同士という立場に落ち着いてしまったのは、元々そういう運命にあったからだろうか。人生何が起こるのかわからないとはよく言うけれど、そんなふうに運命だと思えばなかなかに素敵なものだ。きっとその方が幸せなんだろう。
――そう思えたら、どんなに美しいだろうか。
 そう思えないから、あたしは飽きもせず、いい加減に腹を立てながら目の前の空席を睨んでいる。別に遼佑くんが遅れているわけではない。あたしが勝手に早く来ただけのことだ。仕事で近くまで来ていて一緒に帰れるから並びにある喫茶店で待ち合わせしよう、という遼佑くんの急な誘いが偶々タイミングよくあたしの仕事が終わった直後に来た、それだけのことだ。
 何が腹立つって、遼佑くんのそのメールが来た時に「ちょうど仕事が終わった時で良かった」と安堵した、自分にだ。純といい、遼佑くんといい、あたしはすっかりパシリ体質が身に付いてしまっているようだ。なんということだろう。
 だいたいあの時だって……。

 その日も遼佑くんの呼び出しメールは前触れもなくやってきていた。助動詞が“完了”なのは気づいたのが遅かったからで、後から知ったのだけれど、遼佑くんは意外にそういうところは細かいのだ。嫌な予感を覚えつつ仕事を切り上げ、書類とUSBを持って遼佑くんのマンションへ向かった。
 合鍵を使うことにはすっかり慣れてしまった。躊躇うこともなくドアを開けると、壁に寄りかかった遼佑くんが出迎えてくれた。
「……遅かったな」
 そう言う声はとても穏やかだけど、目が笑ってない。笑えてないよ。怖いよ。
「ご、ごめんね」
 慌てて謝るけど聞いているのかいないのか、遼佑くんはくるりと背を向けてリビングの方へ行ってしまった。きっと怒ってるんだろうなと思いながらも、毎回毎回急に呼びつけてくる方が悪いんだ、と睨んでみた。まあ、最近お互いの仕事のスケジュールが合わなくてすれ違っていたのがそもそもの原因で、考えてみればちゃんと付き合うようになるまではそれこそ毎日のように朝の用意をさせられていたようなものだったけれど。
「ご飯は? もう食べたの?」
「まだ。待ってたからな」
 言い方はどこまでも穏やかで、でもやっぱり重低音に響く声は怒っている証だ。やだなぁ、こういうの。遼佑くんって感情は全然隠そうとしないんだもの。嬉しい時はちゃんと喜んでくれるから良いけど、素直すぎるのも考え物だということを初めて知った。
「じ、じゃあすぐ作るね……」
 バッグをソファにおいてキッチンへ入ろうとすると、肩をクイッと掴まれ、逃げ道を塞がれる。
「いい。俺がやる。仕事途中だったんじゃないのか?」
「え、いいの?」
 それはとても助かる。
 同時に後が怖いような気もする。
 今のは気を遣ってくれたんだよね、好意からなんだよね。恩を売られたとかそういうのじゃないんだよね。と、信じたい。
「いいよ。できたら呼んでやるから」
 溜め息を吐きながらもそう言ってくれて、なんだかこそばゆい感覚が背中を走った。
「ふふ、いつもの逆みたい」
 あたしはその言葉をありがたく受け取っていそいそと遼佑くんの書斎から持ち出してきたノートパソコンを立ち上げた。何度かここで仕事を片付けるあたしを見兼ねて、目の届く範囲でならこのパソコンを使って良いよと言ってきてくれたのだ。それからお世話になって幾度目になっている。
 珍しいこともあるもんだ。あたしが居る時は遼佑くんは基本的に台所には立たない。手伝おうとすらしないのに、今日はどうだ、彼の手料理が食べられる! あたしは集中力を高めて思い切り書類とディスプレイと睨み合った。
「――おい」
 パソコンに噛り付いて作業していると、不意にコツンと後頭部を叩かれた。ハッと我に返り、振り向くと、呆れ顔の遼佑くんが立っていた。
「あ……出来たの?」
「出来たけど。まだ終わりそうにないのか」
「ううん、もう終わるところ」
 ただの打ち込み作業だけど量が半端なかった。でもおかげさまで今日中に片付きそうだ。まったく営業部も期限直前になって持ってくることないじゃない。
 あたしは上書き保存のボタンをクリックして立ち上がった。気づけば香ばしい匂いが嗅覚を擽る。
「おおっ、カレーだ!」
 特別に好物ってわけでもないけど、久しぶりだったのと遼佑くんが作ってくれたということに、テンションが一気に上がった。
「いただきまーす」
 スプーンで掬い上げ、頬張る。中辛の味がドンピシャリと来てすごく美味しい。あたしがいるとやらないけど、遼佑くんは料理も掃除も何もかも、できないというわけじゃないのだ。
「食ったら風呂入れよ」
「うん。ありがと」
 本当にいつもとは真逆のセリフにあたしは可笑しくなった。顔はやっぱり呆れているというか怒っているというか不機嫌な表情をしているけれど、今は全然気にならなかった。甲斐甲斐しくされるのもたまにはいい。ていうか実を言えば、いつもこうだったらいいのに。恐ろしくて面と向かっては言えないのは分かっているけど。
 遼佑くん手作りのカレーライスを美味しくいただいて、食器は自分で洗って、言われたとおりにバスルームへ向かった。遼佑くんとは対照的にあたしはご機嫌だった。こんなことは滅多にないことだから余計に浮かれていた。これが嵐の前の静けさだなんて夢にも思わなかったのは、まだまだ成長が足りなかったということだと思う。
 スーツからパジャマに着替えてリビングに戻ると、仏頂面をした遼佑くんがソファに腰掛けテレビを見ていた。あたしはその隣に座って並んだ。
「上がったよ。遼佑くんはもう入ったの?」
「ああ」
「今日はありがとね。すごく助かった」
「ああ」
「……えぇと……」
「……」
 遼佑くんはテレビから視線を外すことなくしかめっ面のままだった。あたしは僅かに焦燥感を覚えた。
 これはもしかしなくても、相当ご立腹のようだ。――どうしよう。どうすべきなのだろう。
 え、ていうか悪いのはあたしなの? 約束もなく呼び出されたあたしの方に問題があったの?
 ……もういいや。別にあたしは何もしてないもの。料理もお風呂を沸かすこともやってなくて、それこそ“何も”してないけど、特に役割を決めているわけじゃないし。そもそもあたし、ここに住んでる人間じゃないし。勝手に遼佑くんが機嫌悪くしてるだけなんだからね。
 あたしが頭の中であれこれと言い訳していると、唐突に遼佑くんがこっちに振り向いた。あたしは驚いて、わけもなく慌てる。胸の内が聞こえるわけもないのに思わず顔が引きつってしまった。
「遙」
「な、なによ」
 不機嫌な顔のまま振り向かれてあたしの体は硬直してしまっても仕方なかった。だってなまじ顔の作りがいい分、迫力もそれなりに出てくるのだ。
「残業する奴が偉いなんてのは昔の話だ」
「は?」
「定時までに仕事を終われないのは要領が悪いからでしかない」
「なっ!」
「お前は馬鹿か」
「な、何それ!?」
 あたしだって好きで残ってたわけじゃないっての! ていうか営業部からの書類が遅れてなくて総務部からのクレームがなかったら予定通り定時に上がれてたわよ! うちの部署の皆の愚痴の嵐を知らないからそういうこと言えるのよっ、……とまあ、それは知らなくても良いか。
「だいたい今週は忙しいから会えないかもって言ってたのは遼佑くんの方じゃん! なのに突然『来い』なんて言われて、あたしが友達と食事してたらどうするつもりだったのよ。言っとくけど、そうだったら絶対に遼佑くんより友達の方を優先してたんだからね」
「それでも遙は来るだろ。食事が終わった後にここへ来るだろ」
 そう言って遼佑くんの両手があたしの頬を包み込んだ。
 た、確かにそうかもしれないけど……。それを断定して、言い切るその自信はどこから来るんだろう。
「せっかく今日は時間が空いたから遙を呼んだのに、喜んでたのは俺だけか」
「え……」
「俺がいるのにずっと背中を向けて見向きもしないで、何しに来たんだ、お前」
 ――そんなの。
 仕事も含んでるに決まってるじゃん。
 とは、口が裂けても言えないけど。
 それに仕事を含んでたのは今日みたいな時だけだし。常にということは絶対にないし。
 でもちょっと、嬉しい。遼佑くんがあたしを好きだって言ってるみたいで、嬉しかった。
「あ、あたしは別に……」
「よく分かった。遙にとって所詮、俺はそういう位置付けにあるんだな」
「……へ?」
 意味が分からなくて目を何度も瞬かせた。
 まっすぐ見下ろしてくる遼佑くんの目は相変わらずのまま、口の端だけが僅かに上がってニヤリと笑みが浮かんだ。
「俺もこれからはそうするよ。遙がいても仕事が残ってたら遠慮なくそっちを優先させてもらうから」
「なっ……!?」
 それとこれとは別じゃないの!?

 それから本当に仕事を優先させてしまった遼佑くんは実に意地が悪い。結局あたしが謝って、仕事を優先させることも1ヶ月で終わりを告げたけど、どうにも腑に落ちない点が多すぎる。思い出すだけでも腹が立つってものよ。
 それに、あれからあたしのパシリ体質が更に強化された気がしないでもないのよね。現に今日だって「仕事が終わった後で良かった」なんてズレたところで安堵してしまった。もう末期なのかも。手の施しようがないってやつ? 自分で自分が情けない。それでも遼佑くんのことを嫌いになれないってのも、あたしを落ち込ませる要因だったりする。これはもうどうしようもないのだ。
 ていうか、まだ来ないのかしら、遼佑くん……。
 あたしが店の壁時計で時間を確認しようと顔を上げると、ちょうど遼佑くんが息を切らして店に入ってきたのが見えた。彼もあたしをすぐに見つけて、片手を軽く上げ、こちらへ向かってくる。
「悪いな、待たせて。俺ここら辺あんま来ないのに道聞かれてさ、交番見つけるのに手間取っちまって」
「別に、そんなに待ってないし」
 あ。さっきまで嫌な事を思い出してたから不機嫌な声のままで答えてしまった。
 遼佑くんはキョトンとして、でもあたしの機嫌にはそれほど興味がないのか、そのまま向かいの席に腰を落とす。少しくらいバツの悪そうな顔をしてくれてもいいような気がした。
「なんだ、結構待ってたんじゃないのか。そのコーヒー、全然減ってなけど」
 遼佑くんが指差したのは、あたしが頼んだホットコーヒーだ。確かに一口くらいしか飲んでないけど、それを指摘されるのはなんだか恥ずかしい。呼び出されたのはあたしの方なのに。
「……熱くて飲めなかっただけよ」
 あたしがそう言えば。
「だいぶ冷めてるみたいだけど」
 カップに手を添えた遼佑くんがニヤリと笑みを浮かべる。
 ――どうしてあたしがバツの悪い顔をしなくちゃならないのよ。

+++ F I N . +++

ご精読ありがとうございました。
タイトルは田辺聖子著『お茶が熱くて飲めません』からです。
内容とは全然関係ないですが…。
楽しんでいただけたなら幸いです。
2009/01/17 up  美津希