モーニング・キス

50万打御礼記念企画・リクエスト作品

グッドナイト・キス


      side:Haruka

 一緒に暮らそう。そう言ってキスしてくれたのは3ヶ月も前のことだ。右手に輝くシルバーのリングを見つめつつ、あたしは何度目かの溜め息を吐いた。
 最初の頃は“同棲生活”という言葉に夢を抱いた。寝るのも食べるのも起きるのも一緒。出勤するのも一緒で、ただいま、と帰ってくる場所も同じ。恋人を持ったなら一度は憧れるシチュエーションではないだろうか。例に漏れず、あたしもその中の一人だった。いちゃいちゃ、……とは行かないまでも、今までよりは格段にラブラブ状態になるんじゃないかと、淡い期待を抱いていたのだ。
 正直に言おう。現実はそんな御伽噺のように甘いものではなかった。仮に今、その時の自分が目の前にいたら、バカじゃないかと鼻で笑ってやる。相手はあの遼佑くんだぞ、と。目を覚ませ、と。本気でそんなことができると思っているのか、と。そうしたらあたしもハタと気づき、覚悟するだろう。そして、今味わっている悲しみも、少しは半減していたに違いない。
 デートなんてそれこそ、付き合い始めたときから数えても両手で足りるくらいしかしていなかった。その内の何回かは朋子と純も一緒のいわゆる“Wデート”みたいな感じで、二人きりで出かけたのはスーパーへ買い物に行った回数を数えた方が早いくらいだ。それはもちろん、あたしが遼佑くんのマンションに転がり込んでからは、格段に少なくなっている。基本的に遼佑くんは仕事の虫みたいなところがあって、それは同窓会で再会してからすぐに分かったことではあったけれど、さすがにこうも休日出勤が続くと腹立つよりも寂しくなる。
 だいたい、今日もこうして部屋でのんびりテレビを見ているあたしだが、元々出かける気満々でいたのと最初からのんびり過ごそうとしていたのとでは気の持ちようってのが大きく違う。普段なら何気なく過ぎていく時間がひどく長く感じる。……率直に言えば、つまらない。
 遼佑くんは遼佑くんで、休日出勤が続いても代休をすぐにとるようなことはない。それでいいのか、と問いたくなるけど、仕事のことで愚痴を聞いたことはないから、きっと喜んでやっているんだろう。「仕事と私、どっちが大事なの」なんて言いたくはないけど、今になって初めて、それを口にする女の気持ちが分かった。嬉しくない発見だ。
 だって今日は、久しぶりに二人で出かけよう、って言ってた日なのに。
 誘ったのはあたしからだったけど、遼佑くんもすぐに「いいよ」と頷いてくれたから、遼佑くんもちゃんと休みを取ってくれるのかと安心していたのに。なによ、今朝のアレ。
「荷物の納品でトラブルがあったらしい。悪いけど今日は出勤だ。夕飯は外で食べよう」
 なんで!? とあたしが叫んだのは無理もないだろう。今日は、じゃなくて、今日も、の間違いじゃないのか。
 あたしがこうして不貞腐れるのだって当然のことだと思う。
「遼佑の野郎め……」
 普段なら絶対に出来ない恨み言を呟く。だけどむなしく空気と消えていくだけだった。

 一人でいることに我慢が出来なくて、朋子を呼び出した。ちょうどランチタイムだったので、朋子の提案で雑誌にちょくちょく取り上げられていたイタリアンレストランへ行くことにする。オフィス街にあるそこは、朋子が前々から目を付けていたらしい。
「ふぅん。珍しく急に誘ってきたから何かと思ったら、単に痴話喧嘩に巻き込まれたわけね、私は」
 呆れた、と言うよりは面白そうににやけた顔で朋子が言った。まさにその通りだったので何も言わなかったが、一つだけ訂正させてもらおう。
「喧嘩じゃないよ。単にあたしがムカついているだけで、遼佑くんは悪いとも思ってないもの」
「そうなの?」
 首を傾げる朋子に、あたしは大きく頷いてみせる。ここが何よりも性質の悪いポイントなのだ。
「遼佑くんは何よりも仕事優先なの。前のカノジョとは職場も一緒だったし、それで良かったかもしれないけどさぁ」
 お通しで出た水を一口飲んで、ふっと息を吐く。
「ん、っていうか前カノ知ってんの?」
 くるくるとフォークを回して麺を絡め取っていた朋子の手が止まった。
「うん、まぁ。会ったことあるし」
「えー? それってどうなの? ていうか見吉が社内恋愛してたことにびっくりなんだけど」
 別れたらいろいろと面倒くさそうじゃん、と朋子が表情を歪める。確かにそれはあたしも思うけど、もう過ぎたことだし、彼女も良い人みたいだったから今更気になるようなことでもない。あたしは曖昧に答えてパスタを食べる。
「それより朋子はどうなの? 純と付き合ってて喧嘩とかならない?」
「私達は仕事のことで言い合ったことなんてないよ。お互いに仕事優先なのは分かってるし」
 意外だった。純はともかく、朋子は仕事よりも恋愛ごと、というイメージがあたしにはあったからだ。現に、今までは会えば「誰がカッコイイ」とか「誰に彼女がいる」とか、そういう話ばかりだった。そういう表情が思い切り出てたらしく、朋子は意地悪そうに笑う。
「こう見えても私、一応会社では“キャリアウーマン”で通ってるんだから」
「そうなの?」
「そうよ! 聞き返すって何気に失礼ね」
 仕事の不満や愚痴は何度か聞いたけど、実際の朋子の姿なんて知らないので、やっぱり何度でも聞き返したいくらい意外だった。でもそれを実行すると確実に不貞腐れて相手にしてくれなくなるのでやめておく。ここで朋子に帰られたら、それこそ激しく落ち込んでしまうだろう。
「ねえ、今日は純と会う予定ないんだよね?」
 二人ともパスタを綺麗に平らげた頃に、あたしは確認のために尋ねてみた。
「そうだけど。何、それ以外だったら当然他の予定もないでしょ的な断定的表現は」
 不満気に答える朋子だけど、あながち外れていないからか、それ以上は言われなかった。あたしはまぁまぁ、と適当に笑い流す。
「だったら夜までも良いかなぁと思って。いいでしょ?」
 軽く小首を傾げておねだりのポーズを取ってみる。朋子は肩を竦め、呆れたように大きく溜め息を吐いた。
「私はいいけど、見吉はいいの? 夕飯は一緒にって言ってくれたんでしょ」
「いいの、いいの。遼佑くんとはいつでも食べれるんだし。じゃ、決まりね!」
「はいはい」
 さっさと伝票を持って立ち上がるあたしに、朋子は苦笑しつつ同時に席を立ち上がった。
 レジで会計を済ませている間、携帯電話のバイブが着信を知らせてきた。どうせ遼佑くんだろう、と思い当たったあたしは、普段ならありえないことにそれを無視することに決めた。
 財布を閉じてバックにしまうと、そのまま明るい店員さんの声を背中に店を出た。
「ねえ、携帯鳴ってるよ。出ないの?」
 外はまだ明るい。これから買い物でもしようかと思案する。
「それより朋子、モールの方に行ってみない?」
 あたしが出ない態勢でいるのだと朋子には分かったようだ。少し眉根を寄せて子どもを叱る母親のように睨んでくる。
「ハル、携帯に出なよ。どうせ見吉君からでしょ」
「……そうだけど」
 あたしはすっかり弱ってしまって手の中の携帯電話を見つめる。なかなか出ないあたしを待っているのか、マナーモードに設定してある電話はブルブルと震えていた。普段のあたしなら真っ先に通話ボタンを押すのだけど、今のあたしはどうしてもそれが出来ない。あたしは怒っているのだ。
 さっきまでそれを散々愚痴っていたので朋子も分かっているはずなのに、不機嫌を知らしめようとするあたしに対して、朋子はこれを機会に早く機嫌を直せということなんだと思う。でもたぶん、遼佑くんはあたしの機嫌なんて知らない。どうしてあたしが歩み寄らないといけないんだ、とまた怒りが沸いてくる。
 着信が途絶えた。
 僅かにほっとしたのも束の間、もう一度着信を知らせるように震えだす。さすがの遼佑くんもあたしがいつもと違うと分かったのだろうか?
 まぁ、だからと言って出てやんないけどね!
……と不貞腐れていたら、あたしの手から朋子が携帯電話を奪い取った。
「あ、もしもし、見吉君? ――そうそう。今この子ちょっと拗ねてるからさ。――それは良いけど、もう少し普段から上手くフォローしなさいよね。じゃあハルに代わるから」
 そう言うなり朋子は電話をあたしに返してくる。というか、目の前に差し出された。前にもこういうことはよくあった。
 あーヘタに拗ねなきゃ良かったなぁ。遼佑くんどんな態度で来るだろう。怖いよ……。
『もしもし、遙?』
 聞こえてきた遼佑くんの声に「うん」と返事する。良かった。まだ機嫌は悪くないみたい。
『今日は悪かったな、先に約束してたのに』
 あたしは返事をしなかった。まだ怒ってるんだぞと思われていないと困る。
 だけど遼佑くんは特に困った様子を見せるでもなく、焦った態度を取るわけでもなく、淡々と言葉を続けた。
『昼は少し抜けれそうなんだ。またすぐに戻らないといけないけど、もう大方片付いたからさ。その後少し待っててくれたらデートくらいはできると思う』
「ふぅん」
 何が“デートくらいはできる”よ。何様のつもりか分からないけど、そんなに上から言われて喜ぶと思ってんの?
 いや、別に嬉しくない、とは言い切れないけど。できるなら遼佑くんが根を上げるまで連れまわしたいけど。
『そんなに待たせるつもりない。この前の喫茶店覚えてるか? そこで待ち合わせよう』
 なんで。どうしてよ。いつも遼佑くんは勝手に何でも決めちゃってさ。そういうところも前から腹立っていたのよね。……怖くて面と向かって言ったことはないけど。だってなんか、遼佑くんを前にしたら有無を言わさず睨まれそうで、本当に恐いんだもん。
『遙? 返事くらいしたらどうだ』
「……かない」
 あたしの小さく絞り出した声と、電話越しで遼佑くんを呼ぶ誰かの声が重なった。え? と遼佑くんはこちらに聞き返してくる。
「行かないから、今日!」
 思わず声を張り上げてブチッと電源ボタンを押してやった。通話の強制終了なんて始めてだった。
「ハ〜ル〜っ」
 そして年甲斐もなく、目の前にいた親友にこってりと叱られてしまった。声を低くしてあたしの態度も云々とのたまう朋子には悪いけど、それらの言葉を素直に受け入ることはできない。子どものようにそっぽを向いて朋子の説教を無視した。そしてまたそれについても怒られるのだけど。
 だってあたし、怒ってるんだもん!!


      side:Ryosuke

 家に着く頃には既に空は黒く染まり、繁華街も派手な電飾で賑わう時間帯になっていた。思わず盛大な溜め息が出る。おかしいな。昼までは確かに夕方になる前には帰れる算段だったんだが。
 それもこれも遙のせいだ。あいつが素直に俺の誘いに乗って出てくればこんな事態にはなっていなかった。遙はそんなことを言ったとしてもただの言い訳にしか聞こえず、というか聞く耳すら持たないだろうけど。これだけは断言できる。俺がこんなにも疲れることになったのは遙のせいだ。
 朝早くからイレギュラーな仕事が舞い込み、約束をドタキャンする羽目になったのは悪いと思う。普段から仕事ばかりで構ってやれなかった上の仕打ちだということも充分理解している。だが、仕事だから仕方がないというのは遙も充分に分かっている。だから俺に直接文句を言ってきたりすることもなく、「仕事と私どっちが大事なの」などとほざく馬鹿な女とは違うのだと思っていた。それは遙も仕事を持っている身であり、職種は違えど普段の俺を見ているなら、俺がどれだけ多くの仕事を抱えているかというのは分かっていたはずだ。
 それでも、少しだけでも長く一緒にいられるように合鍵を渡したり、一緒に暮らそうとまで言った。決して遙の何も言わない態度に胡坐を掻いてきたつもりはない。俺は俺なりに遙を大切に思っているし、将来のことを考えている。
 だというのに何だ? あの昼間のあいつの拗ねっぷりは。あいつが俺の言うとおりにデートに行くとでも言えば、俺は午後の予定を確保でき、俺じゃなくてもいい後処理に付き合わされることも無かったのに。全く、わけが分からない。それにあいつが不機嫌に拗ねたところでどこも可愛くない。少しくらい可愛げがあれば、俺だって鬼じゃないんだ、甘やかすくらいの器量は持ち合わせている。
 マンションのエントランスに入り、エレベータを待っている間にそんなことを考えていたら、段々と腹立たしさが増してきた。くそ。気分が悪い。
 だが俺も大人だ。無闇に当たるのは良くないと心得ている。帰ったらまずは遙の話を聞いてやろう。愚痴でも文句でも甘んじて受け入れてやろう。本を正せば俺の仕事で約束を破ることになったのだから、話はそれからだ。軽く深呼吸をして部屋のドアを開けた。
「……なんだ、これは」
 部屋に入るなり、俺は呆然とした。リビングに足を踏み入れると、床に転がっていた空の缶がつま先に当たり、ころころと転がっていく。
 呆れた。言葉も出ない。
 酔い潰れた遙がソファーの上で横になり、気持ち良さそうに寝息を立てている。眠るには随分と早い時間だ。
 俺は床に転がっている缶とテーブルに散らばった空き缶を拾い、中身が若干残っている缶も手に取って一緒に片付ける。酒の飲めないこいつにしては珍しい光景だった。しかも彼女にしては尋常じゃない量だ。全部カクテル系というのは遙らしいとも言えるが、配分も掴めず潰れる女はダメだ。アルコール中毒にでもなったらどうするんだ。
「おい、遙! 起きろ!」
 ペチペチと頬を叩き、目を覚ますようやってみるが、僅かに身じろぎしただけでまた寝息を立てる。
「寝るならベッドだ。遙、起きろって」
 声を掛けながら肩を揺すってみる。しかし結果は同じだった。大丈夫か、こいつ。
 一向に目を覚まさない遙に溜め息を吐き出し、気合を入れて自分の腕を彼女の体の下へ潜り込ませる。そうして一気に抱き上げ、寝室へと運ぶ。力の抜けきった人間というのは存外重くて扱いにくく、厄介な事この上ない。ただでさえ遙は痩せ型とは言えない体形だというのに。
 なんとかベッドの上へ寝かせることに成功した。遙をベッドの端へ追いやって、俺も空いたところに腰掛ける。これじゃあ話もへったくれもないな。ったく、気持ち良さそうに寝やがって。
 ふと、遙が髪の毛を食ってるのに気づいて、そっと指で払ってやる。遙は「うぅ、ん……」と小さく身じろいだ。起きるかとも思ったが、閉じられた目が開くことはなく、くるっと横向きになると子どものように体を丸める。こいつはいつも丸くなって寝ている。
 そういえばいつか誰かから聞いたことがある。寝る態勢によってその人の心理状態が分かるらしい。仰向けに寝るのは開放的な精神状態の時で、うつ伏せで寝るのは支配欲の表れ、というものだ。本当かどうかは知らない。丸くなって寝るのはどういう時だっただろうか? 確か、横向きで寝るのは精神が安定している、ということだった気がする。
 ――ああ、そうだ。思い出した。体育座りのように丸くなるのは“胎児型”だ。その姿勢の意味するところは――。
 この話を思い出したのは偶然だったが、思い出してしまうとやはり気になってくるのは当然だ。普段あまり気にしたことはないが、やはり遙もそれなりに我慢をしているということなのだろう。ま、俺が我慢しているんだから、こいつがのびのびとしているはずがないんだ。
 そう思えば心なしか遙のことが可愛く見えた。慣れない自棄酒をするこいつが、どうしてか愛しく思える。
 少し浮腫んだ彼女の顔を両手で包み、こちらに向けた。囁くように耳元へ唇を寄せる。
「今日は悪かったな……。一段落したらまとめて有給取るから、許してくれよ」
 きっと聞こえていない彼女に約束の口付けを落とす。今度こそこの約束を破らないと誓おう。このキスにかけて。
「おやすみ、遙」

+++ F I N . +++

2010/08/16 up  美津希