Ich Liebe Sie

WEB-CLAP お礼画面掲載作品(お題元:MUSICTITLE -音楽用語で5のお題-)

1.schwach


 今日の悠木くんは変だ。学部が違う私たちが約束も無しに朝から会うことは滅多にないのだけど、今日はメールでわざわざ時間と場所を指定してきた。そこは私が乗る駅のホームで、つまりは「一緒に行こう」ということなのだろうか? こんなことは今までになかったから私は少し嬉しかったのだけど。
「おはよ」
 そう声をかけてきた悠木くんの顔は少し不機嫌そうだった。もうコートもマフラーも必需品ではないはずの季節なんだけど、この日は東京に初雪が降るんじゃないかと言われるような寒さで、冬よりは夏が好きだという悠木くんには嫌な天気だったからかもしれない。もちろん東京に雪が降ろうが雹が降ろうが、この地域には全く関係のないことだ。でも寒冷前線とかいうやつは日本列島を覆っているらしく、この地域の気温も真冬ほどにまで下がるらしい。
 寒そうにマフラーを口元まで巻く悠木くんに、私もおずおずと「おはよう」と挨拶する。私が少し遅れて怒っているのだったら謝れば済むんだけど、そういうわけでもないから、なおさら困ってしまう。普段は温厚な悠木くんがこんなに不機嫌さを表すのは初めてかもしれない。
「どうかした?」
 電車に乗って、揺られる車内の中で、私は悠木くんを見上げながら聞いた。
「ん?」
 何のことか分からないというような目で悠木くんも私を見る。でもその表情はやっぱりどこか機嫌が悪そうだった。
「や、こんなふうに二人で学校行くの初めてだし」
 違う。本当はその不機嫌な理由を知りたいのだ。でも、それを聞くのはなんだか怖い。悠木くんの心に土足で上がるような、無神経に覗くような感じがして、何となくためらわれる。
「んー、いや?」
「そんなわけない!」
 私が咄嗟に否定すると、悠木くんはほっとしたように肩の力を抜いた。
 あ。
 笑った。
 それは小さな微笑だったけど、今日初めて見た悠木くんの笑顔だった。
「そっか、よかった。……俺達付き合って半年以上経つけど、恋人らしいことしてないなって思ってさ。一緒に登校、なんて、やってみたかったんだ」
 そう言って照れたように笑う悠木くんがなんだか可愛かった。つられて私の頬まで赤くなった気がする。
「緊張してた?」
 私が聞くと、悠木くんはまた眉を寄せて不機嫌そうな顔に戻った。
 そっか。そうだったのか。
「実は手を繋ぐべきか迷ってた」
 ぼそりと呟いた悠木くんの声は、たぶん私にしか聞こえてなかったと思う。
 それくらい小さく、弱かった。
 そんな悠木くんはとても可愛くて、やっぱり好きだなと思った。

2.gesteigert


 初めは触れるくらいだった。そっと近づいてきて、そっと触れ合うような、その程度だった。それだけで私は心臓が飛び出るかと思うくらいドキドキして、幸せだった。
 でも今は変な欲が出てきてしまう。もっと触れてほしい、もっと強く……。
 私って実は淫乱なのかもしれない。そんなふうに思っていることを悠木くんに知られるのは恥ずかしかったし、嫌だった。悠木くんはまだ私にそんな感情を抱いていないかもしれないのに。
「渡会?」
「え?」
 ふと見上げると悠木くんが不思議そうに私の顔を覗きこんでいた。その距離の近さに私は思わず腰が引けてしまった。少し動けば鼻先が触れそうな距離だったのだ。
「いや、ぼうっとしてたから。何度か声かけたんだけど気づかないし」
「ご、ごめん」
「いいけどさ。それより飯食わねえ? 俺さっきの授業中ずっと腹鳴らしてたんだ」
 そういえば私もお腹すいたかも。ケイタイのディスプレイを見るとお昼休みはとっくに始まっていて、私は慌てて目の前に散らばっている道具を片付けた。ここは部室で、休講になった時間を使って次の作品の作業に入っていたはずだったのだ。……何考えてたんだろ、私。
「え、ここで食べるの?」
 私が片付けてる横でコンビニの袋を広げる悠木くんに驚いて聞いた。てっきり食堂か中庭に移動するものだと思っていた。それが私の中で定番だし。というか、部室で食べたことなんてないし、そんなことを思いつくこともなかった。
「ここって人来ないし、意外に穴場だと思わない? 一応冷暖房も付いてるしさ」
「あーそういえば」
 絵の具臭ささえ気にしなければ確かに静かでゆっくりできる。何より悠木くんが二人きりになれる場所と意識してくれたのが嬉しい。悠木くんも少しは私と一緒に居たいと思ってくれてるのかな。「恋人だから」という理由じゃなくて。
「んじゃあ食べるか。いただきまーす!」
「いただきます」
 行儀良く手を合わせる。真織ちゃんと居る時はほとんどしないけど、悠木くんが当たり前のようにするから私も自然とするようになった。こういうちゃんとしたとこも悠木くんらしいと思う。それから悠木くんは、食べてる間はあまり話さない。食べながらなんてもっての外で、だから悠木くんとの食事はとても静かだ。それが私には居心地良い。私も食べてる間は話さないからかもしれない。
「そういやさ」
「ん?」
 ふと前を向くと、食べ終わったのかゴミを丸める悠木くんがこっちを見ているのに気づいた。
 瞬間、目の前には悠木くんの顔だけがあって。
「――」
 え……?
「ごちそうさま」
 ……は?
 何、今の?
 目をぱちくりとさせる。だけど目の前にあるのはやっぱり悠木くんの顔だけしか見えなくて。
 唇にあった感触だけがなくなっていた。
「!」
 キスされたと気づいたのはどれくらいたった後だったか分からない。たぶん数秒しか経っていないと思う。次の瞬間、またキスされて、やっとさっきのもそれだったのだと気づけたんだろう。
「目、閉じて」
 言われて慌てて閉じる。
 目を閉じると触れ合っている場所の感覚が余計に鮮明になる。悠木くんの指が私の頬に触れて、髪に触れている。私の唇が悠木くんの舌に舐められて、驚いて体を離そうとしたけど悠木くんの腕に止められた。
 息をしようと開いた私の口を、待っていたと言わんばかりに悠木くんが覆う。そのことにもまた私は驚いた。
「っん」
 思わず息とともに声が漏れる。だけど悠木くんのキスは強くなる一方で、私の脳はくらくらと溶けているみたいになっていく。
 やっと離してくれたと思ったら、いつの間にか隣に来ていた悠木くんに抱きすくめられた。お互い椅子に座ったままで、私は悠木くんの腕の中に居るのだ。
「やっばいなぁ……」
 ぽつりと呟く悠木くんの声がやけに遠くに響いて、私の脳はまだ溶けてるんだと思った。ただ悠木くんの腕の中はとても気持ちよくて、心地良くて、お腹が満たされたこともあって少し眠くなる。
「こんなに強くするつもりなかったんだけど」
 照れたように呟く悠木くんの声が聞こえた。
 悠木くんも私と同じように思ってくれてるのかな。自惚れていいのかな。
 もっと強く抱きしめて欲しいと思って、良いのかな。

3.fortemente


 人生の中でモテ期というのは必ず一度は来るものらしい。私の場合、たぶんそれは今だと思う。この先もう無いかと思うと少し寂しいけれど、悠木くんという人が私には居るから、今は今で結構困りものだ。もっと早い時期にあればこんな贅沢な悩みを持つこともなかったのに。
「あっ、せんぱぁい!」
 食堂に入った途端そんな元気な声が聞こえた。たぶんこの声は間違いなく私に向けられたものだ。
 2回生に上がって後輩ができた。数少ない後輩の中でこんな元気な声を出すのは一人しか思いつかない。
「千倉(ちくら)……」
 彼の名前を嫌そうに呟いたのは私の隣に立つ悠木くんだ。私の後輩ということは悠木くんの後輩ということでもあるのだ、当たり前ながら。そして世にも珍しい私を巡る三角関係の成立、というわけだ。まぁ悠木くんが私のことを好きなのか?と問われればあまり自信がないのだけど。少なくともこんなふうに千倉くんが私に声をかけるたびに嫌そうにしてくれるのだから、周りの目がそう思うのも仕方ないだろうし、その方が私としては嬉しかったりする。
「良かったら一緒に食べません? 他の奴らもいるんですよ」
 あそこ、と彼が指差す方を見ると、サークルの後輩郡がこっちに向けてぺこりと会釈するのが見えた。
「渡会は俺と食うんだよ」
 悠木くんがそう言っても千倉くんは全然気にも留めない様子で私に笑いかける。元気があっていい子なんだけど、押しの強いトコがあるから少し苦手なんだよね、実は。
「カノジョのことを苗字で呼ぶ恋人なんて居ませんよ。いい加減オレに乗り換えません?」
「えーと、それはちょっと……」
 乗り換えるも何も、告白したのは私からだから、それは絶対にあり得ない。それに人前では私のことを「渡会」と呼ぶけど、ちゃんと「志奈」と呼んでくれる時もあるのだ――特定の場合だけだけど。
 そもそも千倉くんはなぜ私なんだろう? こう言っちゃなんだけど、悠木くんよりも見た目はカッコイイと思う。金髪にピアスあけてるし、服装だってちょっと着崩した感じのものばかりで、派手な印象を与えているから悠木くんがすごく大人しく見える。タイプだって全然違うのに、どうして私なんだろう?
 最初に告白された時聞いた時は「一目ぼれだから関係ない!」ってい言ってたけど、よく分からない。
「行こう、志奈」
 上手く断る理由を探している私に痺れを切らしたのか、悠木くんが私の腕を取ってさっさと歩き出した。引っ張られる形で私も食券を買う列に並ぶことになった。私はお弁当だから必要ないんだけど、悠木くんはいつもコンビニか食堂で昼ごはんを買うのだ。
 っていうか、名前!
 そのことに私はドキドキして、たぶん顔も赤くなったと思う。
「ちょっ、待ってくださいよ!」
 千倉くんも追いかけてきて、私の腕を掴む。これじゃあ綱引き状態だ。この状況ってとんでもなく恥ずかしいんだけどっ。
「触るな」
 悠木くんが千倉くんの手をパシッと弾く。ようやく離れた彼の腕に、私はほっとしてしまった。そのことに千倉くんが顔を歪めたのに気づいたけど、私はどうしても謝ることはできなかった。後で聞いてみると、謝られた方が惨めな気分になったと思うと言っていたから、少し安心したけど。
「今日はとりあえず諦めますけど。今度は一緒に食べましょうね!」
 一瞬見せたショックを受けた顔を隠すように笑った千倉くんに、私は曖昧に微笑むしかできなかった。
 元気で良い人だって分かってるんだけど。
 千倉くんが戻った後も悠木くんの腕は私の手首を掴んだまま、席に着くまで離れることはなくて、強く握り締められていることに私は恥ずかしさと幸せでどうすることもできずにいた。
 私は千倉くんのように全身で強く表現されるより、悠木くんみたいに静かに、けれど強く触れてもらう方が好きなんだ。

4.forte piano


 私の親友、真織ちゃんは結構感情の起伏が激しい。急に機嫌が悪くなったりすることもあれば、ちょっとしたことで笑顔を見せてくれることもある。
「……なんでアンタがここに居るの」
 急に低い声を出して唸る真織ちゃんに「アンタ」呼ばわりされたのは、他でもない古瀬さんだ。前に一度私が古瀬さんに泣かされたと勘違いした真織ちゃんは、あまり彼女のことを良く思っていないらしい。古瀬さんは古瀬さんで、そんな真織ちゃんの反応を楽しむようにわざと嫌われるようなことをしている。例えば、今も。
「えぇ、なんでってぇ、わたしが志奈ちゃんと居たいからぁ」
 というように、普段使わない延ばし口調で話したり。私に抱きついたり。そうすると確実に真織ちゃんの赤いオシャレなフレームの眼鏡がキラリと光ることを知っている。知っててやるから性質が悪いのだ。
「なんだその喋り方はぁ! おのれギャルかぁ!」
「いやーん、真織ちゃんってばこわぁい」
「貴様にちゃん付けで呼ばれる筋合いないわー!」
「えーん、ひどぉい、真織ちゃん」
「やめんかー!」
 そうして二人でじゃれ合ってるとしか見えないやりとりは続く。結構仲いいと思うんだよね、この光景を見慣れてくると。真織ちゃんは本気で怒ってるのかもしれないけど、古瀬さんの方は確実に遊んでる感じだからかな。
 そんな中、不意に私のケイタイが鳴った。といっても常にマナーモード設定の私のケイタイは着信音で知らせるわけじゃなく、バイブで鈍い音と振動を出すだけだ。
「あ、ごめん、悠木くん終わったみたい。そろそろ帰るね」
 私が遠慮がちに二人に声をかけると、ぴたりと会話が止まる。ついでに数秒真織ちゃんの動きも止まる。
「はぁ。何、志奈ちゃん。この前までは普通のカップルだったのに。何、今のラブラブ振りは」
 さっきまでの古瀬さんとの勢いはどこへやら、真織ちゃんは静かに呟いた。確かに今までサークルの作業がない日は特に一緒に帰るということもなかったし。だから悠木くんの授業が終わるまでこうして待つなんていうこともなかったんだけど。これが普通じゃないのかな。前までは「恋人」は建前の関係でしかなかったから、考えたこともなかった。
「いいじゃん、いいじゃん。明良の地が出たと思えば」
「……しょうがないわね、こればっかりは」
 はぁ。ともう一度真織ちゃんが溜め息を吐く。よく分からないけど、真織ちゃんが納得してくれればそれでいいか。
「じゃあまた明日ね」
「うん、ばいばい」
「ばいばぁい」
 二人に見送られながら私は教室を出て、悠木くんが待ってるだろう校門へと急いだ。
 真織ちゃんのテンションは上がったり下がったり割と激しいけど、こうして応援してくれることには変わりないのだ。

5.morendo


 最近、物足りなさを感じる自分が居た。学部が違う俺と渡会が会える時と言えば、サークルの作業時か共通科目の講義の中でだけだ。もちろんデートだってしてきたし、学校でなくても会おうと思えば会えるんだけど、学生である俺たちが一番時間を過ごす場所と言えば学校なのだ。その中で考えてみるとあまり会える時間がないことに気づいた。気づいた途端、なぜだか物足りなさを感じる自分に気づいたのだ。
 渡会とは初め、後ろ向きな気持ちで付き合い始めた。だからかもしれない。渡会は俺に全てにおいて遠慮している気がする。だから会いたいとも言わない。でも、それじゃあ俺がダメだった。俺は渡会とずっと一緒にいたいと思う。
 初めに一緒に昼ごはんを食べることを提案した。これがなかなか良くて、昼休みがこんなに貴重な時間になるとは思わなかった。昼休みだけで一緒にいられる時間がぐっと増えたのだ。でも、できるなら二人きりが良い。誰にも邪魔されない空間が良い。だからなるべく部室で食べることにした。人があまり来ない部室では遠慮なく渡会を抱きしめられる。……まぁ、渡会にこんな下心を見せるわけないけど。
 次に一緒に登下校することにした。一緒に帰ることはあっても一緒に行くことはなかったから、我ながらいい考えだと思った。毎日会うためにはこれは欠かせないよな。中学生や高校生じゃないんだからと思われるかもしれないけど、俺はそういうのに憧れてたんだ。さすがに制服で、なんて夢はもう諦めたけど。それにコスプレの趣味もないし。
 けどこれが想像以上に緊張するものだった。顔が強張って、渡会もいつもみたいなふんわりとした柔らかい笑顔を見せてくれない。俺の緊張が移ったんだろうか? それはかなりヤバイことだ。俺は渡会の笑顔に癒されるために会っているみたいなもんなのに。
 渡会の笑顔はそれだけで俺の栄養素みたいな役割をする。……自分で思ってたよりも彼女に惚れているのかもしれないな。
「どうかした?」
「ん?」
 いきなり渡会が俺のほうを見上げて聞いてきた。その仕草に少し胸を高鳴らせながら、俺は質問の意図が分からないまま聞き返す。どうかしているように見えるほど、俺は挙動不審だったのだろうか。
「や、こんなふうに二人で学校行くなんて初めてだし」
 あーそうか。渡会が不思議がるのも無理はないかもしれない。何せいきなり待ち合わせしようって言い出したんだから。でも表情が心なしか曇っているのは気のせいだろうか。
 もしかして迷惑だったんだろうか。俺は渡会が何も言ってこないのをいいことに勝手に決めてしまうところがあるから、嫌がっているのに気づかないことも多い。今日だって渡会の「いいよ」という返事に気を良くしていたけど、本気じゃなかったのかもしれない。だんだんと弱気になってくる。渡会の表情が、俺の緊張が移ったせいじゃなかったら、そう思うと何もかもだめな気がしてきた。
「んー、いや?」
 少し考えて、だけど率直に聞いた。
「そんなわけない!」
 反射的にというか、咄嗟にでも即答でそう言ってくれて、俺はほっと力が抜けるのが分かった。自然と頬が緩む。
「そっか、よかった」
 良かった。嫌がってるわけじゃなくて。
 俺が微笑んだからか、渡会の表情も俺の好きな柔らかい笑みに変わる。
 それだけで俺は息ができるようになった気がした。