Ich Liebe Sie

WEB-CLAPお礼画面掲載作品(改訂版)

Seinen Sie Dort 〜そばにいて〜


 最初はほんのささいな事だった。
「ごめん!!」
 家の近くの公園のベンチで、合わせた両手を頭の上まで持ってきて平謝りする悠木くんに、あたしは逆に居心地の悪さを覚えた。久しぶりのデートをすっかり忘れていた悠木くんが悪いのに、これではまるであたしが意地悪く怒っているみたいだ。今はあたしたちしかここにはいないけれど、いつ誰が見てるかも分からないのに。
「もう、いいよ」
 予想外に、そこで出たあたしの声は低かった。そのことにあたし自身も驚いたけど、それ以上に悠木くんも驚いたようで、ぎょっと顔を上げてあたしを見た。あたしはそんな声を出してしまったことに少し恥ずかしくなり、目を合わせまいとぷいっとそっぽを向く。
「もういいよ。そんなに謝らなくても……」
「えっ……」
 悠木くんは喉に詰まったような声で、それきり何も言わなくなってしまった。あたしは本当に居た堪れなくなって、すくっと立ち上がる。あたしを見上げたままの悠木くんの視線が痛い。
「美術館はまた今度行こう。それでいいよ」
 相変わらず可愛くないあたしの声は、それでも少しだけ悠木くんのほっとした表情を見ることができるくらいの効果があったようだ。
「渡会、ほんと、ごめんな。最近レポートの追い込みがさ。いや、こんなの言い訳にもなんないけどさ」
 あたしがそれほど怒っていないと安心したのか、悠木くんは申し訳なさそうに苦笑しながら頭をポリポリと掻いた。あたしにふっと笑みが零れる。もう一度悠木くんの隣に座りなおした。
「もういいって」
 あたしがにっこりと笑みを見せると、悠木くんも「おう」と笑ってくれた。良かった。やっぱり悠木くんのこの顔が一番好きだと思う。

 ところが、次の日曜日も悠木くんは待ち合わせ場所に来なかった。今日はこの前の埋め合わせだから、絶対に何が何でもデートしよう、と意気込んでいたのはむしろ悠木くんの方だったのに。
『ほんっとうに悪い!』
 電話をするといきなり一方的に謝られた。
「えと、今どこ?」
『……まだ家。っていうかしばらく出れそうにないんだ』
 声を潜ませて謝る悠木くんに少し腹が立つけれど、それを気づかれないようにあたしも喉に力を込める。
「そっか。急用?」
『うん、まぁ、そんな感じ』
 なんだかムカムカとするけれど、それは悠木くんのせいじゃないから。
 だからあたしは平気なフリをする。面倒くさいって思われたくないし、悠木くんのことだから本当に何か急用ができたんだろう。きっとあたしなんかと比べることじゃないんだ。
「わかった。仕方ないもんね」
『ほんと、悪いな。最近謝ってばっかだな、俺』
「しょうがないって。じゃあまた、学校でね」
『おう』
 電話を切って、あたしはしばらくその場に立ち尽くしていた。何も考えず、ただぼうっと自分の携帯電話を眺める。何かを考えればすぐに涙が出そうだった。

 翌日、やっぱり悠木くんはあたしに謝ってくれた。あたしが欲しいのは謝罪の言葉じゃないけど、悠木くんが謝ってくれているのにそれを無下にするようなことを、あたしができるはずもなくて。ただあたしにはそれを許すことしかできない。もっと自分に自信が持てれば、少しは違ってくるのだろうか。
「あ、そうだ。今日俺の部屋に寄ってく? 絵の具足りないって言ったじゃん。余ってるのうちにあるしさ。それに久しぶりだろ」
 思い出したように言う悠木くんにあたしも、確かそんなことを言ってたっけ、と記憶を辿る。
「うん、そうだね。でも絵の具、本当にいいの?」
「別にどうってことないって。俺あんまり油絵は描かないし、約束だったし」
「ありがとう」
 なんだか、上手くはぐらかされたような気も、しないではない。結局どんな急用だったとか教えてくれなかったし。
 でも言いたくない事の一つや二つくらい誰にでもあるんだろう。それはそれで寂しいけれど、仕方ないのかもしれない。胸のモヤモヤくらい、あたしが閉じ込めておけばいいだけなのだ。
 それに悠木くんの部屋に行くのは本当に久しぶりだった。前に行ったのはアルバムを見せてもらったときで、数えてみればあれからけっこうな日にちが経っていた。そのことを思い出して少し緊張する。
 駅から割りと近い場所にある悠木くんの部屋があるアパートは築年数の割には綺麗な外観で、聞くところによると改装したばかりなんだそうだ。
「ちょっと待ってて」
 アパートの前まで来た時、悠木くんがそう言って先に階段を上がっていく。その先に目をやると、誰かが玄関の前に立っているのが見えた。後ろ姿しか見えないけれど、どこかで見たような気がする。
「え……」
 悠木くんが近づいて声を掛けたらしい。振り返ったその人の顔がここからでも見えた。思わず声が出た。鼓動がやけに速くなる。嫌な感じがした。デートをキャンセルされた時に感じたモヤモヤよりもはっきりとした、不快感。
 なんで。どうして。
 そこに居たのは悠木くんの幼馴染みで、澤井先輩の恋人の、野村先輩だった。日本人形のように和風美人な彼女は、どこか儚げで、そっと悠木くんに肩を抱かれながら彼の部屋に入っていった。
 入って――?
 どうして、入れるの?
 だって今日はあたしが……。
 呆然としていると、戻ってきた悠木くんが申し訳なさそうな顔で言った。
「ごめん」
 もうそんな言葉は要らないのに。

 どうやって帰ったかはあまり覚えていないけれど、自分の部屋に着くまでは泣かなかったことだけは確かだ。だって今も全然、涙は流れていない。
 泣くかと思ったのに、あたしは意外に我慢強いのかもしれない。
 どうして悠木くんは野村先輩を部屋に入れて、あたしに謝ったんだろう。もしかして、昨日の急用も野村先輩が居たからなのかな。野村先輩……澤井先輩と何かあったんだろうか。
 そんなことを一人で考えても答えなど出てくるはずもない。だけど、どうしても考えてしまう。二人とももう4回生だから滅多に学校にも来なくなって、サークルにもたまにしか顔を出さなくなった。まぁ、引退というのはうちのサークルにはあまり関係がないから、そこらへんは曖昧なのだけど。だから何を考えても分からないことだらけで。
 そうしてもやもやと考えていると、突然携帯電話が鳴った。驚いて見てみると、悠木くんからの着信だった。少し迷って、恐る恐る通話ボタンを押す。
「もしもし」
 押し殺したようなあたしの声は、悠木くんに届いたのか分からないくらい小さなものだった。
『もしもし。俺、だけど』
「うん」
『あの、今日は、っていうか今日も、本当に悪かったと思ってる』
 何て返せばいいのか分からなかった。
 ただ黙っているあたしに、悠木くんは焦ったように続ける。
『最近み、野村先輩さ、澤井先輩と揉めたらしいんだ。ほら、野村先輩って人見知り激しいから俺くらいしか話聞ける奴いないし。っていうかこんなこと初めてだから、俺もどうしたらいいか分からなくて』
 だからって、悠木くん一人で抱え込むことないと思う。あたしにだって、もっと早く、謝るよりも先に言ってほしかった。きっと悠木くんはあまり人に話すことじゃないと思って黙ってたんだと思う。そんなこと、悠木くんの性格から考えてみれば分かることだけど。
『渡会に余計なことで心配させたくなかったし、黙ってたんだけど。でも放っておけなくて、結果的に2回も美術館キャンセルして、本当、ごめん。さすがにこれは、酷いと自分でも思うよ』
 分かってるならどうして、一言くらい……。
 何かがあたしの中で切れた音がした。
「もう、いいよ」
『渡会……?』
 あたしの声の調子が少し違うことに、悠木くんも気づいたらしい。電話の向こうで僅かに息を呑むのが分かった。
「もう謝らなくていいよ。美術館なんていつでも行けるし、気にすることないから」
『そうはいかないだろ。前から約束してたし、2回も行けなくなったのは俺のせいだし。今度は絶対行くから!』
「いいって、ほんと。無理しなくて」
『無理なんか』
「してるじゃん。あたしに気を使って、野村先輩にも気を使って。今までほんとごめんね。もう、いいから」
『いいって……何がいいんだよ、全然良くないだろ!』
 何を怒ってるんだろう。そんなことしたって、悠木くんが疲れるだけなのに。悠木くんの負担にだけは、なりたくないだけなのに。
「もういいのっ。あたしは全然気にしないから! だから好きなだけ野村先輩の相談相手してあげなよ。あたしに構うことないから」
『なっなんでそんなふうになるんだよ』
 切羽詰ったような悠木くんの声に、あたしは今になって泣きたくなった。
「だって、どうせ悠木くんはあたしのことなんか、一番に思ってないでしょ。それでもいいって思ってたけど、今はもう無理だよっ。こんなんだったらもう、嫌いになりたい……っ」
『渡会!?』
 何を、言ってるんだ、あたしは。
「野村先輩のことは今でも名前で呼びそうになるのを無理して直してるの、悠木くん、気づいてる? そういうのも、イヤ」
 止まらない。止まらない。
 これじゃあただの妬みだ。醜い嫉妬なだけだ。
『わた……っ』
 あっ、と声を呑むのが聞こえた。ただ、それだけなのに。
「もう電話も要らないから」
 あたしはそれだけを言って電話を切った。襲ってくるのは後悔だけ。あたしは蹲ったまま自分に腹が立って仕方ない。
 もう、だめだ――。

「そのまま?」
 あたしは何も言わずに頷いた。久しぶりに昼ごはんを真織ちゃんと食べることになったのだけど、その理由を話し終えると真織ちゃんは呆れたように言った。
「今日って何曜日か分かってる?」
「……金曜日」
 答えると、真織ちゃんは「バカ!」とあたしを叱った。
「それなら尚更早く仲直りしなきゃだめじゃん。ほら、電話して」
「えっ、い、今から?」
 驚くあたしに真織ちゃんは当然でしょ、といった様子でケイタイを取り出すように無言で促す。あたしは渋々鞄から携帯電話を取ると、真織ちゃんが素早く奪う。そして慣れた手つきで操作すると、「ハイ」とあたしに渡してきた。
 見ると、悠木くんのケイタイに繋がっている。
「え、うそ、やだ!」
「ヤダじゃない! もたもたしてると出ちゃうよ」
 そうこういているうちに悠木くんが出たようで、かすかに悠木くんの声が聞こえた。あたしは仕方なく自分のケイタイに手を伸ばす。
「もしもし……」
『もしもし』
 ……。
 何を、どうすればいいの。
 言いたことも、言わなきゃいけないことも、何も思い浮かばないのに。
 この沈黙がひどく痛い。
『あのさ』
 あたしが固まっていると、静かな悠木くんの声があたしの耳に届く。ひどく落ち着いたその声は少しずるいと思った。
『ごめん。やっぱ俺、無理だ』
「あの……」
『志奈、と会えないの、俺が無理だ。ちゃんと話すから、もうあんなこと、言わないでほしい』
「……ごめんなさい」
『今から会えない?』
「うん……会いたい……」
 泣きそうになった。
 罪悪感でいっぱいだった。
 本当はずっと謝りたかった。
 謝らなければならないことを知っていたのに、それでも先輩を部屋に入れる悠木くんが許せなくて。
 泣きたくなった。
「良かったね」
 にっこりと微笑む真織ちゃんに、あたしは抱きつきたくなった。テーブルが間になかったらきっとそうしていただろう。けどできないから、代わりにあたしも今出来る精一杯の笑顔を見せた。
「ありがとう」

 結局、今になって思えば、これが最初の喧嘩らしい喧嘩だった。ただそれだけで、野村先輩が澤井先輩の元を離れて悠木くんのところになんて有り得るはずのないことだから、それだけの感想しか今は持たない。
 だけどきっとこの日からあたしは自覚した。
 どうかあたしから悠木くんを取り上げないで。
 どうか悠木くんがあたしに「ごめん」の言葉を投げることのないようにして。
 そしてずっと、そばに――。