Ich Liebe Sie

番外編

verstecke


――千倉が嬉しそうに渡会に近づいてきたのを見た時から、嫌な予感はしていたんだ。
 千倉という男は、一言で言えば俺たちの後輩だ。顔はそれ程整っているとは言えないが人懐こい笑顔が可愛いと女子にはなかなかの評判だ。友人もそれなりにいるらしく、あいつの周りはいつも賑やかだった。俺も友人は多い方だと思うが、千倉のように常に中心に居るわけじゃない。大人しい渡会には俺くらいで調度良いと思っている。いや、俺以外の人間であれば、どんな野郎でも許せないだろうが。
 最初は渡会の方から好きになってくれていたのに、いつの間にか俺の方が彼女を好きになっている。最近つくづくそう思う。
「渡会先輩っ、これから部室っスか?」
 彼女の隣にいる俺のことはまるで眼中に無いようで、その視線は真っ直ぐに渡会に向かう。後輩としてその態度は如何なものかと眉を寄せるが、千倉に対して俺の態度は意味のないものだった。
「あ……、うん。千倉君も?」
 渡会が一瞬返事に躊躇したのは、やはり千倉の俺への態度だろう。ちらりと俺の顔を窺いながら、しかし頷く時は千倉の方へしっかりと視線を移す。そこが彼女の真面目で律儀な長所であり、俺としては少し苛立ちを覚えるものだ。
「はい! せっかくだし、一緒に行きましょうよ」
 何が“せっかく”だ。俺がいるのをどこまでも無視している態度に、流石にキレた。渡会の恋人としてよりも、後輩とは如何なる者かを教えてやった方が良いと判断する。
「お前、さっきから失礼だぞ、俺に」
 ぐっと渡会の肩を抱き寄せて、これ見よがしに千倉を睨みつけた。突然のことに渡会は体を強張らせた。可愛そうだとは思うが、しばらくは辛抱してほしい。そこでようやく千倉が俺へと視線を向ける。一瞬強く睨まれたが、渡会の手前か、すぐに特有の愛想笑いを浮かべた。
「あ、すいません。悠木先輩もいたんスね」
「さっきからいただろ。つか、いい加減諦めろよな」
「それは無理っスよ! 俺ベタ惚れですもん」
 そのポジティブな思考と行動力には脱帽する。勿論譲る気は毛頭ない。
 千倉としても俺とやり合う気はさらさら無いのか、すぐに渡会に笑顔を向けた。肩は俺に抱かれたままだから、渡会は肩越しに千倉を見上げる。無視すればいいのに、と俺は常々思っているのだが、きっと彼女にその選択肢は無いのだろう。
「そんなことより渡会先輩。今度の日曜、俺と遊んでくれません?」
「お前すげーな。彼氏の前で堂々と誘うとか」
 思わず感心してしまう。千倉はちらりと俺を見上げた。お世辞にも身長があるとは言えない千倉は、男と並ぶと大抵見上げる仕草になるのだ。
「悠木先輩には言ってません……と言いたいとこっスけど、二人で来てくれてもいいっスよ」
 ふてぶてしい表情で、明らかに不本意だと言わんばかりの口調だ。俺は無論渡会一人で行かせる気はない。
「当然だ」
 いつの間にか、渡会の返事を待たずして、俺が返答してしまっていた。
 僅かに笑った千倉の表情見て我に返る。これでは行くことを容認してしまったことと同義ではないだろうか? 盆に零した水は戻らないと言うが、正にその通りだ。そして後悔をするのは、いつも事の後であることも俺は思い知らされたのだった。


 うちの大学の近隣にはいくつかの大学がある。田舎だから土地はあるのだろう。うちから2つ目の駅を降りてバスへ乗り継ぎ30分もかからない場所に芸大があり、更に線路を進めば仏教系大学がある(余談だが、うちの大学も仏教系だ。宗教学が必修で、ブッダの生誕から延々と語られるだけの講義は退屈極まりない)。少し路線から外れれば、中学・高校を付属に持つ県内随一のマンモス校もあった。おそらくこの辺りでバイトをしている大学生がいれば、この中のいずれかの学生であることはほぼ間違いないと言っていい程だ。
 千倉が見せてきたチケットは、近くの芸大のロゴが入ったものだった。聞けば、高校時代の友人がそこの学生で、ノルマと称して2枚買わされたらしい。ペアで1枚だというのだから、渡会を誘ったその魂胆は丸見えである。
「渡会もさぁ、一度はっきり言った方が良いと思うんだ」
 芸大へ向かう道すがら、ぼそっと彼女へ呟いてみた。驚いたように振り返った渡会の表情は困惑を浮かべていて少し気の毒になった。しかしここは譲ったら男としてダメだろう、と俺は黙ってその視線を受け止める。
「千倉こと。渡会が優しいから図に乗ってるぞ、絶対」
「い、言ったよ? あの……付き合ってる人が……いるからって……ちゃんと……」
 視線を落とし、段々と声が小さくなっていくに連れて、渡会の顔は真っ赤に染まる。耳まで赤くしている姿はたいへん可愛らしく、すぐにでも許してしまいたくなるが、俺は敢えて心を鬼にする。千倉の粘り強さを侮ってはいけない。
「それって最初の一回だけじゃないのか? たぶんそれ、あいつは無かったことにしてると思う」
 俺が言い切ると、渡会も薄々は感じていたのだろう、うっと言葉に詰まる。まぁ、自覚していただけマシとするべきだろうか。
 見えている渡会のつむじ辺りをがしがしと撫で回す。少し力を入れすぎたかもしれない。痛いよ、と涙目で見上げる渡会に、俺は慌てて手を離した。
「あーっ! ちょっと、なに渡会先輩泣かせてるんスか!」
 大学内の敷地に入るとすぐ、千倉に見つかった。俯いている渡会を庇うようにして俺たちの間に入ってくる千倉は、憤然とした態度で俺を睨み上げてくる。本当に度胸だけは良い。きっと正面から真っ向にぶつかって来るのがこいつの長所でもあり、渡会が気後れしてしまう要因でもあるのだろう。俺が弱気になると信じられないほどの強気を見せるから、渡会の気が弱いということはないのだろうけれど。そういう一面を知ってしまっている以上、今のこの状況がなんとも歯痒い。
「俺は泣かせてないし、渡会も泣いてない」
「大丈夫だよ、千倉君。それより友達が待ってるんじゃない?」
 俺の言葉にコクコクと頷いた渡会は、距離を取って俺らを見つめる視線の元を目で示しながら言った。そこには数人の男女が並んでいる。お揃いのシャツを着ているところを見れば、彼らはここの芸大生だろう。千倉にチケットを買わせた当人かもしれない。
 千倉は渡会に言われると、渋々と離れ、首肯する。
「そうなんです。実は連れのよしみでコレ手伝わされたんっス。で、良かったら渡会先輩と一緒に、と思って」
 そう言ってポケットから取り出したのは、催し物の入場券のようだった。渡会に手渡されたものを後ろから覗き見る。そこにはおどろおどろしいフォントで“演劇部 お化け屋敷”と印刷されていた。これは……と渡会の顔を盗み見れば、案の定顔色が若干蒼白になっている。何を隠そう、渡会はこういったホラー系の類が大の苦手なのだ。デパートに即席で設けられた子供用のでさえ避けるほどの筋金入りである。
「手伝ったって、何したんだ?」
 素朴な疑問を投げかけてみれば、意外にも千倉はすんなりと答えた。
「背景画の色塗りとか。まぁ、一応オレも美術部なんで、猫の手よりはましだろうって借り出されたんス」
 ここの学生ということは、美術部と言っても所詮趣味の域を出ない俺達とは力量が天と地ほどの差があるはずだ。それでも千倉を借り出したと言うのだから、余程時間的余裕がなかったらしい。どれだけの大作なんだろう、と逆に興味が沸いてきた。しかし顔には出さず、流し聞くフリをした。
「しかも映像科とか工芸科の学生も集まってるんで、演出から小道具からマジで見ものっスよ! ね、渡会先輩、行きましょうよ!」
 満面の笑みを振りまいて誘う千倉はこの上なく楽しそうだ。渡会の引き攣った微笑に気づいていないはずはないから、最初からこれに誘う予定だったことは明らかで、全然楽しくない。
「そりゃあすごい。是非見てみたいな、俺も」
「勿論。こっちが悠木先輩の分です。本当は俺の分だったんスけど、俺は後からでも貰えるんで。一応二人までってことなんで、悠木先輩は一人ででも、あいつらから選んでもいいっスよ」
「待て待て。ここは俺と渡会が二人で入るところだろ。それこそお前の友達なんだから。なんで俺が知らない人間と回らにゃいかんのだ」
「え、だって渡会先輩は俺と回るんだから、悠木先輩余るじゃないっスか」
「だからなんで既にお前と渡会が一緒に回ることが前提になってんだよ。どう考えたって俺だろ」
 俺が言えば負けじと千倉が言い返してくる。それを何度か繰り返しているところに、ぼそっと渡会の声が間に入ってきた。
「あの、あたし入らないから、二人で見てきたら良いよ」
「え」
「え」
 珍しく俺と千倉の息が合ったのはいうまでも無い。
「それじゃあ本末転倒だろう」
「でもあたし、こういうのは無理だから……。でも悠木くんも千倉君も見たいんだよね?」
――ああ、後悔とは、こういうことを言うのだろうか。
 無垢な目で見つめられ、俺も千倉も何も言えなかった。確かに千倉の話に興味が沸いたのは事実だし、千倉自身も楽しみにしていたのは偽りではない。しかしそれは、隣に渡会がいるという前提でのことだ。前提を覆されるとは思ってもみなかった。しかも、よりにもよってこいつと一緒に、だなんて冗談じゃない。だが、二人とも渡会に歯向かえなかったのは、否定することで嘘をついたと思われることも避けたかったからだ。俺は、渡会に対してだけは、いつも誠実でありたいと思う。
「……」
 千倉も思考を巡らせているのだろう。ちらりと俺の方へ目配せしてくる。お互いに想い人が重なっている時点で、それなりに考えていることは同じに違いない。


 結果的に言えば、お化け屋敷の出来は素晴らしかった。照明を使った演出や、音響、小道具の細部に至るまで、ただの学祭とは思えないほどのクオリティの高さだった。その道のプロを目指す学生の“作品”なのだから、と期待していた以上の出来だったことにはすごく満足できた。
 本音としてはそれを渡会と一緒に見て共感し合いたかったのだが、仕方がない。千倉と一緒に出口から出てきた俺らを見て微笑んだ、渡会の笑顔に免じて、文句は言わないでおこう。
「次は一緒にお化け屋敷入ろうな」
 渡会の耳元で囁いた言葉は俺の本気だ。硬直する彼女の肩を抱きつつ、横で喚いている千倉をあしらう。
 彼女の震える姿も涙に潤む目も、どうせなら俺だけが知っていたい。誰にも言わないが、これは俺の絶対事項だ。

+++ FIN. +++

約1年、たいへんお待たせしました!
元はリクエスト企画でしたが、関係なく更新させていただきました。
ごめんなさい。
2012/05/20 up   美津希