Short×Short

30万打御礼記念企画「愛詞〜アイコトバ〜」

「キミが頑張るから、ボクも頑張れる」


 上京してくる時に持って来たお気に入りのCDは未だ押入れの奥にしまったままだ。その中には学生時代、幾度と無く繰り返し聴いていた大好きな曲もあるのに、あたしはいつの間にかそんなことも忘れていた。

「戸辺(とべ)さん」
 呼ばれて席を立つ。賑やかでもない職場でこんなふうに名前を呼ばれるときはいつもろくなことがない。たいていが何らかのミスをしでかした時だから自業自得なのかもしれないが、呼ぶのが都竹(つづき)さんだからというのも一つの要因だと思う。
「このページ、入力ミスがあるから直して。できたらこっちを片付けて一緒に持ってきて」
 そう言って渡されたのは、さっきあたしが確認をお願いしたリストの書類と、別の書類だった。合わせて百ページは超えるその束に胸の内でげんなりしながら、自分のミスなので嫌な顔も出来ず、静かに受け取る。
「はい、すみません」
「もう新人じゃないんだから、こういうミスはしないでくれるかな」
「……はい」
 溜息混じりに言われて泣きそうになる。簡単なミスが大きなクレームに繋がることはあたしもよく知っている。
 派遣社員としてこの会社に来てもうすぐで1年になる。主な仕事は資料の整理と管理。はっきり言ってこの部署の雑用係と言ったところ。一応チームに入っているので、指示を出すのはチームリーダーの都竹さんだ。
 自分のデスクに戻り、戻ってきた書類と新しく出された書類を置くと、ドサッという重たい音がした。それに加えて今やっているリスト作りもある。これ……今日中に終わるのかな。――いや、終わらせるんだ。
 あたしは僅かに袖をまくると、再びパソコンに向かう。それでもキーボードを打つ早さを上げられるほどできた人間でもないのだけど。
 昼休みになると次々と席を立って行く人の中で、あたしだけがまだパソコンに噛り付いたままだった。キリの良いところで終わらせようと思っているのに、なかなか上手く行かない。こんなふうだからあたしはいつも一人で昼食をとる羽目になるのだ。
「戸辺さん、そろそろ行かないと食堂の席埋まっちゃうよ?」
 隣のデスクの梶取(かんどり)さんが声を掛けてきてくれた。都竹さんとは違っておっとりとした口調の彼は、密かにあたしの癒しの人だ。甘いマスクで性格も優しいから他の部署の女性社員からも人気が高い。都竹さんも黙ってたら良い男なんだけど、硬い表情を崩さないから怖がられているのも事実。
「はい。でもいつも休憩室で食べてるんで大丈夫です。ありがとうございます」
 梶取さんにつられてあたしも笑みを浮かべながら答えると、納得したように頷いて「そう。それじゃあお先に」と同僚の人たちと出て行った。あー優しいなあ。こんなあたしにも気を遣ってくれるなんてっ。よし、早く片付けなくちゃ。
 確認は昼休みが終わってからするとして、とりあえずこのページの入力まで済ませよう。あと数行だけだし、充分間に合う……と思いたい。
「戸辺さん」
 不意に耳元で重低音の声が響く。
「うあっ、はい!」
 あまりにびっくりしすぎて声が裏返った。慌てて振り向くと都竹さんの顔がすぐそこにあった。
 整えられた顔のつくりに一瞬見惚れてしまう。けれどその視線が合ったとたんに心臓は壊れるくらいに激しく波打つ。切れ長の目は間近で見れば見るほど迫力があって、いくら顔の良い人でも恐怖を抱かせるに充分だった。
「いつまでやってるの。切り替え、ちゃんとしないと疲れるぞ」
「あ……はい、今行こうと――」
 なぜだか怒られているようで焦って手元を片付け、立ち上がる。そんなあたしの様子を見ていた都竹さんだったけれど、あたしがお弁当を取り出すのを見届けると、何も言わずに出て行く。あたしは都竹さんの後姿を呆然と見ながら首をかしげた。今のは何だったんだろう。
 まあ、とにかく早く食べ終えて続きをしてしまわなくては。都竹さんのおかげで中途半端なところで切ってしまったのだから。
 あたしは早足で廊下に出ると、突き当たりを右に曲がったところに設置されている小さなコーナーに入る。ここがこのフロアに3つある休憩室のうちの一つだ。他の2つよりも小さく、自動販売機さえもない場所だからか、普段から利用する人は少ない。この会社へ来てすぐにここがあたしのお気に入りの場所になった。基本的に一人は気が楽で、嫌いじゃない。都竹さんに叱られるたびにここで落ち込んでいたけど、そういえば最近はそういうことも少なくなってきたかな。
「ああ、こっちだったのか」
 突然だった。そう言って顔を出したのは梶取さんだ。今まで昼休みにここへ誰かが来るなんて事はなかったから、あたしは驚いて危うくウィンナーを喉に詰まらせるところだった。え、え、どうして??
「隣、いいかな?」
 狭いコーナーにはテーブルは1つしかない。それを囲んで団欒できるように3つの椅子が用意されていて、梶取さんは正面の席ではなくあたしの右横の椅子を引いた。慌てて頷いて見せるものの動揺していることが丸分かりだ。恥ずかしがっていいのやら、それでも平然とするには遅すぎるやらで、あたしはただ悠然と腰を下ろす彼を見つめていた。
「いつも1人で食べてるの?」
 梶取さんが再び質問をしてきたので、あたしは口の中のものを無理矢理飲み込み、コクリと頷いた。
「はい。だいたいここで食べてます」
「都竹とは食べないんだ?」
 都竹さんの名前が出てきてさらに戸惑い、そういえば都竹さんと梶取さんは同期だったのだと思い出す。良い意味でも悪い意味でも2人はライバルなのだというのは、あたしが所属する部署では周知の事実だった。タイプの違う2人だけれど、根本的なところは似ているのだと誰もが認めている。例えば女性なら放っておくはずのない容姿に然り、仕事に対するシビアな姿勢に然り。
「都竹さんとは、そういうことはないです。というか……そもそも都竹さん、あまり人と一緒にいないじゃないですか」
 あたしが答えると、おかしそうに梶取さんが笑う。雰囲気そのままに、ふわりと。その笑顔にあたしの心臓は高鳴りっぱなしだ。
「確かにうちの部署の人間とは飲みにも行かないな、あいつ。でも企画部の同期とは仲が良いんだよ? 都竹はもともと企画部志望だったし」
「そうなんですか?」
 あたしは驚きながら、けれど意外だとは感じなかった。都竹さんならむしろ事務処理ばかりのここの部署より、企画営業部の方が合っているような気さえする。都竹さんにはそういった花形の職種でいてほしいという乙女心かもしれないけれど。
「うん。こう見えて僕も都竹の親友の1人だからね。あいつ、今はチームリーダーなんかやってるけど、来年には異動するって話だし、今の内に戸辺さんを育てきりたいんじゃないかな」
「えぇっ、あたしですか??」
 今度は本当に意外で、叫びそうなほど驚いた。だってあたしは派遣社員だし、そりゃあ今のままじゃだめなのは分かっているけど、都竹さんが教育しなきゃいけないのはあたしだけじゃないはずだ。それとも、あたしだけが足手纏いになっていて、だから手を掛けなくちゃいけないってことなのかな。あ、有り得る……。
 あたしが顔を青ざめさせていると、梶取さんはまた肩を揺らして笑った。
「大丈夫だよ。戸辺さん、同じミスは繰り返さないでしょ。期待されてるんだよ。今度都竹に話しかけてみたら?」
「ええ!?」
 どうしてそんな難問をさらりと投げかけてくれるんですか、この人は! あたしはどちらかといえば、都竹さんよりも梶取さんと話している方が楽で良いんだけど。まさかそんなことを本人に向かって言えるはずもなく、ただただあたしは目を泳がせては梶取さんの意外に読めない表情に困惑するだけだった。なんだか……イメージと違うんですけど?
「カワイイね、戸辺さん」
「……」
 ああ、癒しのはずだった彼の笑顔が、今は怖いです――。

 都竹さんが企画営業部に異動になるかもしれないと知ってから、あたしは今まで以上に仕事を頑張った。それはもう、本当に寝る間も惜しむくらい仕事に没頭して、少し異常だったかもしれない。でも都竹さんに最後までダメな部下だったなんて思われたくなくて、できる努力は何だってしようと思っていたのだ。それでも気軽に世間話を振れるほど人間関係を築けてはいなくて、都竹さんは相変わらず能面のような表情と冷めた低い声音で指示を出してくるだけだった。あたしからなんて以ての外だ。
「戸辺さん、よく平気でいられるねぇ」
 あたしと都竹さんと同じチームの彼女が時々そんなふうに洩らすことがある。彼女はここの正社員で、あたしよりもずっと都竹さんのことを知っていて、やはり梶取さん派の彼女は感心したように、無心で指示された仕事を処理していくあたしに頬杖をつきながら言ったのだ。
「あたしはただの派遣ですから、難しい仕事を渡されるわけでもないですし」
「そりゃあ、まあ、そうなんだけどぉ」
 ここが派遣と正社員の違いだろう。ただ上司の指示を仰ぐだけではアルバイトと変わらない。彼女のその負担はあたしよりもずっと大きいのは当然だ。
「おい、さっきから何を話している」
 突然重低音の声が降ってきて、あたし達2人は慌てて席を離れる。睨みつけられたような視線を感じたが、恐ろしくて顔を上げることができなかった。
「まあいい。戸辺さん、資料室まで着いてきてくれるかな」
 言い方は優しいが、どうして彼の声はそれだけで重圧感があるのだろう。あたしは考える間もなく反射的に首を縦に動かしていた。もちろん断る理由なんて微塵もないのだけれど。
 資料室は半分書類の倉庫だ。定期的に整理されているので図書室のように清潔感があって綺麗な場所だった。あまり使われていないのか、新しい絨毯の独特のにおいが辺りを包み込んでいるかのようだった。
「俺が取った資料を日付順に並べ替えてくれる?」
「はい、分かりました」
 そうして都竹さんがファイルから取り出した書類を、順番に並び替える作業を黙々としていた。2人して無言だったから、聞こえるのは紙が擦れる音と、時々遠くからする誰かの足音くらいのものだった。この部屋に時計はなくて、パソコンもあるのだけど電源が入ってないからただの箱でしかなく、無音というのはこういう状況なのだろうかとふと考えてみる。
 不意に、ケイタイの着メロが流れた。驚いて顔を上げると、都竹さんがポケットからそれを取り出した。
「悪い」
 特に急用でもなかったのか、都竹さんはすぐにケイタイを閉じてポケットの中に入れ直した。けれどあたしはそのケイタイから目が離せなかった。だってまさか、こんなところでそのメロディを聞くとは思わなかったのだ。
「あの、SHELIP、お好きなんですか?」
 思わず聞いてしまっていた。都竹さんは特にいぶかしむこともなく、相変わらず変化のない表情であたしの方を見つめると、ゆっくりと「そうだな」と頷いた。
「この曲は、良い曲だと思ったな」
 僅かに都竹さんの表情が柔らかくなった気がして、あたしは嬉しくなった。SHELIPは数年前にメジャーデビューをしたバンドだけれど、あたしはインディーズ時代からのファンだった。あまり彼らのファンだという人が周りに居なかったから、余計に嬉しく思う。そういえばその頃のアルバムも実家から持って来たはずだけれど、あれはどこへしまっていただろう。
「あたしもケイタイの着信、SHELIPの曲なんです。『愛詞(アイコトバ)』っていう曲、ご存知ですか?」
「ああ、知っている。俺が一番、好きな曲だ」
 うわっ、うわっ、すごいっ!
 あたしは感動して叫びそうになった。『愛詞』はインディーズでのデビュー曲で、けれどメジャーデビューしてからはアルバムに1度入っただけの曲なのだ。もしかしたら都竹さんもメジャーになる前からSHELIPを知っている人なのだろうか。
「滅多に知っている人いないんですよ、この曲。都竹さんもファンなんですね」
「いや――、知ったのはつい最近で。『愛詞』というタイトルだと知るのに随分苦労したんだ」
「え?」
 それはどういうことだろう。
 しかしあたしの疑問を都竹さんに投げかける前に都竹さんの口が開いた。
「それより手が止まっているぞ。早く終わらせよう」
 重なっていた視線が逸らされ、あたしははしゃいでいた自分を恥じた。
「……はい」
 それでもやはり嬉しくて、いつものように気分が最低に滅入ることはなかった。今ならあの時の梶取さんの言葉が分かる気がする。他愛無い話が一つでもできれば、距離はぐっと近くなった気がして、都竹さんを怖いなんて思えなくなった。あたしは自分で思っている以上に単純な人間だったのかもしれない。

 ダンボールの底から引っ張り出した古いアルバムは、けれどその音を色褪せさせることなく残っていて、毎日のようにこのメロディを聴いていたあの頃を思い出した。あたしは今もあの時と何も変わっていない。夢中になって、手に届かない人を追いかけている。

「戸辺さん」
 昼休み。皆が食堂へ向かう中、都竹さんはあたしのデスクへとやって来て、一枚のCDを差し出した。
「これありがとう。どれも良い曲だった」
 あたしは都竹さんに貸していたSHELIPのインディーズ時代のアルバムを受け取り、彼を見上げた。相変わらず固い表情でこちらを見下ろしているけれど、その瞳の奥に優しい光を宿していることを、最近になって気づいた。
「いえ。気に入っていただけて良かったです」
 自然と零れる笑みを向けてそう言うと、僅かに都竹さんの口角も上がる。それが都竹さんなりの微笑だと知ったのもつい最近のことだ。たぶん、ほとんどの人は気づいていないことで、それがなんだか歯痒く、嬉しい。あたしだけが知っている都竹さんの笑顔。
「あたし、このアルバムの中では特に2曲目が好きなんです。歌詞がそのまま心に落ちてくる感じがして」
「うん。俺も好きだよ」
 仕事の時とは違う優しい声音。その違いも、だんだんと分かるようになってきた。その一つ一つに気づいていくたびに、あたしは胸の中がほっかり熱くなるのを感じていた。同志を見つけた喜びのためだけではないことにも、だんだんと自覚してきていた。
「戸辺さんはいつもお昼、どこで食べてるの?」
 都竹さんがふと思いついたようにそんなことを聞いてきた。仕事とSHELIP以外のことを話題にするのは初めてかもしれない。今までとは違う胸の高鳴りを感じながら、あたしはいたって普通に答えようと胸を押さえた。
「この階の休憩室です」
「1人で?」
「え、はい。あ、でも最近は梶取さんも時々来ますね」
 梶取さんの名前を出すと都竹さんはあからさまに驚いた表情をした。ここまで表情を変えたところを見るのもたぶん初めてだ。珍しくてついつい見入ってしまい、視線が合うと慌てて俯いた。きっと変な子だと思われた!
「どうして梶取が?」
「さあ……?」
 あたしに聞かれても梶取さんが何を考えているのか分かるわけがない。あたしも不思議に思うのだ。あの日から本当に気まぐれに、梶取さんは昼休みに休憩室へ顔を出しに来るようになった。その時はほとんど都竹さんの話題で、あたしの恋の相談室みたいな状況になっていた。けれどまさか都竹さんにそこまで言えるはずもなく、同じように小首を傾げて見せる。ただ都竹さんの場合は小首を傾げるというよりも怪訝そうに首を捻ったと表現した方が適切かもしれなかった。
「今日は俺が一緒に食べて良いか?」
 少し考え込む様子を見せたかと思えば、唐突に都竹さんが思いもしなかった提案をしてきた。あたしは咄嗟にどう反応すればいいのか分からなくて、けれど断ることも躊躇われた。
「でも都竹さん、いつも食堂じゃ……」
「たまには良いだろう。それとも都合が悪い?」
「ま、まさかっ! そんなことはないです、けど」
 慌てて両手を左右に振って否定すると、都竹さんはほっと肩を下ろして、僅かに目じりを下げた。本当に注意深く見ていないと分からない変化だ。
「じゃあ問題ない。コンビニで何か買ってくるから、先行ってていいぞ」
「あ……はい」
 そんなふうに命令口調で言われたら、あたしは頷くしかない。
 都竹さんがエレベータの方へ向かったのを見届けると、あたしもバッグからお弁当箱を取り出して足早に廊下へ出た。なんだか妙な展開になってきたなあ。――さっきから心臓が早く動きすぎて息苦しい。
 休憩室に入ると既に梶取さんの姿があって驚いた。だいたいいつもあたしが先に来ていて、梶取さんが来るのは昼休みの半ばになってからなのだ。梶取さんはあたしに気がつくと、ややあっと手を上げて微笑む。いつもの感情の読めない穏やかな笑みだった。
「最近都竹と仲がいいじゃないか。言ったとおりだったろう?」
 得意げに話すところも、今まではその顔に貼り付けられた笑顔で誤魔化されていたんだろうと、今になって分かる。こちらはとてもあり難くない発見だった。だからもう梶取さんはあたしの癒しの人ではなくなっている、完全に。
「はい。でもどうして知っていたんですか? 都竹さんがSHELIPのファンだなんて」
「いや、都竹に音楽の趣味があるとは知らなかったよ」
 事も何気に答える梶取さんに、あたしは首をかしげた。
「え、でも同じ趣味があるかもしれないって教えてくれたのは、梶取さんじゃないですか」
 何度目かの昼休みに梶取さんがそうアドバイスをしてくれたから、あたしは勇気を振り絞って都竹さんにアルバムを貸すまで話を持っていけたのだ。その情報がなかったら、いくら着メロが好きなバンドの曲だからといってそこまでしようとは思わなかった。なのに、どういうことだろう。ただのハッタリだったとか?
「うん、まあね。都竹が戸辺さんと共通の話題を持つだろうってことは、見てたら分かることだし」
「え??」
「いや、こっちの話。それより何か進展はあったのかな?」
 ……やっぱり梶取さんは読めない人だ。少し苦手、かもしれない。
「そんな急には――あ」
 お弁当を広げながら、ふと、今更になってこの状況はあまり良くないかもしれないと思い当たる。
「何?」
「今日、都竹さんもここで食べるみたいです。今コンビニに買いに行っていて……」
 言いながら、伺うように梶取さんを上目遣いで見る。できれば梶取さんには退席してもらいたいなあ、と思ってみたりする。
 仮にも上司である彼に、そんなことを面と向かって言えるはずはないのだけれど。
「ふうん。それで、2人きりにしてほしい、と?」
 いかにも楽しそうな表情で梶取さんがあたしの顔を覗き込んできた。こういう意地悪なところは都竹さんにはないとこだ。
 あたしが黙っていると梶取さんはふっと肩の力を抜いて笑みを浮かべた。いつもとは少し違う、優しげな目をしていた。
「でもごめんね、動く気はないよ」
 前言撤回。優しくなんてなかった。まだまだ梶取さんの纏う空気を読みきれてなんてなかった。
 それでもあからさまに不満げな表情を作るのも癪で、そうとう微妙な顔になっていたと思う。梶取さんがおかしそうに笑う。あたしなんかを困らせて何が楽しいのか、よく分からない。
「梶取?」
 不意に梶取さんの名前を呼ぶ重低音の声がした。都竹さんがそこにいたなんて全然気づかなかった。コンビニの袋を手に提げていた都竹さんは、あたしの背中側の角に立っていて、何とも言えない難しそうな顔でこちらを見ている。
「早かったね、都竹」
 特に驚いた様子を見せず、梶取さんは穏やかに言った。あたしの正面に座る梶取さんからは都竹さんが入ってくるのが見えていたのかもしれない。
 梶取さんが空いた椅子を引き、都竹さんに座るように促す。
「どうしてここに?」
 袋をテーブルに置き、席に着くなり都竹さんが梶取さんに問いかけた。怪訝な顔の都竹さんと穏やかな笑みを浮かべる梶取さんはお互いの顔を見合い、けれど険悪な空気になることはなかった。それでも2人の間には入れない何かがあって、いつ爆発するのかと怖くなる。
「酷いな。たまにここで戸辺さんの相談に乗ってるんだよ。最近彼女、頑張ってるだろう」
「ああ、そうだな」
 静かに都竹さんが頷いた。
 嬉しかった。都竹さんに認められた気がして、胸が熱くなる。最近は指摘されるミスもなくなってきていて、そのことに気づいてもらえていたのだと、嬉しくて泣きそうになる。
 だからその瞬間、ニヤリといつもと違う笑みを梶取さんが浮かべたことに気づかなかった。
「なんだ。無愛想な奴だな、相変わらず。お前が戸辺さんを気にかけていたから協力してやったのに」
「っ、ば……っ! 言うなよ、そういうこと!」
 慌てたように都竹さんが大声を出した。滅多に見ない様子にあたしは呆然と2人を眺める。無表情な人だと思っていた都竹さんにもちゃんと顔の筋肉はついているんだ――なんて失礼な事を思ってしまった。
「それに俺は一言も頼んだ覚えはない」
 難しい表情で睨みつける都竹さんに梶取さんは平然としていて、むしろ彼の反応を楽しんでいるように微笑む梶取さんは、さすがだった。
「まあ、そうだけど。でもそのおかげでプライベートな話までできるくらい仲良くなれたんだろ? 都竹がSHELIPなんていうバンドのファンだったとは、長い付き合いだけど知らなかったよ」
 ふふっと笑う梶取さんに、つり上がっていた都竹さんの眉がさらに上がり、その視線の矛先はあたしに向けられた。ひえぇ!
「そんなことまで話していたのか」
「すっすみません……」
 思わず体を小さくさせて謝る。いや、でも、よくよく考えると責められる原因なんてなかったはずなのだ。
 刹那、パコンと綺麗な打撃音が響いた。梶取さんが都竹さんの後頭部を勢いよく叩いたのだ。そんな芸当が出来るのはたぶん、うちの部署の中では梶取さんくらいなものだろう。
「馬鹿。怒ってどうするんだ」
「……」
 殴られた後頭部を摩りながら無言で睨みつける都竹さんに、梶取さんはやれやれと肩を下げた。
 立ち上がり、慰めるような笑み見せる。
「ま、ここから先は都竹次第ってことだな。頑張って戸辺さんに嫌われないようにしろよ?」
 そう言って梶取さんは休憩室から出て行った。ひらひらと手を振る彼の背中が見えなくなっても、あたしと都竹さんはしばらくその後を見つめたまま、口を開くことはなかった。
 あれ……梶取さんの言ったことって逆では? あたしが嫌われないように頑張らないといけないんじゃないの……?
「まあ、なんだ――」
 都竹さんが言う。
「今度食事にでも行くか。奢ってやる」
「え?」
「仕事、頑張ってるからな」
 くしゃり、と都竹さんの伸びた手があたしの頭を撫でた。ぶっきらぼうな言い方とは反対にその温もりは優しくて。
「ありがとうございます!」
 恥ずかしかったけれどはしゃぐようにしてあたしは満面の笑みを浮かべた。
 都竹さんが僅かに微笑んで、だからあたしは、明日も頑張れると思った。

≪ F I N. ≫

ご精読ありがとうございます。
これは30万打記念企画として配布していた掌編です。
(現在は配布しておりません)
下ろした後はどうするか迷いましたが、ご意見を伺い、
再掲することに決めました。気に入ってくだされば嬉しいです。
カップリングはアンケートで2位となった[上司×部下]です。
これからもMITSUKISSをよろしくお願いします。
2008/05/28 up
2008/08/23 再掲  美津希