Short×Short

2周年御礼記念企画「愛詞〜アイコトバ〜」

「余所見は許さない」


 梶取(かんどり)という男は初めて会ったときから気に食わない奴だった。表面はのほほんとして人当たりも良好だけれど、その実ものすごい腹黒男だということは、果たして社内の女性社員の何人が気づいているというだろう。入社してから何かと一緒になることが多かったあたしには隠すのが面倒なのか、その本性を呆気なく明かしたこいつに、あたしはいつだって振り回されていた。
 けどそれも2年前の話だ。今あたしは企画営業部、梶取は製品管理部で部署が別れ、フロアも違うから話すどころかすれ違うことすら滅多になくなった。それに管理部には奴の親友である都竹(つづき)くんも居て、あいつの話し相手に呼び出されることもない。ようやく解放されたのだ。
 ――と、思っていたのに。
 企画部の他の連中は未だに飲み会や食事会を開くたびに2人を呼んで、そのたびにあたしは梶取のパシリになるのだ。あたしも適当に流せればいいのだけれど、何だかんだと抵抗してみても結局は梶取の手の内で遊んでるだけのようになってしまう。はあ。
「秋津(あきつ)、グラスが空いてる」
 いつもの、会議の打ち上げと称した企画部主催の飲み会で、当然のようにあたしの隣に座る梶取がテーブルを指差して言った。どうして部署の違うこいつがこの場所に居るのかなんてのは、愚問でしかない。あたしは不機嫌に顔を顰めたものの、そのまま席から身を乗り出して店員を呼び、適当にお酒を追加注文する。10人ほど集まった今日は座敷を使っていて、掘り炬燵でもないので同じ体制で座っていたあたしの足はいい加減に痺れていた。上手く動けずにもたもたしていても、誰も気にかけてくれないんだよね。梶取も気遣ってくれる気配さえ見せずに楽しそうに話し込んでいる。……いや、梶取に優しさを求めるあたしが間違っているのかもしれないけど。
「おいー、誰だよ、ジントニ頼んだのー?」
「え、衣笠(きぬがさ)くんでしょ?」
「オレじゃないよー」
 確かに衣笠くんだったんだけどなあ、とあたしが言ってみても彼は覚えがないの一点張りで、他に誰も手をあげる人もいない。
 困ったなぁ。
「注文したの秋津だし、秋津が引き受けとけって」
 梶取が無責任にもニコニコと明るい声で言う。はい、と衣笠くんから回ってきたグラスを梶取から手渡され、あたしは思い切り迷惑だという顔をした。
「えー、あたしもう飲みたくない……」
 小声で言ってみるも梶取の視線がそれを拒否する。きっと押し返しても誰も受け付けてくれないのだろう。
「ほら、秋津」
 耳元で優しく囁かれ、けれどこれが梶取のやり方なのだ。
 あたしは意を決して一気に喉へ流し込んだ。もともとお酒には弱いのに、知っていてこういうことをさせるなんて全く意地が悪い。ばかやろう。くらくらする頭であたしは梶取への文句ばかりを浮かべた。
「お、頑張るねーアキちゃん」
 誰かが茶化すようにそんなことを言ってのける。人の気も知らないで。
「そりゃー梶取が引き受けろなんて言いましたからー」
 隣で馬鹿にしたような微笑で、梶取がクスッと笑った。
「僕の言うことだったら頑張れるんだ?」
「当たり前じゃん」
 研修の時からそうだった。仕事以外でも梶取に逆らうようなことをすれば遠慮なく嫌味皮肉の炸裂オンパレード。精神的に苛め抜かれるのだ。それなら従っていた方がマシっていうことを、どうしてわざわざ言わせるのか。溶けた氷が甲高い音を鳴らした。
「言うね〜!」
 一瞬の沈黙の後、なぜか笑い声が立つ。梶取も満足そうな笑みを浮かべて「僕って愛されてるなぁ」なんて言っていた。
 あたしは意味が分からず首を捻るが――。あー、やばい。きもちわるい。
 アルコールが脳にまで届いて頭の中をぐるぐる回っている感覚。あたしはそっと席を立ってお手洗いに駆け込んだ。吐きそうな気配に口を押さえながら手洗い場の前に屈みこむが、戻すまでの勢いはなかったみたいで、嫌な感覚だけが胸の辺りを溜まっているみたいだ。
 だから言ったのに……。梶取が囁くから、もう断っても無駄だと躾けられたみたいに反応して、受け取って……。
 最悪。すっきりさっぱり吐き出したかったのに。
「大丈夫?」
 お手洗いから出ると心配そうに声を掛けてきてくれたのは衣笠くんだった。あたしは軽く笑って返事をする。
「だいじょーぶだよー。ほんとーは衣笠くん頼んだんでしょージントニー」
「いや――本当にオレじゃないんだ」
 申し訳なさそうに言う衣笠くんは困ったように笑う。あたしはすぐに顔の筋肉を固めて彼に食って掛かろうとした。
「じゃーだれなのよー?」
「僕だよ」
 間髪も入れずに答えが返ってきた。それはどこまでも優しく柔らかく、きっぱりとした口調だった。
 あたしも衣笠くんも驚いて、振り返ると壁に寄りかかるように立つ梶取がいた。いつものシニカルな笑みを浮かべてこちらへやって来た。
「ごめん、衣笠。秋津は僕が送るから、もう戻っていいよ」
 顔は相変わらずニコニコと笑っているのに声は全然穏やかじゃなかった。どこか有無を言わせないような梶取の雰囲気に、衣笠くんだけじゃなく、あたしもゾクリと背中に冷たい何かが走った。
 くらり、と世界が回転する。
 足の力が抜けて崩れるように倒れそうになったあたしの体を咄嗟に支えてくれたのは衣笠君の腕だった。
「ぅあ、ごめんねぇ」
 慌てて起き上がろうとするが、アルコールが全身の筋力を奪ったように体の自由が利かない。なんとか衣笠君の腕にしがみついていると、ずかずかとやって来た梶取によって引き剥がされた。
 あ、と思う間もなく支えを失ったあたしの体を抱きとめた梶取は、あたしの背中を優しく叩いた後、「それじゃあ」と短く言ってずるずるとあたしを引っ張りながら店を出た。夏とはいえ夜の外は涼しい風が舞って熱った体を冷ましてくれるようだった。
「梶取!」
 後ろから衣笠君が切羽詰ったような表情で追いかけてくる。梶取はあたしを自分の胸の中に抱いたまま衣笠君の方へ向き直ると、とんでもないことを言い放った。
「衣笠も結構鈍感だよね。こいつは僕のものだって言ってるだろ?」
 なんだそれはぁ〜!?
 あたしは驚きすぎて息をするのも忘れるくらいに固まってしまった。
 それは衣笠君も同じようで、けれどあたしには衣笠君の顔が見れなかったから本当はどうだったかわからない。
 彼が何も言わないのをいいことに、いつの間にか店の前に止めてあった梶取の車の助手席にあたしは放り込まれた。
 梶取は何も言わず、あたしがシートベルトをするのを確認した後、そのまま車を走らせた。流れる風景を見ると気持ち悪くなりそうだったので、あたしは椅子を少し倒して天井を向く。目を閉じてただ揺られていると、とても気持ちよくて眠ってしまいそうだった。
「梶取って〜あたしの家、知ってたっけぇ?」
「知らない。だから僕の家に行くよ」
「あー、そう……。着いたら起こしてね」
 ぼんやりとそんなふうに答えると、運転していた梶取がクスッと小さく笑う気配がした。
 あたしは睡魔にやられてその意味を考えることを放棄する。
 後悔は、後からするから後悔と言うのだ。

「――きつ。秋津、着いたよ。起きろ」
 肩を揺らされ、重い頭を起こした。瞼が痛い。
「んー……?」
 薄らと目を開くと正面に梶取の顔が見えた。やけに近くてびっくりする。
「寝ぼけてるな。降りるぞ」
 ペチペチと頬を叩かれる。あたしは言われるまま体を起こし、車から降りた。知らない駐車場の一角で、そういえば梶取が「僕の家に行くよ」と言っていたのを思い出した。
 僕の家に……って、梶取の家――!? どうして!?
 焦るあたしだけれど、梶取自身は何事もないようにあたしの腰に腕を回し、自分の胸にあたしの体を寄り添わせる。まるきり酔っ払いの介護のようで、ああそうだ、とあたしは思い出した。あたし、酔ってたんだっけ。
 ふらふらとするあたしを支えるように梶取は抱き寄せ、駐車場を出てマンションのエントランスホールを抜ける。エレベータに乗り込むとあたしは壁に寄りかかった。エレベータが動く瞬間の独特の浮遊感が少し気持ち悪くさせる。
「まったく、そんなになるまで飲むなよ。いい大人なんだし分かるだろう」
 溜息交じりに呟かれ、ムッと睨みつける。
「なーによぉ。梶取が飲めって言ったんじゃん! ジントニも勝手に頼んでるしぃ!」
 そうよ。何もかも梶取のせいなんだから。あたしが責められることなんて何もないはずなのに。
 だけど梶取は特に悪びれもなく、むしろ俺のどこが悪いんだと言わんばかりに鼻で笑った。
「当たり前。秋津が酔わないと家に連れ込めないし。でももう少し自分に気をつけろって言ってるの。衣笠なんかに隙見せるな」
 はぁ〜? なにそれ。わけわかんない。
 ていうか梶取が何を言ったのかさえ分からない。
「どういう意味?」
 気持ち悪くて吐きそう。でもここでは無理。だめ。迷惑掛けるし。
 だからって立ってるのもつらくて、思わず座りそうになるのを梶取に腕を掴まれ止められた。代わりにもう一度腕の中に抱きとめられる。
 梶取の腕の中って気持ちいい。トクトクと少し早めの鼓動がリズム良く聞こえ、なんだか安心する。
「……ねむい……」
 エレベータが止まって、またずるずると引きずられるように廊下を進み、ガチャガチャと鍵を開ける音がした。それから部屋へ入ってベッドで寝かされるまで、あたしはずっと目を閉じていて、その時の梶取がどんなふうだったかなんて知らなかった。
「――んっ……ふ……」
 唇に何かが押し当てられる。息が出来なくて苦しい。
 いやいやと頭を振ると、下唇を吸われた。くちゅ、といやらしい音がして目を開けると、梶取がいた。あたしに覆い被さっていた。
「!?」
 驚きすぎて目が覚める。
 なに、これ。どういう状況!?
「秋津は僕のこと好きなんだよね?」
 にっこりと頬笑む梶取に、あたしは目が点になる。
 だよね、って……あたしはいつそんな話をしたかな!?
「僕の言うことなら何だって聞けるんだよね?」
 ね、って。だからそんなこと一つも言った覚えない!
 あたしが必死で首を横に振っているのに、梶取はニコニコ笑ったまま。
「今度は秋津からキスしてよ」
「はあ!?」
 ちょっと待ってよ。どうしてそんなことになってるわけ? ていうか今度“は”ってなに、“は”って!
「それとも焦らしプレイが好きなの?」
 ……ナンデスカソレ。
 完全にフリーズしたあたしの顔を覗きこみながら、梶取はずっとこの体勢を保っている。
 もしかして、ずっとこのまま?
 なんて思ってたら、梶取がちゅっ、と耳元にキスをした。びくっとあたしが反応すると、そのまま唇は首筋、鎖骨へと下がっていく。
「ぅひゃ! タンマ、タンマ! 待ってってば!!」
 慌てて梶取の肩を掴んで止めに入る。力じゃ全然効き目なくて、梶取の体を押しやることは出来なかったけど、梶取はすんなりとキスをやめてくれた。ちょっと安堵。
「あ、あのさぁ……梶取はあたしのこと、好きなの?」
 そんな素振り全然なかったけど。むしろあたしには腹黒な梶取を見せていたので嫌われてるかと思ってたけど。
 少しドキドキしながら答えを待っていたら、梶取は頷くでも首を振るでもなく、ニッコリと微笑んだ。
「秋津には負けるけどね」
 ドカン。とあたしの体温が急激に上がった。
 って違うから! どうして顔を赤くしてるのよ、あたし!!
 それもこれも梶取が変なことを言うから! じっと睨みつけても梶取の表情が変わることはないけど。
「そんな顔して、襲ってほしいの?」
 ってどんな顔よ!
「でも秋津からキスしてくれないと、襲ってあげないよ」
 襲ってくれなくていいし! 早く退いてほしいから!
「愛の言葉も囁いてあげない」
 別にそんなのっ…………え?
「シャワーもさせないし、朝ごはんも作らない」
 え……! そ、それは……困る……。
「ずっと睨みっこしてても僕は構わないけど?」
 いや! こんな状態で一晩中なんて無理!
「だからほら、してよ」
 だから、ってあたしの心と会話できてたの? エスパー?
 いやそれよりも、キス一つでこの状況が打破できるなら安いものよね……たぶん……。
 だってそれに、朝ごはんもほしいし。シャワーも浴びたいし。ていうか早く眠りたいし。
 それに梶取のこと……生理的に受け付けないってわけでもないし、キスくらいは……うん、大丈夫。
 あたしはおずおずと腕を伸ばし、梶取の首に回した。腹筋が辛いけど上半身を浮かせて顔を近づける。
 でもたぶん。
「……ッ……」
 先に触れてきたのは梶取だった。

 好きだよ。
 そう聞こえた言葉はささやかで。
 やっぱりあたしにはどんな言葉だって、それが梶取からのものだから、逆らえないんだ。
 それが少し、分かった気がする。

≪ F I N. ≫

おかげさまで2周年を迎えることが出来ました。
辺地なサイトを見つけてくれた方、足を運んでくれた方々に
あつくお礼を申し上げます。ありがとうございます!!
カップリングはアンケートで1位となった[S男×天然]です。
気に入ってくだされば嬉しいです。
これからもMITSUKISSをよろしくお願いします。
2008/08/09 up  美津希