Photo by 空色Holic

聞こえない想い。


 大学を出て入った建築事務所は、3年も経たずに辞めてしまった。
 一人暮らしを始めて張り切って買った料理のレシピ本は、いつの間にか本棚の片隅で埃を被っていた。
 ダイエットの為だからと友人に誘われて入会したスポーツクラブには、ここ数ヶ月行っていなかった。
 何をやるにも中途半端な私の唯一の誇りは、漆黒の色をした髪だ。美容院へ行くと必ず褒められる。綺麗ですね。何か特別に手入れされてたりするんですか。そんな言葉に私はいつも上機嫌で、いえいえそんなことはありません、と答える。
 特別な手入れをしていないことは本当だ。高いシャンプーやトリートメントを揃えるわけでもなく、ドライヤーの仕方に拘りがあるわけでもない。ただ、ここ数年伸ばしているのには特別な思い入れがあった。それだけだ。

 事務所を辞めて派遣会社に登録し、新しく入った会社は主に大手企業を相手にした広告店だった。依頼主の希望に合わせた広告のデザインから印刷までを一気に引き受け、期限厳守を貫くその会社は、地元ではそこそこ老舗。社長も社員も自分の仕事に誇りを持って働いているのが組織の中から見ていても伝わってくる、とても良い環境だ。
 会社の雰囲気にも好感を持てたが、それ以外で気に入ったものがある。最寄り駅から会社へ向かう途中にある桜の並木道だ。春になると染井吉野の淡いピンク色が空を覆うが如く咲き、一瞬息を呑むほどに圧巻だった。その光景を見たのは派遣される前の年で、まさかその時はここが通勤場所になるとは思いもしなかった。
――彼と出会ったのも、この場所だ。
 季節は葉桜が良く似合う心地よい初夏の頃。彼は学生服に身を包んでいた。
 白のカッターシャツを出し、灰色のズボンを少し下にずらして履き、ひどく詰まらなさそうな表情で、私の大好きな並木道を歩いていた。時間帯にして調度お昼時。学校をサボっているらしいことは一目瞭然だった。
「あ」
 目が合い、声を出したのは果たしてどちらからだったか。けれどそれと同時に、私の持っていたバッグが腕からずり落ちた。チャックの開いたバッグからは、見事に中身が散乱する。
 ……最悪。
 私は泣きたくなるのを我慢し、急いで散らばったそれらを拾い集めることにした。財布。携帯電話。手帳。化粧ポーチ。どれも使い古した洒落気の何もない小道具たちが、今までにないほど憎らしく思える。
「大丈夫ですか」
 焦る私の目の前に、社名の入ったハンカチが差し出された。驚いて顔を上げれば、彼が体を屈めて私の目の前に居た。その整った顔立ちに思わず体が硬直する。
 間近で彼を見て、気づいたことがあった。彼の瞳は澄んだ青い色をしている。
 カラーコンタクトをしているのかと思ったけれど、それ以上にどこか日本人離れした堀の深い顔立ちと白い肌の色が、その瞳の色とよく似合っている。もしかしたらハーフなのかもしれないという予想を簡単にしてしまいそうなほど、彼は綺麗な色の瞳で、私を覗き見た。
「あっ、すみません。ありがとうございます」
 彼が首を傾げるのが分かり、慌てて目の前のハンカチを取った。それは以前、建築事務所に勤めていた時に出席したパーティーで、タオルや石鹸とセットで配られていたものだ。何のデザインもない、年頃の女性が持つには不自然な小物に、けれど彼は特に気にするふうでもなく私に渡した。どうせなら可愛らしい花柄のハンカチを持っていれば良かったと、どうでもいい後悔をする。
「いえ」
 彼は小さく頭を振ると、ふわりと笑んだ。目じりが下がって幾段と幼く見えた。けれど近づいたこの距離で微かにフィリップモリスの匂いがした。
 どきりと胸が高鳴る。
「君、高校生でしょ?」
 気づけばつい、そんなことを言っていた。
 彼は心底驚いた表情で、立ち上がろうとしていたその姿勢を止めた。それはそうだろう。見ず知らずの人間にいきなり声を掛けられたら、誰だって驚くに違いない。
「学校は? それにそれ……タバコ。ポケットから見えてるわよ」
 私に指摘され、彼は慌ててカッターシャツの胸ポケットに手を突っ込み、はみ出ていた箱の先を押し込んだ。そこでようやくハタと私に向き直る。既に立ち上がった私達の身長差は、10センチほど開いていることを知った。
「……何、アンタ。関係ないじゃないですか」
 確かにその通りだ。彼が未成年にもかかわらず喫煙をしていたところで、私には関係の無いことだ。彼とは赤の他人で。ただそれだけで。
「まあ――、そうなんだけど」
 なのに思い出してしまったから。記憶の奥に仕舞い込んだあの人と重なって見えてしまったから。それはパブロフの犬のような、反射とも取れることだった。容姿は全く違うのに、ただ彼もフィリップモリスだっただけで、どうしてこんな気持ちになるのだろう。
「ごめん、忘れて。あの、私、もう行くので」
 これ以上近くに居てはだめだと脳が警報を鳴らし、私はそれに従った。
 彼はまだ何か言いたそうな不満げな顔をしていたけれど、私にはどうしようもない。とにかく、これきりだ。
 ここを離れればもう会うことはないだろう。私はそう思い、おそらく彼もそう信じていたに違いなかった。

 これが運命と呼べるものなのかは、私には分からない。ただの偶然だと言って済んでしまうような、そんな簡単な事のようにも思える。
 どちらだとしても事実、私は再び彼を見かけることになった。
 初めて彼を見かけた日から月を越える前の、すぐのことだ。空は僅かに曇っていて、風は強く吹きぬけた。深夜から雨だという予報を信じて折り畳み傘を持ってこなかったのを少し悔やむくらいには、陰りが見えるほどの空の色。
 彼はその下でベンチに腰掛け、静かに時の流れの中に漂っているようだった。目的もなくただふよふよと浮かぶ雫の塊を見上げて、あの時と同じ虚ろな後姿を見せていた。
 やはり似ていない。あの人とは違う。――そんな当然なことを、私は新たに発見した気分だった。
 声は掛けなかった。掛けても良かっただろうが、彼にはもう関わらない方が良いのかも知れないとも感じた。あの人と重ねてしまう自分はもう見たくなかった。既に風化したはずの想いが彼によって再び目を覚ましそうで怖かった。
 あの人はもうこの世界には居ない。それを現実として受け入れられるまでに、私はあまりに多くの時間を使いすぎていた。今は新しい環境の中で、楽しいことだけをしていたい。そう願うのは必然のような気もする。
 ……それなのに、どうしてこんなにも気になって仕方がないのだろう。
 一歩進み、距離が近づくにつれ、あの日と同じようにフィリップモリスの匂いが伝わってくるような、そんな錯覚を覚える。まるで私がその毒にやられ、幻を見ているような感覚。不意に、泣きたくなった。
 自分の存在に気づいてほしいような、ほしくないような曖昧な感情が胸に渦巻き、私は困惑した。なんて身勝手でわがまま。得てして人間とはそういう生き物なんだろうか。
「あ」
 そして彼は気づいた。何気なく振り返り、私を見上げる。
 あれだけじっと人を見つめていれば、その気配を感じ取られることは当然かもしれないと気づいたのは、随分と後になってからだった。
 このときの私はきっと間抜けな顔をしていただろう。
「……こんにちは」
 彼は無表情にそう言った。私も戸惑いながら会釈をする。
 私のことを覚えていたのか。その些細な事実に私の心臓はさらに高鳴った。波打つ鼓動が耳の後ろから聞こえてきそうだった。
「そういえばアンタ、綺麗な髪してる」
 唐突に彼がそんなことを告げる。
「え……」
「俺はほら、中途半端な金髪」
 そう言って再び顔を正面に向けた彼は、前髪を指で摘んでいる仕草をした。
 それがとても切なく聞こえて、私は慌てて頭を振った。彼に見えているわけでもないのに、必死に笑顔を作った。
「き、綺麗な栗色っ、だと思うよ!」
 すると彼は小さく笑った。彼の肩が震えた。
「ばーか。栗色ってのは焦げ茶色のことだよ。俺のはどっちかっつーと黄土色」
「……地毛?」
「さあ……どうだろう。アンタは本物だろ。羨ましい」
「君の髪の色、私は好きだよ」
 精一杯の私の言葉は、果たして彼に届いただろうか。彼がそれに対して返事をすることは無かった。
 風が吹いて、私は小さくこの場を離れることを告げる。けれどサヨナラとは言わなかった。もしこれがただの偶然ではなく、運命と呼べるものならば、きっとここでまた彼に会える予感がした。人にそれを明かしてしまえば、あまりにも幼稚で馬鹿げた根拠だと笑われるかもしれない。
 聞こえない想い。けれどそれを感じることは難しいようで、人は案外やっているものだ。
 私も今、彼にそれを分けられたような気がした。
 あの人を愛していた。あの人も私を愛してくれた。
 私は君にまた、それを届けたい。

 キミガスキ

 実感するにはまだ幼すぎる感情だけれど。
 誇りに思う。
 君が綺麗だと言ってくれた、この漆黒と同じほどに。

《 F I N.》

【こんぺきのほったてごや】様 ≪p r e v   i n d e x   n e x t ≫ 【kuishinboの屋根裏部屋】様

+++ あとがき +++
ご精読ありがとうございます。初めましての方もそうでない方もこんにちは。
輪樹さま&風花さま主催の片想いリレー第7走者の美津希と申します。
他サイト様の企画に参加するのは初めてでド緊張しながら書きました。他の方たちがどれもステキな片想いをされているので、その中に加われたことをたいへん嬉しく思います。
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未読の方は、是非とも一番目からお楽しみください。
主催者さま、他走者さま、読者の皆さま、に感謝を込めて。
2008年7月 美津希