Short×Short

とりあえず、


 日曜の朝、突然、母親に呼び出された。
「あなたももうそろそろ、こういう話があっても良いと思うの」
 そう言って差し出されたのはお見合い写真。それと同時に放たれるこのセリフは、既に2回は聞いたことがある。
 わざわざ実家へ戻ってきたというのに結局はコレか、と私は盛大に溜め息を吐いた。テーブルの上に置いてあるせんべいを一枚手に取ると、バリッと軽快に音を出し、噛み砕いた。
「相手方のお母様とはもう話がついているのよ。テニススクールで一緒になった方なんだけど、とても品があって素晴らしい人だったわ」
 いつもそうだ。私の母は、自分が思い立ったらすぐにでも行動を移す人だ。今通っているらしいテニススクールに入ったのも昨年、某テニス選手の活躍がきっかけだった。その有名人は既に引退してしまっているけれど、動くことが好きな母はそのまま続けている。我が母ながらその行動力は尊敬する。
「何でもご主人、会社の社長をなさってるんですって。息子さんもその会社で幹部として働いて、ゆくゆくは後を継ぐつもりみたい。そしたら日代子、あなた社長夫人よ! すごいじゃない!」
「すごくないわよ。まだお見合いするなんて言ってもいないのに」
 話しているうちにだんだんと興奮してきたのか、捲くし立てる母に、私は冷静な口調で言葉を返した。だいたい、私はそういった男にはもう懲り懲りなのだ。私には男運がない。過去の2回で嫌というほど経験していた。
 なのに性懲りもなく、母はまた同じような男しか私に話してこない。彼女は学習能力というものがないのか、あるいはそれ以上に目の前の餌がほしくて堪らないのか。娘の私には判断が難しい。
「何よ、するんでしょ、お見合い。あちらのお母様とは話はしてるのよ。だから来月始めの日曜日は空けておきなさい」
 これは決定事項なのだ、というように言い切られた。私は返す言葉を失い、ただ溜め息だけを吐き出す。
 所詮過去の失敗など過程の一つにしかないのだ、この母には。結局傷ついていたのは当事者の私だけで、それは当然のことなのかもしれないけれど、なんだか悲しくなった。だいたい母からお見合い話を持ってこなければ、私だってあんな惨めな思いはせずに済んだのだ。
「良い? 何事も経験よ。する前から身構えてちゃだめ」
 それは彼女の、昔からの口癖だった。小さい頃から言い聞かせるように私に向かって言ってきた。
「経験はしてから身になるの。ならやってみるしかないじゃない。とりあえず、よ。何事も『とりあえず』が肝心なんだから」
 おそらく母の行動力はその思想からなるものなのだろう。いつしか私はそう理解し、納得した。
 私もこの母の血を引いている。その事実が更に説得力を持ち、だったらやるしかないか、という気になってくる。
 とりあえず。それくらいの軽い気持ちでやってみればいいのだ、と私の思い足は一つ前へと出る。
 結局、過去の2回の失敗も、母に乗せられた私の学習力の無さが一番の原因なのだろう。

 大友博好。35歳。東京大学経済学部卒業。趣味はマリンスポーツ、ウィンタースポーツ全般。船舶免許を取得。
 以上が、今度の見合い相手の、大まかなプロフィールである。どこにでもいそうな令息。それが私の第一印象だった。
 写真を見る限りはなかなかの男前だ。髪を硬く纏め上げ、眼鏡を掛けている目は鋭かったが、実年齢よりも若く見えた。スーツをパリッと着こなしていて、写真の中からでも落ち着いた雰囲気と厳しい空気が伝わってくる。正直、苦手なタイプの人間だ。
 そもそも、本人の承諾があると言っている割には、母親を通じて見合い話が進んでいく、という流れは経験上喜ばしいことではない。会う場所も、出される料理も、全て親同士で決めている。ということはそこに当人の意見がないと考える方が良い。過去2回、同じような段取りで会った。結果、相手には根本的に結婚の意志はなく、むしろ他に相手がいたことが分かった。それで破談になった。2年前は、まさに当て馬にされただけの結果に、とても悔しい思いをした。相手の男がそこそこ好みのタイプだったから、余計だった。
「いらしたわよ、日代子。ちゃんとしなさい」
 ホテルのロビーで座っていた私の肩を母が叩く。顔を上げると写真で見た男と、母の言ったとおりの上品な年配の女性が並んでこちらへ向かってきていた。私は帯で締め付けられた腹に力を入れ、苦しさで顔を顰めないように立ち上がった。着物は何度着ても慣れないものだ。
「今日はよろしくお願いします、大友さん」
「こちらこそよろしくお願いします。鈴木さん」
 母親同士が恭しく頭を下げあうのを見て、私も倣って頭を下げた。頭を上げると彼も同時に頭を上げるところだった。思ったよりも背が高く、視線を合わすには上を向かなければならないようだ。ヒールを履けば少しは釣り合うだろうか。
 ホテル内にあるレストランへ入り、食事をしながら母親同士の会話に適当に相槌を打つ。そうしながらも私は彼の観察をし続けた。やはりもう、あんな悔しい思いはしたくないし、慕ってもいない相手に振られるのは悲しい。少しでもこれから受けるだろうショックを和らげるための自己防衛だ。
「まあ、その年で部長をなさってるんですか?」
 私の母が驚いたように目を丸くして言う。目をキラキラと光らせて、きっと彼女の脳内では安定した老後生活でも浮かんでいるのだろう。あからさますぎてげんなりする。どうしてこの人はそこまでに夢を見られるのだろうか。
「でもまだまだ、父には足元にも及びません」
 写真を見たときに抱いたイメージとはかけ離れた爽やかさで、博好さんは愛想笑いを浮かべる。その謙虚な態度が母には好印象をもたらしたらしく、うっとりとした表情に変わる。隣の私が恥ずかしいくらいだ。
「日代子さんは何かご趣味がおあり? この子は休みの度に外へ出て、家事の一つも手伝ったことがないんですよ」
 それは暗に、家事は何一つ出来ないが大丈夫か、との確認なのだろう。私は勝手にそう解釈して、ええ、と頷いて見せた。
「趣味は本を読むことくらいです」
「この子は本当に外に出ることが少ないんですよ。これを機に博好さんと一緒にスポーツの一つでもしてみたら良いんじゃないかしら?」
 母が、初めは彼の母親に、それから私へと顔を向けて言った。出た。とりあえず、の母の口癖。さすがにそんな軽い言葉をこの場で言うほどの精神は持ち合わせていないようだったけれど。それでも私は苦笑を隠せなかった。
 料理が出揃い、全て食べ終えると、レストランを出る。そこからはわざとらしく母親同士が声を掛け合って帰っていく。
「あとはお若い者同士で」
 何度聞いたか分からないセリフを満足げな笑みを浮かべて母は言ってのけた。ここからは、私の正念場だ。それは私自身がよく分かっている。全て見抜くのも、この時だった。
 一人目はここでさっさと帰って行ったし、二人目の時はホテルの部屋まで行ったが、手を出されることも会話を交わすこともなく恋人が現れた。
 母親二人を見送った後、博好さんが向き直って私を見下ろした。
「ココの部屋、取ってるみたいですよ。行きましょうか?」
――まずは、第一関門突破……か?
 私は頷いて、博好さんの後に続く。エレベータに乗って11階まで上る。部屋はエレベータから降り、右側の初めの角を曲がった1110号室だ。ポケットから鍵を取り出した博好さんがドアを開け、先に入れてくれる。なんだかドキッとしてしまった。
 部屋に入ったはいいものの、どうしたら良いのかは分からない。恋人が乗りこんで来る雰囲気は……今のところない。
 部屋の窓側にテーブルとソファがあったので、そこに腰を掛けてみる。ふと振り返るとスーツを脱ぎだす彼の姿が目に入った。
「な、何してるんですか?」
 驚いて尋ねると、博好さんは「うん?」と何の気もない返事をしてきた。
「結婚を前提とした男女が一つの部屋にいるんだ。やることは一つだろ」
 ……え。
 え?
「着物苦しくないか? さっさと脱げば」
 いや。
 いやいや。
 いやいやいや?
 これは、一体全体、どういう展開だろうか。
「……」
 呆然とする私が彼の目にどのように映ったのかは分からない。上着を脱いだ彼はシャツのボタンに手を掛けたところで止め、私と向き合うようにベッドの上に腰を下ろし、長い足を組んだ。ふんぞり返るその姿は写真で見たままのイメージで、やはりレストランの時に見せた爽やかな表情は愛想だったのだと確信した。そのことにどこかホッとする。きっとその態度に嘘がないからだろう。
「お前、まさかこの見合いを破談にするつもりなのか」
「まさか!」
 むしろそれは貴方の方でしょう。とは言えなかった。視線に射抜かれる、とはこのことなのだ。それ以上の言葉できないほどの威圧感を見られているだけで感じる。
「なら何が問題だ? 時間か?」
 時間。確かに問題だと言えば問題だ、主に私の心持ちが。まだ日も高い。会ってから2時間も経っていない、ということもある。だいたいこういうのは、何度かデートも繰り返して、致すものじゃないのか。というかお見合いだといってもすぐに結婚へというわけでもない。やはり会ってみてダメだと思う場合もあるのだから、両家へ返事をしてからだろう、フツウは。
「俺はお前が気に入った、それだけで充分だろう。一目惚れという言葉が存在するくらいなんだから、時間はさほど重要でもない」
 この人は、本気なのだろうか。
 アレだけの時間で、母親達が中心的に話していた中で、何がどうして私を気に入ってくれたのだろうか。
 今まで会った人との、どのタイプの人間でもなくて私は困った。表情で隠すということができないくらいには、困っていた。
「一目惚れしたんですか、私に?」
 馬鹿な質問だと我ながら思う。現に目の前の彼は眼鏡の奥の目を細め、眉根を額に寄せた。
「それは例え話だ」
「結婚するんですか、私と?」
「そのための見合いだと思っていたが」
 違うのか、と聞かれれば、私は首を横に振って否定の答えを示すしかない。
「他に、心に決めている人とか、いらっしゃらないんですか?」
「俺はそれほど多くの人間に感心がない。仕事関係以外は特に、だ」
「私との結婚は仕事がらみじゃないですよね?」
「お前の家のことはお前が一番よく知っているだろう」
 確かに。会社の社長と家族で付き合うほど、私の家は立派ではない。父はメーカー企業の係長で、母は専業主婦、妹はまだ大学生だ。
 そこまで答えて博好さんはふっと笑みを零す。口の端を持ち上げただけの醒めた微笑だった。
「そんなに俺がお前と結婚することが信じられないか?」
 答えに困る質問だ。
 私が信じられないのは、私に冷たくしない彼の態度とか、恋人が乗り込んでこない平和的な展開だ。けれどそれを正直に言ったところで理解してもらえないか、過去の私の見合い遍歴を哀れに思われるか、そんなところだろう。どちらにしろ良い気分はしない。
「なら、俺がお前を裏切らないと、信じてもらうしか手はないな」
「……どうやって、ですか?」
 一瞬見透かされたかと思った。顔が強張った。だが気のせいだとすぐに思い直す。
 東大卒のエリート令息だからといって、彼もエスパーではない。調べない限り私の過去を知ることはないのだ。
 ああそうか、とそこで思い当たった。もしかしたら事前に調べていたのかもしれない。どの仕事にであっても、大事なのは準備だ、と口を辛くして言っていた上司を思い出した。あれは新人研修で行なわれた講義の時だ。復唱させられ、ノートにも書かされた言葉だった。
「とりあえず、結婚してみろ。そして俺を見ていればいい」
――とりあえず。
 母の口癖が脳裏を駆けた。何事も「とりあえず」が肝心なんだから。
「とりあえずですか」
 口に出して言ってみる。ひどく簡単で、呆気ないことのように聞こえた。悩んで迷っている自分が馬鹿馬鹿しくなるくらいには、簡潔で分かりやすい手段に思える。
「ああ、とりあえずだ。試してみる価値はある」
 結婚に対して試すも何もないと思うのだが。それでも私には充分説得力を持った。確かに「とりあえず」でしてみるのも良い。ここまで本人が言うのだから、信じられるかもしれない。
「それじゃあ、とりあえず、その『お前』ってやめてくれませんか」
 すると彼は目を細めて笑った。暖かい、優しい微笑だった。
「分かった。日代子、とりあえず結婚してみろ」
 きっとこれがプロポーズなのだ。そう思うとおかしくて、笑ってしまった。
「とりあえず、してみます」
 そこから未来の話は、また別の物語になる。
 私は高鳴る鼓動に戸惑いながら、けれど、こんな始まり方も良いのかもしれないと思う。

≪ F I N. ≫

2010/02/21 up  美津希