Je t'aime

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 美形の転校生――なんてものは漫画の世界だけだと思っていた。
 ……彼が現れるまでは。

 新学期。新学年。それだけでも気持ちは高ぶり興奮醒めやまぬ状態になりやすいというのに、ある程度見知った顔並びの中に一人だけぽっかりと浮いている存在があった。
 誰もが彼を遠くから眺めて物珍しそうにしている。彼も彼で誰に話しかけるでもなく、ぼんやりと窓の外を眺めていた。その様はまるでどこかから写真を切り抜いたように絵になっていて、違う空気をかもし出していた。
「ねえねえ椿、あの人がそうかなあ」
 今年も運良く同じクラスになった彩芽が瞳をキラキラと輝かせてあたしの肩をバシバシ叩く。かなり強烈に痛い攻撃だが、彩芽の馬鹿力は今に始まったことではないのでとりあえず無視だ。
「そうだと思うよ。見たことないし。皆も同じ反応だし」
 ぐるっと見回してみても間違いなく、男子も女子も関係なく彼に注目している。中には早く教師が来ないか何度も廊下を覗くクラスメイトもいて、それでも彼に話しかける人間がいないのはどこか滑稽だ。そう分析するあたしも勝手に座っているこの席から動くつもりはない。わざわざ目立ちに行く勇気もないし、ただ人見知りするっていうのもある。
「あっ、先生来た!」
 誰かの声でガタガタと騒がしく一斉に席に着く。それでも彼はやはりどこかの写真の切抜きのように動かず、彼の回りだけがゆっくりと時間が流れているようだった。
 教室に入ってきたのは去年あたしの担任だった先生だ。前の席に座る彩芽がこっそりとこっちに顔を向けて「ヤッタネ」と口を動かして笑った。彩芽が大好きなこの先生は40そこそこの女の先生で、雰囲気が何となく母親のイメージに繋がる人だ。あたしの母親とは全然タイプが違うけど。
「あら、このクラスは随分と静かね。それとも今日だけかしら」
 生徒達の好奇心を疼かせている原因を知っている仕草を見せながらそんなことを言うこの先生は、あたしも結構好きだ。だけど担当教科が数学でなかったらもっと好きになっていたと思う。
「とりあえず出席取るわね。名前を呼ばれたら返事をして、番号を確認してください。全員の出席を取り終えたら窓側から順番に座っていって。そこが今後自分の席だということにするから。それじゃあ1番――」
 一人一人の名前を番号と共に呼んでいく。次々と返事をしていく中でやはり皆の視線はちらちらと彼に向けられていた。いつ呼ばれるのだろう、いつ呼ばれるのだろう、とそわそわとしだすのは一人や二人ではない。
「30番、藤崎椿さん」
「はい」
「31番、藤崎大和くん」
「はい」
「32番――」
 一瞬にしてざわっとどよめきが起こったのは、決してあたしの苗字が珍しくも重なったからではない。あんまり聞かないけれど特別珍しがるような苗字でもないから“藤崎”が二人いるからってこんなにざわつかない。
 返事をした“藤崎大和”が“彼”だったからだ。

 出席順に座り直すと、今度は自己紹介が行われていった。最初に先生の簡単な自己紹介を聞いて、そのあと後ろから順番に生徒達が自己紹介をしていく。普通は1番からやるんだろうけれど、この先生は安易にそういう決め方をしない。最初に四隅の席に座る4人にじゃんけんをさせて、負けた所から始めるというやり方を提案した。そこで40番の山本さんが負けたのだ。
 もう私たちは3年なのでほとんどの顔を知っていると言っても過言ではない。だから自己紹介なんて無意味に近いのだけど、それでも真面目にするのは皆の性格とかではなくて、ただ彼――藤崎大和の自己紹介を聞きたいがためだろう。山本さんを筆頭に口早に名前と所属クラブと趣味を言って席に着いていく。中には特技や他に一言を付けて笑わせてくれる素晴らしい人もいた。
「じゃあ、次は、藤崎君」
 先生に呼ばれて「はい」と立ち上がる。席は当然だけど私の真後ろで、だから私は振り返ってまじまじと彼を見上げるなんてできずに声だけを聞くしかなかった。少し残念に思うのは仕方ないだろう。
「藤崎大和です。ヤマトと書いてヒロカズと読みます。なので前の学校ではヤマトと呼ばれてました。できればここでもそう呼んでくれたら嬉しいです。部活は特にしてませんでした。1年だけですがよろしく」
 あまりに綺麗な言葉を話すので、それまでは機械的に起きていた拍手もしばらくできなかった。先生がパチパチと手を叩いて初めてやっとまばらな拍手が起きた。彼が話す言葉は文法が綺麗とかじゃなくて、声の調子やゆっくりとしたテンポがそう感じさせるのだと思う。
「それじゃあ次は女の子の方の藤崎さんね」
 僅かに笑いを誘いながらあたしの番がやって来た。わたわたと立ち上がってクラスを見渡す。視界の端で彩芽が手を振っていた。
「藤崎椿です。文芸部です。趣味は読書です。よろしくお願いします」
 軽く頭を下げると耳にかけていた髪がパサリと落ちた。
 ありきたりな言葉はあたしにぴったりだと思った。