Cette Place

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 日差しはすでに弱まって、東向きの窓からは薄紫色の空が顔を覗かせていた。部屋の電気をつけて携帯電話を片手にダンボールを片付け始める。
「――うん、今終わったところ。――まだ分からないけど……、うん、椿ちゃんも頑張ってね。――うん、じゃあね」
 藤崎大和は電話を切ると引越しの片付けに本腰を入れようと大きく背伸びをした。
 入居日はぎりぎりまで待って3月の下旬にした。早く家を離れたかったが、少しでも長く恋人との時間を過ごす方を選んだからだ。
 大和には同じ年の恋人がいる。藤崎椿というのが彼女の名前で、苗字は同じだがまったくの他人だった。椿は内気な少女で、大和が彼女と付き合えるようになったのも、ひとえに彼の押しの強さがあってこそだ。大和は椿に一目惚れだった。この春から遠距離恋愛になってしまったけれど、大和には言葉にできない自信のようなものがあった。少なからずすれ違いはあるかもしれないが、自分さえ繋ぎ止めておけば大丈夫だ、と。何がどう大丈夫なのかは分からないけれど、椿が離れていくことは考えなかった。裏を返せば考えたくなかっただけなのかもしれないが。
 頻繁に会えない分、大和の中で椿が占める割合は日に日に大きくなる予感がしていた。
 築3年のまだ新しいこのアパートには、大和の叔父の計らいによって住めることになった。大学から二駅、最寄の駅まで直線距離で5分の所という、有難い立地条件のこの場所は、かつて同じ大学に通っていた叔父だからこそ見つけられたのだろう。叔父自身もこの辺りに住んでいたと言うのだから間違いなかった。それにこの部屋は突き当たりにあるため、窓が東側と南側と、二つあるところも良かった。
 部屋の外で足音が聞こえた。カツカツ、とヒールの音が部屋の前を通り過ぎ、すぐに止まる。距離からして隣の部屋の住人が帰ってきたのだと分かった。時間を見て、大和はテーブルの上に置かれた菓子箱を一つ紙袋に入れると、部屋のドアを開ける。足音の主はすでに部屋の中へ入っていったらしく、アパートの廊下には誰も居なかった。
 玄関に表札は出ていなかったので、隣の住人の名前は分からない。郵便受けに部屋の番号と名字が書いてあるので行けば分かるだろうが、わざわざそこまでする必要はないように思う。大和は少し緊張した面持ちでインターホンを鳴らした。ピンポン、と短い呼び出し音が響く。
『はい』
 靴音からなんとなく予想はしていたが、やはり隣の住人は女性だった。機械越しだからか、少しくぐもった声がする。
「隣に越してきた藤崎です。一応挨拶をと思って伺ったんですけど」
『あ、ああ、はい。今出ますね』
 女性がそう言って受話器を置いた後すぐにドアの鍵が開く音がした。出てきたのは小柄な体格の人物で、小さな顔に大きな瞳とぷっくりと厚みのある唇が特徴的な、いわゆる可愛いタイプの女性だった。長い黒髪を後ろにまとめていて、活発そうな雰囲気も好感が持てた。
「どうも、藤崎です。これ、詰まらない物ですが」
 大和が持ってきた紙袋を渡すと、彼女は嬉しそうに笑顔を作り、それを受け取った。
「まあ、そんな、ありがとうございます、わざわざ」
 ふとそのイントネーションに違和感を抱き、知らぬ間に「あれ?」と呟いていた。彼女もそれに気づき、しかし特に改まった様子も見せずにくすっと肩を上げて微笑んだ。
「うち、日高望っていいます。大阪から来てるんです」
 滑らかな関西弁が彼女に似合っている。ああ、そうなんですか、と大和も微笑んで頷いた。
「僕もこの土地の人間じゃないんで、いろいろと教えてくださいね」
「もちろんですよ。って言ってもうちもこのアパートに来て1年なんで、近所のことしか分かりませんけど」
「もしかして、大学生ですか?」
 少し驚いて大和が聞く。まさか高校生で一人暮らしはないだろうと思っていたが、小柄なためか彼女の顔も心なしか童顔で、とても年上には見えなかった。望自身もよくされる反応なのだろう、くすっともう一度笑う。
「よく言われます。こう見えてもM大の2回生なんですよ? あ、こっちでは2年生って言うんやっけ」
 今が大学の2年生ということは、来春で3年生。大和より2つも年上ということになる。この顔で成人とはあまり思えなかった。
「へえ、じゃあ僕の先輩ですね。僕も今度M大に入るんです」
 すると今度は望がその大きな目をさらに大きく丸くした。
「や、うちより2つも年下なん!? えらい大人っぽいんやねぇ。綺麗っていうか、芸能人みたいやわぁ」
「ああ、はあ、そうですか?」
 望の反応は今まで経験がなかったのでどう答えればいいか分からず、困ったように笑う。確かにカッコイイと言われたことは何度かあったが、綺麗だの芸能人みたいだのと表現されたのは初めてだった。そんな大したものではないのだが、と逆に恐縮してしまう。
「まあ、学校でも会ったら声掛けて下さいねぇ」
「こちらこそ、これからよろしくお願いしますね」
 お互いに軽く頭を下げ合う。ふふっと望が笑って、ドアが閉まる。
 途端に体中の力が抜けるのが分かった。一気に緊張が解けた瞬間だった。
――良かった。普通に話せた。
 そして先ほどまでの会話を頭の中で反復し、おかしなところはなかったと確認する。
 大和は人見知りをする性格ではなかった。むしろ人懐こいところがあると自覚している。初対面の相手に対してもなんの隔たりもなく付き合えると思っているし、今までもそうだった。けれど今回は勝手が違った。相手が美人だとか、そういうことではない。きっとしばらくはこの緊張感を持ちながら人と付き合っていくのだという事実が待っているのだ。
 初めて、かもしれなかった。素ではない自分を築き上げていくのは、素であるように築き上げていくのは、こんなにも疲れることだったのかと実感した。けれど、これで良い。誰も今までの自分を知らないからできるのだ。
 咄嗟に出てきた一人称「僕」と、口の中で何度か転がし、大和はようやく自分の部屋へ戻る。
 ドアを閉めた瞬間、体から崩れ落ちた。ドクドク、と心臓がうるさい。
 手が僅かに震えていた。けれど隣の彼女には気づかれてなかったはずだ。
 そして大和はまた携帯電話を手に取ろうと立ち上がる。ついさっきも話したばかりだが、今はどうしようもなく声が聞きたくなった。
 愛しい恋人の声が、大和の中で足りなくなっている。そんな気分だった。