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大学の良いところは自分自身で時間割を決められるところだ。だから人によっては1,2年でぎちぎちに詰めて3,4年で楽をしようとする者と、4年間均等に振り分けて上手く時間を使う者もいる。もちろん1,2年に楽をしすぎて後で辛い目をする者も少なくはないだろう。
「って、なんだこれ!? ほとんど必修で埋まっちまうじゃん」
オリエンテーションで配られた1年次の時間割を広げて、隣の席に座っていた千田尚志が不満の声を上げた。大和も彼の意見には賛成だった。取るべき講義に印を付けていけば、あっという間に1週間の1時間目から5時間目までのコマが埋まっていく。どれだけ楽をしてもきっちり週に5回は学校へ来なければならないようになっている。もちろん必修科目だからといって2年次に回せば今年は取らなくても構わないのだろうが、後で痛い目を見るのは確実だった。
「しかも5時間目なんて夜の6時までだぜ? 高校でも4時には帰れたってのに。なあ、ヤマト?」
「うん、まあ、そうだね」
これでサークルに入ったりすれば、家に帰るのは間違いなく9時を超える。貴重な椿との電話の時間が短くなるのは目に見えて分かった。思わずため息が出る。
しかし仕方ないことだ。大学は時間が自由に利くとはいってもやはり学校なのだ。資本は勉学である。椿も内容は違っても同じ大学で頑張っているのだから、自分も頑張らねばと思う。
「とりあえず食堂に行かない? 食べながらゆっくり決めようよ」
大和の提案に、未だ時間割を睨み付ける尚志も自分の腹の調子を見て、それもそうだなと頷いた。
千田尚志とは入学式のときに隣の席になったことがきっかけで話すようになった。まだ誰が同じ学科の学生か覚え切れていないうちに一人二人と友人を作っていくのは、クラス制ではない分やや難しいように思っていたので、尚志から話しかけてきてくれたことは嬉しかった。どことなく高校時代の友人である森岡修司を思わせる雰囲気の彼は、大和にとって親近感を持たせる人物だった。
本当は大学に入ってまで、というか地元を離れてまで“ヤマト”と呼ばせるつもりはなかった。今までのヤマトである自分とは決別しようと思っていたのに、それは呆気なく失敗に終わる。その時のことを思い出すと苦笑しか浮かばなかった。
「名前、何ていうの? 俺は千田尚志」
「ア、僕は、藤崎ヒロカズ。よろしく、千田?」
「おう。ヒロカズってどんな字?」
その一言で嫌な予感はしていたのだ。
「ええと、ヤマトナデシコのヤマトで……」
「へえ。じゃあヤマトな。俺は和尚のショウにココロザシでヒサシ。だからヒサシって呼ばれてたんだ」
ヒサシのイントネーションが軒の意味である“庇”になっていて、大和は思わず笑ってしまった。学長の挨拶が終わったばかりの静粛な場面であったにもかかわらず、くすっと噴出してしまったのだ。尚志もにやっと笑う。
「いや、僕は千田って呼ぶよ」
「そうか? まあ何だっていいけどさ」
そこで尚志もヤマトと呼ぶことを止めてくれればよかったのだが、それを言ったところでなぜと突っ込まれても面倒なので、大和は何も言わなかった。そして今に至る。ヤマトと呼ばれていつ自分が素の姿を見せてしまうか分からない危ない状態になっていることを、その夜少しだけ後悔した。一晩明けてからは、慣れるしかないと前向きに考えるようになったので、少しの緊張感だけを唯一保っていた。
混雑する食堂の、一番端の席を二つ取って再び時間割表を広げた。そこにはびっしりと履修できる講義名が一コマ辺り五つ以上並んでいた。もちろん、学年によって取れないものも並んでいるのですべてを選択できるわけではないのだが、一つに絞るだけでも目が疲れそうな勢いだ。
「とりあえず必修はこんなもんか。あとは空き時間をどうするかだな」
近くのコンビニで買ってきた昼ごはんであるおにぎりを頬張りながら、尚志がマーカーを置いて一息つく。一つの講義が90分なので、開いたその時間に選択講義を入れるか、そのまま開けておくかが悩みどころである。さて、どうすれば効率よく過ごせるのだろうか。
二人して時間割表と睨み合っていると、不意に隣から声がかかった。
「あの、もしかして法学科の1年生ですか?」
振り向いて見れば二人の女子学生がおずおずとこちらを伺っている。声を掛けてきたのは手前にいるショートカットの彼女らしい。少し頬を赤らめて大和と尚志を交互に見つめている。
「そうだけど、君達も?」
返事をしたのは尚志だった。人好きのする笑みを浮かべて聞いてみると、彼女達も少し見合った後、遠慮がちに頷いた。
大和は二人の反応を見て、そういえば尚志もモテるタイプの顔立ちをしているんだったということに気づいた。短く切り上げられた髪型が似合う細く小さな顔。目は小さいが鼻筋は通っていて、なるほどタレントによくいそうな作りの顔である。
「火曜日の3時間目、良かったらあたしたちと一緒に教養数学、取りませんか? あたしたち、数学って苦手なんで、誰か知ってる人が居たら心強いかなって」
ねっ、とショートカットの子が後ろにいるノーフレームの眼鏡を掛けた子に同意を求めれば、うん、と相槌を打つ。
ただの口実だろう、と思った。いくら数学が苦手とはいってもこの大学に入れたということは、最低限の応用くらいはできる力を持っているはずである。それを敢えて無視してあげることが男子としての礼儀なのかもしれなかったが、大和はなんとなく気に入らなかった。椿ならそんな計算的行動を取るはずがないからだ。もし椿が一緒の大学だったなら、自分から無理にでも一緒の講義を入れさせていたかもしれない。そんなことが容易に想像できて、大和はなんだか可笑しくなった。そんな非現実的な想像に意味はないのに。
「ふうん、教養数学かあ。どうする、ヤマト」
尚志は自分の印がついた時間割に目をやって、隣の大和の時間割表と見比べて聞いた。尚志のところには日本政治思想史にラインを引いてある。もともと彼はそれを取るつもりにしていた。
「そうねぇ、ア、僕は……」
大和は自分の時間割表を見て残念に思った。まだそこは決めておらず、どこにも印をつけていなかったのだ。
「どうせ4時間目は必修の民法Tでみんな一緒なんだし、取らないですか?」
ショートカットの子はここぞとばかりに力強く言ってきた。それでもなかなか答えを返さない大和の代わりに、尚志が頷いた。
「まあそうだよな。どうせ2時間目も必修なんだし、昼も一緒に食べれるよな。そうしようぜ、ヤマト」
「うわっ、本当? 嬉しい!」
「ありがとう!」
大和は曖昧に笑みを浮かべて、確かにその通りだよな、どうせ他に取りたいものもなかったわけだし、と尚志に同意するように頷くことにした。
「あ、あたし坪井麻耶。この子が坂口良子。よろしくね!」
ショートカットの彼女、坪井麻耶がますます頬を赤く染めて興奮した声で言った。
「おう。俺は千田尚志。こっちがヤマト」
「やまと、くん?」
坂口良子が小首を傾げて大和の方を見る。
「ああ、うん、藤崎大和っていう名前なんだけど、ヒロカズを漢字で書くとヤマトだから」
言いながら大和は、どこか彼女が椿に似ているように感じた。そのおっとりとした大人しい雰囲気が似ているのかもしれない。椿もあまり前へ出てしゃべるタイプではないからだ。尤も大和にしてみれば椿の方がずっと可愛く思えるのだけれど。
そしてやはりここでも自分を呼ぶ名前はヤマトなんだな、と落胆にも似た重い何かが胸につっかえる感覚を抱いた。