Cette Place

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 駅からアパートとは正反対に位置する大型スーパーで食材を買い込み、踏切を渡って帰宅する。電器屋もコンビニも商店街も、主な店はほとんどがアパートとは反対の位置にあるので、大学へ通うには好条件だったが生活をするには少々不便なのだとようやく気づいた。だから駅から近いにもかかわらず一番値段が高い突き当りの部屋でも5万そこそこの家賃で済むのかと思う。
 大和が片手に袋を提げてアパートに戻ると、ちょうどすれ違う形で見知った小柄な女性と知らない男が出てきた。女性の方は大和の部屋の隣に住む日高望だった。男が彼女の肩を抱いて大和の横を通ったので、おそらく望は大和に気づいていなかっただろう。望の容姿から見てもそりゃあ彼氏くらいいるよな、と納得する。男の方もしっかり着飾って今時の感じがする格好だった。純情そうな望にはやや不釣合いな感じもあったが、大和には関係のないことだった。
 料理は昔、祖母の手伝いをさせられたことが多々あって、別段苦手ということはなかった。女の子なんだから料理くらいできなくては、というのが祖母の考えで、戸惑う母を背によく包丁も握らされた。その祖母のせいで母は自分から離れ、大和も大和で女言葉を無くそうと必死になっているというのに、祖母のおかげで一人で暮らせる力は身についているというのは複雑な気持ちだ。思えば掃除も洗濯も、母の手伝いとしてはやったことがなく、全て“女の子”として祖母が彼に教えたことだった。
 キャベツを千切りにしながら、ふと昨年の受験のときのことを思い出した。家を出たいのだと担任の教師に伝えたときに言われた言葉だった。
「詳しいことは分からないけれど、どんなに出たいと思っている家でもそこに家族が居ればいつかは帰らないといけない場所だから、大切にしなさい。今の藤崎君を見ていると家を捨てたがっているように思うけど、そんなことはしてはいけないし、できないことなんだから。離れていても一生懸命思い出して、大切にしなさい。それを約束してくれるなら先生と一緒に、入りたい大学を土地に関係なく探しましょう」
 そしてまた、出発前に弟の真に言われた言葉も同時に思い出した。
「――帰ってくるよな?」
 当たり前でしょ、と答えたが、本当はそんな気はなかった。真には悪いけれど、できるならあの家には戻りたくない。
 大和にはまだ担任の言った言葉の意味がよく分からないでいる。どうしてあの居心地の悪い場所を大切にしなければならないのだろう。母親はまるで大和の存在を無視し、その愛情を真へ一心に向けている。もう母親の愛情を独り占めしたいほど幼稚な感情は抱いていないが、存在をまったく無視されるのは痛い。まるで学校の中で行われるいじめと何も変わらない。父親はそんな母に注意することもなく、大和の支えになるような言動を起こすわけでもなく、ただ波風を立たせないように上手く空気に溶け込んでる。弟の真はそんな両親に嫌気が差し、大和を兄として慕ってくれているが、大和にはそんな真が重く感じた。自分に近づけば確実に母親の機嫌が悪くなり、その矛先は必ず大和へ返ってくるのだ。だからといって慕ってくれる弟を邪険にできないので、余計につらかった。
 大和の帰る場所はもう決めていた。椿に出会ってからずっと、帰るなら彼女のもとでしか考えられないと思った。なのにどうしてあの家を大切にしろと言うのだろう。きっとたぶん、担任との約束は守られることはないだろうと思う。
 野菜を炒めた鍋に卵を掛ける。卵が固まるまで蓋をし、弱火にして待つ。もう少ししてこれをご飯の上に掛ければ卵野菜丼の完成だ。
 そこへ携帯電話の着信音が鳴り響いた。大和はコンロの火を止めて電話に出る。
『もしもし、大和くん?』
 椿だった。嬉しさに思わず胸が苦しくなる。彼女からの着信は珍しかった。何かあったのだろうか。
「うん、アタシ。どうしたの?」
『ううん、特に何もないんだけど。……今、大丈夫?』
「全然、椿ちゃんからの電話ならいつだって大丈夫よ。ただ珍しいなって。ほんと、嬉しい」
 少し不安そうな声が聞こえ、大和は慌てて言った。全て本当のことだ。たとえ何があろうとそれが椿からの電話なら躊躇いもなく取ることを選ぶだろう。
「大学はどう? 友達はできた?」
 自然と自分の声が変化したのに気づく。自覚するほど、椿相手では自分はこんなにも変われるのだ。それがなぜか心地よかった。
『うん、あのね、一緒にサークルに入ろうって言ってくれる子がいてね、』
 嬉しそうに、楽しそうに話す椿の声を聞きながら、ああこれが言いたくて電話してきてくれたんだな、と分かった。やはり大和の表情もつられて笑顔になる。椿には不思議なくらい大和を共鳴させる能力を持っている。椿が楽しければ大和も楽しくなるし、椿が悲しければ大和も悲しく、そして彼女をそうさせたものにひどく憤りを感じる。きっと椿がいなければ自分自身の感情が貧相なものになるのではないかと思うほど、彼女はさまざまな感情を抱かせてくれて、それがとても気持ち良い。
 そしてもう一度思う。やはり帰る場所は椿が居る場所でなえれば意味がないのだ。


 入学して一週間は各講義のオリエンテーションだ。早いところはすでに通常講義を行っているが、だいたい専門教科や選択教科は2回目から通常講義に入る。履修登録もオリエンテーション後が締め切りなので、学生も教師の方も割とのんびりとしている。
「あの、法学科の人、だよね?」
 講義の概要の説明が終わると早々に教師が出て行き、次の講義まで30分ほど時間が余った。その時間で尚志と大和が履修する講義を選んでいると、前の席から声を掛けられた。数人グループの女子学生だった。
「そうだけど?」
 尚志が顔を上げて答える。今の時間は法学科1年の必修科目だからだいたいは法学科の学生である。正直、尚志も大和も「またか」という気持ちだった。食堂で麻耶と良子に話しかけられ、よく話すようになってからたびたび二人はいろんな学生から声を掛けられるようになった。それのほとんどが女子学生で、今のところ男子学生との交流の方がはるかに少ない。
「あたしたちも法学科なんだけど、コースってもう決めた?」
 法学科ではいくつかのコースを選択できる。コースを選択しなくても単位さえ満たしていれば卒業はできるが、より専門的な知識を身につけたと目に見えてアピールできるので、コースの履修をする学生は多い。その学生のほとんどが複数のコースを履修する。
「一応俺は政治と経済、できれば教職もって思ってるけど」
 尚志がにっこりと答えると彼女達は次に大和の方へ視線を向けた。大和は困ったように笑みを見せるしかない。
「ア、僕も政治と経済は取るかな」
「教職は取らないの?」
「教師になるつもりはないし、取ったところで単位には入らないからね」
「そっかぁ。でも取れる資格は取っとくって考えもあると思うけど」
「まあ、人それぞれだよね」
「あ、だよねぇ。ありがとう」
 そういって去っていく彼女達を見ながら、尚志は大和の肘を突いた。
「ありゃ、ヤマト狙いが8割ってとこだな」
「そうかな。先頭の子は千田狙いだったと思うけど」
 よく女子から声を掛けられるようになって、二人は次第に彼女達をこんなふうに評価するようになった。今のはヤマト狙いだ、千田狙いだと言い合って遊ぶのである。大半はその通りで、後でまた同じように声を掛けられる。この言い合いに特に意味はなかった。
「おーおー、あたし達の後に続けって子がいっぱいいますねぇ」
 不意に後ろからそんな声がした。
「麻耶に坂ちゃん! これ取ってたならこっちに来れば良かったのに」
 振り返れば麻耶と良子が立っていて、麻耶は満足げに微笑んでいた。さきほどの彼女たちのことを言っているのだとすぐに察しがついた。確かにその通りなのだろう。麻耶と良子も狙って彼らに近づいた口なのだった。
「なんか女子の目が怖かったから。二人は次、何取るの?」
 麻耶は尚志の後ろに、良子は大和の後ろに向き合うようにして座った。ちょうど段差のある席で、尚志たちが麻耶たちを見上げる形になる。
「俺は少年法T、ヤマトは憲法Tだってさ」
「じゃあ尚志はあたしたちと一緒だ! あたしと良子も少年法Tなんだ。憲法Tはその次の時間にしようと思って」
 ねっ、と麻耶が良子を見れば、うん、良子が頷く。
「ヤマトくんは少年法Tは取らないの?」
「ア、僕は月曜の1時間目に取るから。千田は1時間目は極力入れないようにしてるらしいけど」
「だって朝イチってダルいだろ? な、麻耶?」
 麻耶も同じ理由だろう、という意味で尚志が視線を彼女へ向けるが、麻耶はにやりと笑う。
「尚志と一緒にしないで。あたし達は月曜の1時間目に地域社会論を取るから無理だっただけよ」
 とたんに尚志が信じられないという眼差しで彼女達二人を見る。
「なんで必修でもない教科を1時間目から取ってんだよ!?」
「面白そうだったからに決まってるでしょ。ねっ、良子」
「うん」
 良子にもにこりと微笑まれて、尚志はますます信じられない、という表情をした。大和はそれを見てくすくすと笑う。彼らと一緒に居ることが楽しいと思えた。