Cette Place

4


 尚志たちと別れて一人、大和は本館1階にあるC教室へと入る。2枚重ねの黒板を前にして段々に机が並べられた大教室で、だいたい200人くらいは入るほどの広さだ。大和は適当に廊下側の席に座った。開始までまだ数分あるが、既にほとんどの学生で席は埋まっていた。
「隣、いい?」
 声を掛けられて、大和は荷物をずらした。ありがとう、というその声に聞き覚えがあったので顔を上げてみれば、やはりそうだった。
「あれ、日高さん?」
 相手もそれでようやく気づいたようだった。同じように驚いた表情をした。
「藤崎くん。そっか、同じ大学って言ってはったもんね」
 望はにっこりと微笑んで席に座った。なぜ3年生の彼女がこの講義を取っているのだろうと不思議に思った。望は大和の考えに気づいたように、自分から話し出した。
「憲法Tって教職の単位に必須なんよ。うち、教職取ろう思うたの2年の時やったから、今必死なん。良かったら教えてな?」
 ふふっと笑う望に、大和も「僕で良かったら」と微笑み返した。望の関西特有のイントネーションはなぜか心地よく耳に響く。彼女の柔らかな雰囲気が声に優しく表れているからなのかもしれないと思った。
「日高さんは学部はどこなんですか?」
「うち? 文学部の国文学科」
 椿も文学部に行ったと聞いていたので、なんとなく親近感を覚えた。椿も同じような名前の学科だったと思うが、詳しくは知らない。今度聞いてみようと考えて、そういえば椿も教職を取れる学校だったろうかと記憶を辿る。教育実習はきっと母校になるだろうから、上手くいけばそこで会えるかもしれない。約2週間毎日のように会えるなら、教職を取るのも悪くはないかもしれない。
「藤崎くんはどこの学部?」
「法学部です。だからこれも必修科目で」
「あ、敬語は使わんでええよ。へえ、でも、そっか。見た目もカンペキやのに頭もええんやね。うちの彼氏もS大の法学部なんよ」
 ふと先日のことを思い出した。望は気づいていなかったみたいだが、その彼氏であろう男と一緒にアパートから出て行くところをすれ違ったのだ。S大もそこそこ名の知れた大学だが、望と並ぶには不自然なほど派手な服装からは、あの時の男がそこまで学績のある学校に通うほどの人物とは思えなかった。人は見た目ではないということだろう。
「彼氏とは長いんですか?」
「だから敬語はええのに。まあでも、長いって言えば長いんやろうな。離れたり引っ付いたりで1年くらい」
「へえ」
 大和はもう一度先日すれ違っただけの男の姿を思い浮かべた。確かに彼なら浮気の一つや二つはしそうな感じである。それでも完全に離れきらないのは、やはり望はあの男のことが好きなのだろう。それは他人がとやかく言うことではないのかもしれない。

「サークルとかは決めてるん?」
 講義が終わってノートやプリントを片付けていると、望が横から尋ねてきた。大和はそういえば自分はあまり考えていなかったなと気づいた。昨日椿からサークルに入るのだと聞いたときも、自身が入ることは何も考えていなかったのだ。ただ楽しそうに話す彼女の声だけに体も心も満たされていた。
「良かったらうちのサークル、覗いていかへん?」
 望は小首を傾げて大和を見上げる。その口調はどこか有無を言わさない雰囲気を出していた。大和は自分の組んだ時間割を頭に浮かべる。残念なことに尚志たちと違ってこの後の授業は何も取っていない。結局大和も同じように小首を傾げて曖昧に微笑んだ。

 望に連れられてやってきたのは本館の西側に位置する4階建ての建物、音楽館だった。といっても全てが中学や高校のような音楽室になっているわけではなく、1階にはピアノ室の他に生涯福祉学部の学生が実習で使用する多目的室や講義用の大教室も並んでいるし、吹き抜けの螺旋階段を上がった2階には生涯福祉学部の教授や准教授たちの研究室が並んでいる。
「新入生連れて来たよ!」
 そう言いながら望みが入ったのは音楽館3階の小教室だった。壁に向かってパソコンが数台と、中央に黒板の方を向いて机が数列整って並べられている、まさしく小さなこじんまりとした普通の教室である。そこには既に数人の学生が思い思いに雑談をしたりパソコンを立ち上げてネットサーフィンやレポートの作成などをしていた。望の声に振り返った一人が、大和の姿を見つけて「でかした、日高!」と立ち上がる。
 彼は茶色く染めた髪に黒縁眼鏡、春だというのに分厚い緑色のセーターを着た長身の男だった。望を呼び捨てにするあたり、3年生か4年生なのだろうと推測する。
「ようこそ地球環境研究会へ! 君は自然環境に興味があるのかな。それとも人間社会? 今は地球温暖化が流行なんだけれども、やはり君もその口かい?」
「はぁ……?」
 いきなり早口に捲くし立てられ、大和は呆気に取られた。地球環境……、なんだ、それは? 大和は森林伐採も水害も温暖化にも、さして興味を持っていない。確かに今の時代、世界単位で最も議論されるべき深刻な問題であることに違いはないのだけれど。
 助けを求めるように隣にいたはずの望を探せば、いつの間にか目の前の男の方へと移動していた。少し肩を竦めて、目で謝っている。どうやらこの男の反応は既に予測済みだったようだ。
「東原くん、実はまだ何も言ってへんねん」
 望の言葉に彼は後ろにいた彼女の方へ振り返る。
「何もって、何も?」
 望は黙って頷く。彼は少し眉を額に寄せた。
「彼はここが地球環境研究会のミーティング場所だと知って来たわけじゃない、と?」
「そう」
「彼は地球環境に興味を示していたわけではないのに日高が勝手に連れて来た、と?」
「その通り」
 とたんに、東原と呼ばれた男は肩を落とし、近くの机に手をついた。あからさまな落ち込みように大和はさらに驚く。
 望はそんな彼の背中にそっと手を当て、なだめるように軽く摩った。
「せやかてな、そんな贅沢言ってたら誰も集まらんやん? 現に去年はそれで3人しか集まらんくて、半年で2人も辞めたやん。こうなったら手段は選ばれへんよ」
 望の言っていることは東原としても十分理解していることだった。だからすぐに姿勢を正し、気を落ち着かせ、ずれた眼鏡を中指で押し上げる。
「そうだな。とにかく今は部員を一人でも多く集めることが優先すべき課題だと、前回のミーティングでも言っていたことだし。まぁとにかく、君が日高に惹かれてここへ来たのも何かの縁だ。共に頑張ろうではないか」
 差し出された手を見つめ、大和はその空気に呑まれていく感じを覚えた。大和が手を出さない限りいつまでもそこにあり続けるだろう東原の右手に、大和はとうとう観念した。確かにこうなってしまったのも何かの縁があるのだろう。そう思うことにした。かなり無理やりな言い聞かせであると自覚していたが。
「でも日高さんが地球環境に興味があるとは思わなかったな」
 東原と握手をした後、小躍りして喜ぶ彼を背に大和は望に言った。それが素直な感想だった。彼女には爽やかなテニス部の方がよっぽど似合っている気がした。
 大和のそれに、望はくすっと微笑んで事も何気に答える。
「だって、東原くんオモロイもん。あんなキャラがおるサークル、オモロイに決まってるやろ?」
 確かにその通りだと思った。