Cette Place

5


「キャンプ?」
 大和は眉を寄せて険しい表情を作った。けれどそれに気づくはずのない椿は、なおも楽しそうに続けた。機械越しとはいえ声が弾んでいることは明白で、息づかいでさえも違うように聞こえた。その小さな変化さえ気に食わない。
『うん、学校主催の親睦会みたいなもので、1回生は絶対参加なんだって。出席も取るらしいし。だからその間はこうして電話とかできないと思うんだけど……』
 面白くない、と思った。どうしてわざわざそんなことを学校が企画するのだろう。学生同士で個人的にやればいいではないか、とも思う。もちろん、単にそれが主体の行事でないことは、他校の学生である大和にも分かることではあるが。それにしても面白くない。
「いつからなの? その親睦会は」
『んと、明後日から、かな。来週には講義も始まるし』
「ふぅん」
 それを聞いたところで大和にはどうするということもない。ただ憂鬱になる期間を聞いただけである。
 大和は気を取り直して昼間気になったことを聞くことにする。
「そういえば椿ちゃんはもう講義、どれを取るとか決めた?」
 昨日の電話で椿の通う大学もだいたい同じように時間割を決めるのだと聞いていた。大学はどこも同じようなものらしい。
『うん、一応は』
「教職は? 取るの?」
『きょうしょく?』
「うん。教職。教育職員養成課程。教師になる資格のやつ」
『ああ、ううん、取るつもりはないけど。大和くんは取るの?』
 そうか、取らないのか。少し残念な気もしたが、自分もそもそも取るつもりはなかったのだと思い出す。
「ううん、取らないわ。ちょっと聞いてみただけ。そうそう、アタシもサークルに入ったの。ふふ、どんなトコだと思う?」
 電話の向こうで「うーん」と椿の考え込む声が聞こえる。椿との間に流れる沈黙は、不思議と嫌な気分にならない。それさえも楽しめてしまうのは、相手が椿だからだと思っている。尚志や麻耶との間に沈黙があればきっと落ち着かないだろうし、それは彼らにしてもそう感じるのだろうと思う。そういう意味でも椿は自分にとって特別なんだと実感するのだ。
 ああ、でも――と、大和は考え直した。望や良子相手ではどうだろうか。二人からは椿と同じ雰囲気を時々感じるのだった。
『体育会系の部活?』
 少し困った声も可愛らしい。大和はもう一度ふふ、と微笑んだ。
「ううん、文化系よ。地球環境研究会。超マニアックでしょ」
 大和が言うと、意外だと言わんばかりの驚いた声がした。予想通りの反応で面白い。当然、この反応をしたのは椿だけではなく、尚志や麻耶、良子に至ってもそうだったので、逆に驚かれない方が不思議なほどだと思う。
『なんでまた、そこに?』
 この質問も尚志にされたものと全く同じだった。だから大和もそのとき答えた言葉をもう一度選んだ。
「美人な先輩に誘われたから」
『え……』
 椿の声が硬くなる。それは尚志の反応とは正反対のものだった。彼は大和の答えに食いつき、案の定彼も地球環境研究会の一員に自ら名乗り上げた。そしてその場に居た麻耶と良子も道連れにし、大和の思惑通りの展開になったのだが、まさか椿も同じ反応はしないだろうと思っていた。だから大和は次の言葉もちゃんと考えていた。
「なんてね。椿ちゃんがいるのに他の女性に惹かれたりしないわよ。面白い先輩なら居たけど」
『……』
「……椿ちゃん?」
 反応がなくなり、息づかいさえも聞こえないまったくの無言になり、大和は少し焦る。そんなに深刻になることを言ったわけではないのに。ただ少しだけ妬いてほしかっただけだ。時々不安になるから、こんなにも椿を好きでいるのに彼女は本当に自分のことを慕ってくれているのか不安になるから、ただ確かめたかっただけなのに。
「椿ちゃん、ねえ、どうしたの?」
 焦って、不安が広がって、声が震えそうになる。
『……ばか』
「え――」
 それは少し拗ねた声音で。
『大和くんの、ばか。……本当は分かってるのに、どうしてそういうこと、言うの?』
 ほっと安堵する。ばか、なんてそんな可愛いことを言われたら、やはりどうしたって頬が緩む。電話越しでなかったらもっと機嫌を損ねさせていたかもしれないほど、自分でも充分に自覚できるほど、今の大和の顔は締まりがなくなっていることだろう。
「うん、ごめんね」
『もう……』
「うん、ごめん」
 それだけでこんなにも安心する。幸せになれる。ただ椿が困ったようにしてくれるだけで。決して綺麗な方法でないことは知っているけれど。
「でも椿ちゃんだって悪いのよ? 電話できないとか言うから」
『それはだって、……しょうがないじゃん。キャンプなんだし、電波入るかも分かんないし』
 そんなことくらい大和にだって分かっている。椿も、彼が分かってて言っていることに気づいている。だからなおさら、困ったような口調になってしまうのだ。椿とて会えない大和と唯一話せるその時間をなくすことは嫌だし、その間に大和が離れていかないかとか不安もあるが、どうしたって仕方のないことだから。
 少しの間を置いて、「ねえ」と大和が呟く。「何?」と椿が答える。
「アタシ、大学に行って楽しいの」
『うん』
「でも楽しいだけじゃなくて、変わりたいの。ヤマトじゃなくて、ヒロカズに戻りたいの」
『うん』
 いつだったか、そんな話を椿にしたことがある。その時椿は「藤崎君は藤崎君だよ」と言ってくれた。その時の彼女の声を、表情を、大和は忘れたことがない。忘れられるわけがなかった。深く胸に刻み込んだ。椿がくれた言葉をすべて心の中にしまい込んで、誰にも見せることはないまま、大切にしている。
「そんな動機で大学へ行くのは不純かしら」
 椿の言葉だけが真実のように思える。大切に、大切にして、誰にも汚されることなく、壊されることなく、自分だけのものにしたいと思うのは、依存心の塊だと分かってはいるけれど。それを誰かに知られたら、病的だと罵られるだろうか。卑下されるだろうか。
『ううん、それでいいと思う。みんな大学で本当に学びたいことは、専門的な知識じゃなくて、自分自身のことなのかもしれないもの』
 静かな落ち着いた声が優しく届く。椿の声がひどく大人びて聞こえ、けれどだから、小さな自分を包み込んでくれているような気がした。
 いつだって椿の一言が大和の心の全てに繋がるのだ。


 なぜこんなことになったのだろう――。
 東原登はトレードマークとも言える黒縁眼鏡を中指で押し上げ、ああ、藤崎大和という1年が入部してきたからだと思い出した。
 地球環境研究会ははっきり言って特に注目を浴びるような業績を上げたわけでもないし、活動が盛んな場所でもない。そもそも研究会という名の同好会で、サークルともクラブとも言えるような確立した団体でもなかった。だから去年まではどうして部員数を増やせるかに力を入れていた。それも熱心な彼の演説のおかげか、集まったのは3人。そのうち2人は半年で辞め、残った1人も恋人が同じ研究会に居るからという理由であることは誰の目から見ても明確である。
 しかしそれも去年までの話。先日東原と同じ文学部である日高望が連れて来た法学部の1年生が入ってからというもの、彼の友人だという3人を除いて、ほぼ大多数の女子学生がこのスーパークラスの地味さを誇る研究会の見学を申し込んできたのである。広くないミーティング場所は、ようやくここが狭いのだという本来の姿を発揮していた。
「しかしまぁ、入部やなくて見学ってトコロが、皆さんの賢いトコロなんやろうなぁ」
 感心したように呟く彼女の意見には東原も賛成だった。我ながら自虐的だとは知りつつも、この状況は喜ばしいとは言いがたい現状であるには違いない。どうにかして彼女達を取り込めたらと思うが、なかなか名案は浮かばないものである。
「あの、絞り込みたいんだったら一つ、案があるんですけど」
 腕を組んで考え込んでいた東原に、遠慮がちに手を上げたのは大和の友人でもある坂口良子だった。麻耶の個性が強すぎていつも大人しそうな印象を相手に与える彼女だが、東原には麻耶よりも良子の方がずっと我の強い人物に感じていた。だから良子がこうして発言をするのも意外には感じなかった。
「何かな?」
 長身の東原が平均よりも少し低めの良子を見下ろす。眼鏡に隠れた彼の細く鋭い目に臆することなく、けれどあくまでも遠慮気味に良子は続けた。
「先輩の熱い演説をヤマトくんがしたらどうでしょうか?」
 良子の提案に東原と望は顔を見合わせた。先に反応を示したのは望の方だった。
「それ、ええかも! 藤崎君の新たな一面を発見、みたいで面白そうやし」
 パンッと手を合わせて楽しそうに言う望に、賛同を得たことにほっとする良子を眺め、東原はもう一度中指で眼鏡を押し上げる。
「いや待て。それがどうして良い案なんだ? そんなことをしたら逆に増えるんじゃないのか?」
 すると望は東原に振り返っておかしそうに笑った。
「うち、東原くんのそういうトコ好きやわ」
 どうやら良子の案で進める気でいるらしい。しかし東原は眉を寄せて眼鏡を押し上げる。
 なぜだろう。好きだと言われたのに不愉快だ。
 東原は大和へ目を向ける。自分達とは反対の位置で尚志と共に見学だという女子学生に囲まれている困ったような表情の彼を見て、だが良子の案も悪くはない気がしてきた。なるほど藤崎大和の新しい一面は、熱心な学生に対しての良いアピールになるかもしれない。地味であったために存在さえ気づかれず、自分と同じように地球環境に興味のある学生を引き付ける術を持っていなかった去年に比べれば、これはいい傾向なのだろう。
「じゃあまずテーマを決めなな」
 望の言葉に東原は思わず口角を上げて微笑んだ。テーマならとっておきのを彼に与えたい。
「実は今度やるクラブ・サークル・同好会の紹介の舞台用に準備していたテーマがあるんだ」
 きらりと反射する彼の眼鏡から視線を感じ、東原たちの話を聞いていなかったはずの大和は思わず身震いをした。