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渡された原稿を前にして大和は盛大なため息を吐いた。タイトルには大きく『環境破壊を促すリサイクル ―実社会の矛盾がここに―』という文字が飾られている。東原が一晩考え抜いて練り上げたものらしく、渡されたときの重さに少し引いてしまった。しかし大和が難しい顔をする原因は目の前に見せられた現状ではなかった。
実を言えばA4用紙10枚程度の原稿を丸暗記することはさほど苦ではないし、大和には3日もあれば成し遂げられる自信がある。問題は今日から椿との連絡ができないことだった。学校の行事だとかで電話ができないと言い渡されたことが全てにおいて大和のやる気を失わせていた。こればかりは自分でもどうしようもなかった。
はあ、と力なく本日何度目かの溜め息を吐く。
「まぁ元気だしなって。客寄せパンダだと思って」
「それ何のフォローにもなってないぞ、麻耶」
肩を落として落ち込む様子の大和を麻耶と尚志と良子が心配そうに見つめる。尤も良子は自身が提案者であるので、二人よりも幾分かは心配している度合いは低かったが、それを分かりやすく表に出すほど素直な性格でもない。当初東原が良子を見て感じた彼女の強かさは本物であるのだ。
大和は二人の掛け合いに苦笑しつつ、力なく首を横に振った。
「ううん、発表のことはいいの、んだよ」
思わず長年使ってきた女言葉が出そうになって慌てて言い直す。しかしそのつっかえの不自然さは直しようもなく、大和は内心かなり焦る。
「全然大丈夫じゃないじゃないかよ」
カミまくってんじゃん、と指摘されては何も言えず、それでも的外れな心配をさせるのは居たたまれない。大和はもう一度首を振って尚志の言葉を否定した。
「そうじゃなくて、ちょっと、あったんだ」
曖昧に口ごもる大和に尚志が眉を寄せる。綺麗な顔をした人間は少し困った様子でも綺麗なんだと場違いなことを思った。
「ちょっとって何があったの?」
聞いたのは良子だった。麻耶もコクコクと頷いて大和を見た。本当は麻耶が自分の口から聞きたかったが、何だか嫌な予感がした。それでも知りたいのも本当で、良子が言ってくれたことに少なからず感謝した。
「うん……、彼女とね」
大和はそれほど大きな声で言ったわけではない。しかしその瞬間、やけにその場だけがひんやりと冷え、固まる。
「か、かのじょ?」
尚志がキョトンとした表情を浮かべて呟いた。
「ヤマトって彼女いたの!?」
麻耶は悲鳴にならない声を出した。
良子も声こそ出さなかったが驚いた。
「なに、僕に彼女がいたらおかしいの?」
大和の疑問にそういえばそうだと思う。入学してからというもの、彼が学年問わず女子学生から声を掛けられることは常であるし、麻耶と良子もその中の一人であった。これほどの目立つ容姿をしていれば恋人の一人や二人、なるほど考えてみれば、居てもさほど不思議ではあるまい。
「そういうわけじゃないけどさ。何となく意外っていうか」
尚志の言葉に麻耶も遠慮がちに頷いた。
「そういう話、ヤマトから聞かないからてっきり、フリーかと思ってて」
「誰も聞いてこなかったから話さなかっただけだよ」
大和は少し肩を竦めて言った。
けれどどの反応も新鮮で、少し優越感を味わえた。高校では既に付き合う前から椿との仲は公認となっていて、彼女いるのという話にさえならなかった。
「写メとかないの?」
「ない、な。そういえば、一緒に写真って撮ったことないかもしれない」
尚志に言われて初めて気づいた。連絡を取ればいつでも会える距離にいたあの頃は写真というものに興味がなくて、学校でのアルバムくらいしか残っていない。惜しいことをしたな、と大和は少し後悔をし、今年からは会ったときには写真を取っていくのも悪くないと思った。
「いつから?」
麻耶が聞いた。いつから付き合ってるの。
「高校3年の時からかな。クラスメイトだったんだ」
「じゃあ同い年だ。大学は別々?」
「うん、彼女は地元の近くの大学で」
「……ふうん」
麻耶は面白くなさそうな顔を隠そうとして、けれどポーカーフェイスを得意としない麻耶の声は明らかに不満げだった。大和はあえてそれに気づかないフリをして、椿のことを思い出して、はにかむ。
「でもヤマトの彼女だったら美人系?」
尚志が聞いて、大和は「いや」とすぐに答えた。
「美人っていうよりカワイイ」
それがあまりにも甘い響きだったので良子も思わず頬を赤く染めた。大和につられる意味が自分でもよく分からなかったが。
「あ、かわいいんだ」
「うん。超可愛い」
良子の言葉をさらに甘く続ける大和の顔は本当に愛おしそうに遠くの彼女を見つめているようだった。会って間もないがこれほど彼の幸せそうな表情を見たのは初めてだった。
「それでその彼女がどうかしたのか?」
いよいよ尚志が本題を口にすれば、大和は思い出したようにその幸せそうな表情を曇らせた。「そうなんだよ」と声の調子も低くして溜息をつく。
「向こうの大学の行事でキャンプに行くらしくて、電話もするなって」
「……」
尚志、麻耶、良子はそれぞれその次のことを期待して待った。しかし大和はまた小さく息を吐いて肩を落としたきりだ。もしかして、と尚志の顔が引きつる。
「……え、まさか、それだけ?」
すると大和は何が可笑しいんだと言わんばかりに尚志を上目で見た。そのまさからしい。
「電話するなって、それだけでそんなに暗くなってたのか?」
「それだけって……。重大じゃない。僕達は滅多に会えないっていうのに、声まで聞けないなんて、何のための携帯電話なんだよって感じじゃない?」
心外だ、と不機嫌そうに言う大和は、やはりいつもと違って見えて戸惑う。その話し方や表情で柔らかい雰囲気しか出さない彼でも一人の男だったんだと改めて思う。尚志は珍獣でも見ているような気分だった。
そして恨めしそうに携帯電話を取り出して睨み付ける大和が可笑しかった反面、麻耶の何とも言えない歪んだ表情を見ることがどうしても尚志にはできなかった。彼女が気の毒すぎる。
「でも2,3日なんでしょ? 心配ないって」
麻耶が精一杯の言葉を口にする。大和は少し麻耶を見つめ、また携帯電話へと視線を戻した。
「まあね。でも向こうにも男はいるわけだし、声も聞けないなんて、思った以上にキツイなあと思って」
溜息混じりに呟いたそれが麻耶に対しての返事だったのか独り言だったのかは、尚志にはよく分からなかった。
5時間目の終わりを告げる鐘が鳴る。ここの大学のチャイムは少し独特で、昼休み終了時と5時間目の終わりには少しだけ金属音が響くのだ。学校なりの何かの区切りらしいともただの音声機器の故障だとも言われ、学生たちにはあまり評判がよくない。
大和が先に原稿を持って帰っていき、麻耶たちは少し残った。ただ立ち尽くしたような麻耶に尚志がそっと声をかける。
「大丈夫か?」
まるで血の気が引いてしまったような顔をした麻耶は、それでも無理やり笑顔を作って乾いた声で笑った。
「はは、思い切り惚気られちゃった」
麻耶が最初から大和に好意を持っていたことは尚志も気づいていた。さきほどのアレは、大和なりの牽制のようにも思えて、尚志はどう反応していいか戸惑う。
「あんなカオされて、わたしが敵うわけないじゃん」
麻耶の声は自然と震えていた。望みは皆無だとはっきり言われたように思えた。あれだけはっきりと遠距離恋愛をしていると言われ、それでも困ったような様子も不安そうな表情も見せず、「彼女は地元の近くの大学で」と告げたのは、大和にはそれだけの自信があったに違いなかった。遠くだとしても自分には大切な人がいるから麻耶とは友人以上になるつもりはない、と暗に言われたような気がしたのだ。あの瞬間。麻耶はこれほどショックを受けるとは思わなかった。
「分からないよ」
唐突に良子が呟く。
泣きそうな目で麻耶は顔を上げた。
「え?」
「分からないよ。人の気持ちなんてどう転がるか。誰にも分からない」
「え?」
麻耶には良子の言っていることがよく分からなかった。尚志も同じように驚いた表情でいつもは大人しく座っている友人を見つめた。
「ヤマトくんの彼女も大学生なんだよ。短大じゃなくて4年間大学に通うんだよ。あたし達と同じじゃん」
麻耶を励ますように言う良子に、当の麻耶は小首を傾げた。麻耶は時々良子が分からなくなる。いつもは自分の一歩後ろで控えめに立っている彼女が、突然こんなふうに自分の目の前に立って力強い眼差しを向けるのだ。
「いくら遠距離だからって4年間はやっぱり長いよ、時間的には」
別に結婚しているわけでもないのだ。4年の間にそれほど会わないで繋がっていけるカップルが世の中にどれだけいるだろう。
良子は、だから、にっこりと微笑んで麻耶を見つめた。