Cette Place

7


「藤崎くん!」
 大学から駅へ向かう途中で不意に後ろから呼び止められた。大和は一瞬肩を震わせ驚いた。いるはずのない椿の姿が頭に過ぎり、振り返れば日高望が大和に手を振ってこちらへやって来る。――やっぱり似てない。大和は胸の内で苦笑し、彼女が隣へ来るまで立ち止まった。
「なんか変な感じやねえ、帰りが一緒になるって」
 にっこりと笑う望に大和も同意して頷く。確かにそうだった。まだオリエンテーション週間とはいえ必修科目の多い1年の大和に比べて学部は違えど既に3年の望は割りと早く終わる。
「東原君の原稿はもうもろた?」
「モロタ?」
「え? ああ、貰ったってことなんやけど」
 苦笑する望を見て、ああそうか、と今更に気づく。普段滑らかな関西弁を話す彼女だがどこか言葉遣いが共通語に似ていて気にしなかったが、望は間違いなく関西の人間で、関西弁とはつまり独特の方言であるのだ。時々分からない単語が出てくるたびに大和はそれに気づかされる。
「ええ、貰いましたよ。たっぷり10枚渡されて、どうやってこれを10分の間に話せるのかとげんなりです」
 大和が困ったように笑うと望は少し驚いた表情をして、すぐに可笑しそうに笑った。カラカラと笑う彼女の態度はいっそ爽快で気持ちいい。
「そっかぁ。藤崎君には覚えることよりもまとめることが苦痛なんやね」
 大和にはどうしてそんなことで笑えるのだろうと不思議だったが、望が楽しそうなのでそれで良いかと思い直した。
 確かに暗記することはそれほど苦痛ではないし、むしろ新しい知識を覚えることは好きだ。ただそれを短くまとめることに関しては自分よりも椿の方が上手かったように思う。それに椿は現に大学でも国語を勉強するのだと言っていたから、彼女自身もそういったことが好きなのだろうと思った。大和はそのことを言おうとして、――やめた。
 なんとなく望には椿のことを言わなくてもいいかと思い、違う話題を探す。
「先輩は得意そうですよね。国文科って論文とか大変って聞きましたけど」
 むしろ国文科のメインは論文にあるという話をどこかで聞いたことがあった。望は「まあねぇ」と肯定するように顔を歪ませる。
「そろそろ卒論も本格的に考えなあかんねんけど……、好きなことと得意なことってちゃうもんやし」
 大和はそれもそうだと納得した。下手の横好きという諺がまさにそれを言い当てていると思う。昔の人はそういう表現がいやに上手い。それとも上手いからこそこうして後世まで残っているのだろうか。
 そうこう話しているうちに駅まで着き、定期を改札に通してホームへ入る。踏切を渡った反対側に私立の高校と中学があるためかホームには私服の大学生と制服を着た中高生で溢れ返っていた。友人同士で談笑する高校生を見ては、まだ数ヶ月前までは自分も同じように制服を着ていたんだなと懐かしく感じる。
 電車が滑り込んでくる。ドアが開くと流れるようにして彼らは乗車していき、大和と望も半ば押し込まれるように足を進めた。ドア側に立って目的の駅へ着くまで二人は特に話すこともなく電車に揺られていた。けれどその沈黙は決して居心地の悪いものでないことが大和にとって驚きだった。やはり望はどこか安心させてくれる雰囲気を持っているのかもしれない。それは大和にとって唯一の存在である椿ととてもよく似ていて。
 どうしてだろう。椿とは全く違う容姿をしているのに、ときどき彼女と望が不意に重なるときがある。そのたびに大和は胸を高鳴らせ、安心する。そして同時に首を傾げたくなる。どうしてこんな気持ちになるのだろうかと。
 客観的に見れば顔は望の方が可愛いし、性格も明るく話をしても退屈させないくらいには社交性がある。椿は小さく見えて意外に身長があるが、望の背の低さは今時にしては珍しく、さらに望の容貌を形容するのに「可愛い」という言葉が相応しくさせている。それでもやはり大和には椿が誰よりも可愛いと思えるし、愛しいと感じるのもまた椿だけだ。それなのに一緒にいて安堵するこの優しい雰囲気は何なのだろう。大和はこの安心感も椿だけが与えてくれるものだとばかり思っていた。だから余計に不思議だった。椿と望がどこか似ていると感じたのはこの雰囲気なのだろうということは分かったのだが……。
「あ、藤崎くん」
 ホームに下りると望が振り返って大和を呼んだ。物思いに耽っていた大和は慌てて返事をした。
「うちこれからバイトやねん。だからここでバイバイな」
 バイバイという言い方が彼女の童顔な容姿にやけに似合っていて大和は思わずくすっと笑う。
「分かりました。じゃあまた明日」
「うん、ほなねえ」
 手を振って先に改札を通る望の後姿を見つめていた大和は、ふと呟いた。
「バイトか」
 そういえばそろそろ探さなくてはいけない。いつまでも親の金だけで暮らせるとは思っていないし、できれば自分の金で生活していきたい。そのためにわざわざ家を出たのだ。今も極力使わないように節約生活を送っている。大学でのことで精一杯だったがそうも言っていられないだろう。大和は改札を出ると横に設置してあるフリーペーパーをいくつか手に取り、アパートへ足を向けた。

「藤崎くん、何してるの?」
 2時間目の始まる前に昨日駅前から取ってきた求人広告誌を広げていると、突然頭の上から声がした。急に名字を呼ばれ、驚いて顔を上げれば見覚えのない女子学生が大和の手元を覗き込むようにして立っていた。200人ほど在籍している法学部の学生を1週間も経たないうちに覚えられるほど彼は記憶力の良い人間ではないし、友好関係を築くことに積極的でもない。
「……だれ?」
 だから少し間を置いてのこの質問は当然のように思われた。しかし彼女にとっては心外だったようで、頬を膨らませて不貞腐れたように不満の声を出した。
「やだあ、この前隣の席に座ったじゃん。消しゴム貸してくれたじゃん」
 この前と言われてもいつのことだか大和には思い出せなかったし、消しゴムを貸したのは彼女だけではないので覚えていなかった。とりあえず大和は困ったように笑顔を浮かべて軽く謝る。
「そうだっけ。ごめんね」
 それだけで彼女は仕方ないなと許してくれたので今の対応で良かったのかと胸を下ろす。
「もういいよぉ。それよりバイト探してるの?」
 既に機嫌が直ったのか彼女は小首を傾げて大和の広げているページを指差した。彼女が置いた指先の場所はちょうど大和が目星をつけていた記事の一つだった。そのことに少し驚く。まさか彼女が意図的に指を差したわけではないと分かっているが。
「うん、まあね。この近くでないかなって」
「ふぅん。藤崎くんって一人暮らしなんだ?」
 彼女はさしてアルバイトに興味はない様子で聞いてきた。もしかしたら何か良い情報を持っているのかと期待したが、そういえば彼女がここの地元民であるかも大和には分からなかった。彼女も地方から来たのならあまり構って欲しくないなと内心思うが、どうにも空気だけでは大和の心情を読んでくれそうにもない。
「そうだよ」
「じゃあ今度遊びに行っても良い? 皆で飲もうよ」
「僕たちまだ未成年だけど」
 大和が苦笑気味にそう言うと、意外だと言わんばかりに彼女は目を丸くして驚いた。
「藤崎くんって固いんだね。でも軟派な人よりはイイよね」
 やはり彼女には遠回しな表現は無駄らしい。大和とて酒くらい飲めるし、実際高校生の時は母親に内緒で父親に付き合ったこともある。だが大和はあえて否定せずに微笑みを浮かべただけにした。
「やっぱり一応法律を勉強してる身だから、ね」
「ああ、うん、そうだね。ごめんね、変なこと言って」
「それは良いんだけど」
 それからふと昨日のことを思い出した。大和は少し考えて、やはりこれからはしっかり牽制しておかなければならないのだろうと結論付ける。少々自意識過剰かもしれないが、これからこういう誘いを受けるのは無くしたい。
「僕の彼女がヤキモチ焼くと困るから、もうそういうこと言わないでね」
 大和は何でもないことのように言った。しかしそれは彼女にとって静かなる爆弾だった。
 破壊力抜群のダイナマイトに匹敵するその言葉の意味を理解するのに多少の時間が掛かってしまったのは仕方のないことかもしれない。
「……え、あ、彼女って……?」
 入学して約1週間、そんな素振りは全く見せなかったからてっきりフリーだと思っていた人間は、どうやら尚志たちだけではなかったようだ。思った以上の効果が得られそうだと大和は満足する。
「君の知らない子だよ」
「あれ、藤崎くん!」
 大和の声が不意に誰かと被さる。大和と目の前の彼女が同時に振り返れば、嬉しそうに笑顔を浮かべる望が入り口の方からやってきた。
「なんかよう一緒になるなあ。1年に混じるのは気が重かったけど、藤崎くんと一緒で良かった」
 そう言いながら望は大和の隣の席に腰を下ろす。そこでようやく大和と話していた彼女の存在に気づいたようだ。少し気まずそうに微笑みかける。
「あ、ごめんね、途中から。邪魔やったら退くけど」
「いえ、いいです。もうすぐ始まるし。じゃあね、藤崎くん」
 彼女は慌てて自分の席へ戻っていく。大和は横目で望を見ながら、気づかれないように溜息をついた。タイミングからして望のことを完全に誤解されたような気がする。しかしそれを誤解だと弁明するのも変な気がして、どうしたらいいものかと考える。
「なんか、ごめん。話の腰折ったみたいで」
 申し訳なさそうにする望に大和は笑顔で否定した。
「いえ、逆に助かりました」
 そして考え直した。彼女が言いふらさない限り問題になることはないし、誤解だけしてくれていればそれで良い気もする。何より望とはアパートの部屋が隣通しだ。変に勘繰られるよりは相手が望だっただけましかもしれない。
 それからもう一つ気づいたことがあった。
「あ、バイト探してるん、藤崎くん」
 藤崎くん。
 かつて椿だけが呼んでいた大和の名字。それを今は誰もが普通に使っている。考えてみれば昨年は椿も藤崎だったため、区別するために必然的に大和がヤマトになっただけのことだ。大和にとっては中学からのことだが、周りから見れば一時的なものに過ぎない。――それでもヤマトと呼ばれるたびに苦しくなっていたから、ここまで来たのだ。
 そうか、と大和は一人納得する。
「うち、一つだけツテあるけど、やる?」
「え?」
 一つの違和感の正体を知った大和に、望は更なるプレゼントを与える。大和にとっては願ってもみなかったものだった。