Cette Place

8


 大学に入学して初めての日曜日。その日は大和にとって二日間に亘る椿断ちの解禁日であった。つくづく椿はひどいと思う。会えない分少しでも長く声を聞いていたいと思うのは自分だけなのだろうか。そうして落ち込みそうになるのを、いや、と大和は思い直す。椿は学校の行事で仕方なかったのだ。大和は逸る気持ちを抑えて携帯電話の通話ボタンを押した。
 1コールめ、2コールめ、3コールめ……。
 待ちきれなくて耳元で流れる機械音を数えあげてみるが、なかなか出ない。大和は10コールめまで数えてから電話を切った。力なく腕を落とすが、すぐにメールを送り、携帯電話をテーブルの上に置く。大和の表情は不安と怒りで険しく歪む。どうして出ないのだろう。タイミングが悪かったのか、それとも――?
 息を一つ吐く。ベッドに体を倒して天井を見上げる。椿は今何をしているのだろう。頭に浮かぶのはそれだけだった。土曜の夜に帰っているはずだから、今は家にいるだろうけれど。あるいは友人と遊びに出かけていて気づいていないだけだろうか。それでもメールの一つくらいは入れて欲しいと思うのは傲慢なのだろうかと様々なことが思い巡らされ、軽く眩暈がした。こんなことではダメだと思いつつ、少しだけ椿を疑ってしまう。会えないことがこんなにも自分を不安定にさせるのか、と吐き気さえする。
 それからどれくらいしたのか、携帯電話のメールの受信を知らせるメロディが部屋に響く。大和は閉じていた目を開け、急いでディスプレイを確認する。椿からだ!
 今、大丈夫? という遠慮気味な文章が椿らしい。大和は躊躇いようもなくアドレスから電話番号を引っ張り出した。今度は2コールめで繋がる音がした。
「椿ちゃん?」
『あ、うん。ごめんね、鳴ってるの気づかなくて』
 申し訳なさそうな声にほっと安堵する。そしてそういえば、頻繁に会えた高校時代よりも今の方がずっと彼女と話していることに気づいた。顔が見られないことは残念だが、以前よりはずっと椿のことを分かってきた気もする。椿がどんなことに何を感じ、何を思うのか。離れてみなければそれらを知ることがもっとずっと遅かったように思う。それが嬉しい。
「ううん。今何してたの?」
『……えとね、今日はちょっと起きるの遅くて。さっき朝ごはん食べたとこだったの』
「朝ごはん? もうお昼よ?」
 大和がおかしそうに笑えば、電話越しの椿も恥ずかしそうに笑った。
『昨日家に着いたのが夜の10時くらいだったんだよ』
 言い訳するように口調を強くして椿が言う。そんな椿もなんだか新鮮で、彼女に触れられないのが寂しい。
「メールくらいくれば良かったのに。アタシ昨日からずっと待ってたのよ」
『うん、でも、夜遅かったし……、寝てたら悪いなって』
「椿ちゃんからのメールだったら夜中の3時でも大歓迎だってば」
 少し拗ねたように言う大和に、椿は驚いたような戸惑うような気配を見せた。
『え、あ、そう……かな?』
「そうなの! だから、ね。遠慮しちゃだめだからね」
 強くなってしまう言葉を無理矢理抑えて、椿が怯えないようにできるだけ優しく言った。すると椿はおかしそうに小さく笑った。
「なに? アタシ何か変なこと言ったかしら」
『ううん、違うの。彩芽と同じこと言われたから』
「榎本さん?」
 榎本彩芽は椿と仲の良かったクラスメイトで、椿が所属していた文芸部部長のヨッシーこと橘芳香と共に、椿との間のことに関して色々と協力してもらった。確か彼女と椿は別の大学へ進んでいったはずである。今でも付き合いが続いているのだと羨ましく思った。そして大和とよくつるんでいた森岡修司と篠原洋介とは最近連絡を取っていないと思い出す。転校する前の友人たちとは椿と付き合うようになってからめっきり連絡を取らなくなった。所詮はそれだけの関係だったのかもしれない。
「よく会うの?」
『会うっていうか、最近はメールだけかな。彩芽は短大だし、時間も合わないから』
「ふぅん」
 なんだかおもしろくない。大和とはメールはほとんどせず、もっぱらこうして電話をするだけだ。声を聞けるからメールよりはずっと良いと思っていたが、それでも、頻繁に言葉を交わすことはできないから不安なこともある。気兼ねなくメールをしあう彩芽がずるく思えた。
「何て言われたの? 榎本さんに」
『え?』
「榎本さんもアタシと同じようなこと言ったんでしょ? どんなこと言われたのか教えて?」
『え……えっと……』
 困ったように口ごもる椿の声を聞き、大和は後悔した。気づかれないように溜息を吐き、額を押さえた。何をやっているんだ、自分は――。
 椿が何を言われたのかをそれほど知りたかったわけではない。ましてや椿を困らせたかったわけでもない。これはただの嫉妬だ。どうして女相手にこんな感情を抱くのか、大和は自分自身を情けなく思い、少なからず落ち込んだ。けれど何より彩芽に対してこんなふうな気持ちを抱くことが初めてではないことが大和を落ち込ませる。重症すぎるだろう、自分。
「ごめん、椿ちゃん」
『あっ、ううん、違うのっ」
 声を抑えて謝る大和に椿は慌ててそう叫んだ。その反応に大和は驚く。
『変な意味じゃなくてね、その……、今まであたしは遠慮ばかりしてたから。これからは押しかけるくらいの勢いでいきなさいって、彩芽に説教メール貰ったばかりだったから』
 ……ああ、まったく。
 己の思惑など知りもせずに彩芽は大和と椿のことを応援してくれているというのに。
「ほんと、椿ちゃんは遠慮しすぎだもの。アタシはいつ押しかけてきてもらっても良いんだからね」
 大和も小さく笑って言った。椿もそれに安堵したように息を吐いた。
『うん、いつか遊びに行くね』
「楽しみにしてる」
 心の底から大和は願った。いつか彼女をこの腕に抱きとめ続けられる日が来ることを。
 その時は必ず迎えに行きたい。

 翌週からは通常の講義が始まる。既に始まっていたところもあるが、だいたい本講義はこの週からだ。新しく買ったルーズリーフを取り出して大和は席に着いた。
「おお、ヤマト」
 そこへ尚志がやってきて当然のように大和の隣に腰を下ろす。おはよう、と朝の挨拶をするが、時間的にはすでに昼だった。
「いやぁ言いにくいんだけどさ。こういうことってだいたい本人の耳には入らないと思うから言おうと思うんだけど」
「……なにが?」
 座っていきなり尚志が話した内容の意味が分からず、大和は首をかしげた。回りくどい言い方をするのは尚志らしくないと思った。
「聞きたいか?」
「は?」
 まったくもって分からない。大和は特に興味のないふうを装いながらも目を細めて彼を横目に見る。
「そんな言い方されて気にならないわけないじゃない」
「まあそうか。そうだよな。悪い。じゃあ言うけど……気を悪くするなよ?」
「だから何が?」
 大和の様子を伺いながら言う尚志に気味の悪さも相俟って自然と大和の目つきが鋭くなる。これ以上もったいぶるのは得策ではないと判断した尚志は、できるだけあっけらかんとした口調で一気に言った。
「ヤマトと日高先輩が付き合ってるって話があるらしい」
「……は?」
 何を言っているんだ、と思った。どこからそんなデマが流れるのかも分からなかったし、そこで望の名前が具体的に出るのも変な感じがしてならない。
 目を丸くして驚く大和に尚志は少し安堵したようにヘラッと笑って見せた。
「や、根も葉もない噂だってことは分かってるって。それにヤマトにはちゃんと彼女もいるしさ」
「当たり前でしょ、っ」
 アタシには椿ちゃんがいるんだから――。そう言いそうになって慌てて口を噤んだ。どうにも咄嗟の時にはまだ女言葉が完全に抜け切らない。そのことに顔を歪ませながら、けれど今はそれよりも、とその話の出所のことが気になった。果たして望の耳にも入っているのだろうか。
「それに先輩にも彼氏はいるんだし」
 吐き出すように言った大和のせりふに今度は尚志が驚く。
「え、そうなんだ?」
「うん。S大の法学部だって」
「しかもS大かよ!」
 空を仰ぐように額に手を当てた尚志の仕草を見て、え、と大和が短く声を漏らした。
「千田ってもしかして……?」
 望に気があったのか? そう聞こうとして、しかし今までの彼を見ている限りは麻耶の方に気があったように思えたのだが、とわずかに混乱する。尚志はすぐに額から手を離し、真剣な表情をして大和の方へ向き直った。
「実はさ、坂ちゃんも良いなとか思えてきてさ、最近」
「……坂口?」
 何の話だ、と言わんばかりに彼を見れば、尚志はいたって真面目な口ぶりで続けた。
「なんていうか、奥底に秘めている力強さって結構俺としてはポイント高いっていうか」
「……へえ」
「まぁヤマトには関係ない話だけど」
「そうだね」
 本当にどうでもいい話だ。尚志の好みの女性のタイプなど。
 そこで話に区切りが一つついたところで、尚志は窓際の席に麻耶と良子を見つけたらしく、声をかけに席を立った。