Cette Place

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 次の教室へ移動するため本館から12号館へ向かう途中、隣を歩いていた尚志が友人と食堂から出てきた望を見つけた。足早に駆け寄る彼の後ろから大和もゆっくりと続き、軽く挨拶を交わす。
「そういえば先輩、あの話聞きました?」
「あの話?」
 尚志の問いかけに望は友人と顔を見合わせた。望も彼女も同じように小首を傾げ尚志へ向き直る。
「先輩とヤマトが付き合ってるって話が出てるんですよ」
 尚志が言うと、望は目を大きく開いて大和の方を見た。大和は思わず困ったように微笑を浮かべた。何と答えていいか分からなかった。
「うちと藤崎くんが? んなアホな」
「そんな話、知らないなあ」
 望と友人の彼女も心当たりがないようで、どうやら本当に一部の間でしか流れていないものなのだということが分かった。それもそうで、大学には何百という数の学生がいるのだ。学部一つで結構な数になるのだから、取り立てて有名でもない一部の学生同士の話題などそうそう広まるはずもないだろう。
「そうっすか。それなら良いんですけど」
 尚志は面白そうなネタが実はものすごくマイナーなものだということが分かってテンションが下がったように大人しく引いた。
 それはそうと、と望は大和の肩を叩いた。
「そうや藤崎くん、研究会の発表今週やから、頑張って女の子達集めてや」
「ああ、はあ……」
 なぜ女の子を集めなければならないのか分からなかったが、とりあえず大和は頷いてみせる。
「場所とか決まったんですか?」
 尚志が聞くと望は首を横に振る。
「ううん、いつものミーティング場所でやんねん。発表っていうか勧誘行事の一環みたいなもんやし。オリエンテーションみたいな感じ言うんかなぁ。まあ原稿がクラブ紹介用ってことやしちょうどええと思て」
「へえ」
「あ、それからな、藤崎くん」
 再び望は尚志から大和の方へ向き直った。
「前に言ってたバイトやけど、今週末ええかな? とりあえず1回来てほしいみたいで」
 今週末……、幾分急なことではあるが、特に予定があるわけではない。大和はしばらく考えてから頷いた。
「全然問題ないです」
「そう? 良かった。じゃあまた連絡するわ」
「はい」
 それじゃあ、と望たちと別れて尚志と大和は足早に12号館へ向かう。間の休みは10分ほどしかなく、あと少しで講義が始まる時間だった。
 本館から12号館へは食堂を挟んですぐだ。食堂の前には小さな噴水があり、暖かい日にはその周りにあるベンチで昼休みを過ごす学生も少なくない。その噴水の前を通り過ぎると12号館の入り口が傍にある。真四角な建物の12号館は横に長い本館と比べて縦に長い。見るからにもともとあったものではなく、増設されたものだということが分かるつくりだった。次の講義はその4階の教室で行われる。
「ヤマト、バイト探してたのか?」
 横長の机が段になって並べられている教室は広く、二人は既にほとんど埋まっている中そこだけぽっかりと空いた、教壇に近い前の席へ荷物を置く。教科書を広げるなり尚志が小声でそう聞いてきた。講師はまだ姿を見せていない。
「ん、まあ。そうだけど」
「何のバイト?」
「家庭教師」
「へえ」
 そこへちょうどチャイムが鳴り、少し遅れて講師が入ってきた。白髪交じりの薄い髪を乗せた、堅物そうな年配の男だ。ざわついていた教室内は静まり、やけに歯切れの良い彼の話が始まる。
 その中で大和は先日の望とのやりとりを思い出していた。アルバイトを探していると言った大和に望は一つだけならツテがあると言った。
 望は駅前の小さな薬局でアルバイトをしているらしい。既に2年ほど働いているので常連客にもすっかり顔馴染みになったという彼女は、仕事絡みの話以外にも軽く客の世間話に付き合うことがしばしばあるのだそうだ。その中で一人の客が最近家庭教師を探しているという話を望にしたようで、そこそこ名の知れたM大に通う望に頼んできた。だが掛け持ちをするほど時間的余裕がない望は丁重に断ったのだが、彼女はなかなか見つからないと店に来るたびに困ったように言うので、望も何とかしてやりたいという気持ちが出てきた。そこで大和がアルバイトを探しているという話を聞いて、家庭教師のことを持ちかけたのだった。
 それを講義の間声を潜めながら説明してくれていた望のことを思い出し、自然と笑いがこみ上げてくる。あの時間、どれだけ講師が望を睨むように目をつけていたか、望自身全く気づいていなかったのだ。それをあえて教えるほど大和も馬鹿ではない。とはいうものの、あの青筋のすごさは是非とも見て欲しかった。
「何笑ってんだよ?」
 不思議そうに尚志が尋ねてきて、大和は少し考えてから、そっと目の前に立つ男性講師の頭に視線を流した。
「……お前、趣味悪いな」
 大和が何も言わないことに苦笑しながら尚志もその視線の先を辿って呟く。
「何のこと?」
 とぼけたように言う大和に尚志は何も言わず頭を横に振った。ただ言葉が柔らかいとか仕草や表情が穏やかとか顔立ちが綺麗と言うしかないほど整っているとか、そういった特徴だけで大和を見ていたが、もしかして彼も本当の顔というのが別にあるのかもしれない。良子の力強い口調を思い出しながら尚志はそんなことを思った。どうして大学で知り合った人間は裏表がありそうな性格の持ち主ばかりなのか、なんとなく自分の高校時代を懐かしく思う。あの頃は自分も周りも純粋だったのだろう、おそらくは。

「もう、ホントに最悪!」
 講義が終わると同時に違う授業を受けていた麻耶と良子からメールが届いた。待っているという食堂へ行ってみれば不機嫌な麻耶が大和を見つけるなり自分と向き合うように座らせてそう叫んだ。麻耶がここまで感情を露にすることは今までになかったので大和も尚志も困惑した表情で麻耶の隣に座る良子へ目を向ける。しかし良子は肩を上げて見せただけで特に何も言ってくれなかった。
「今日だけでどれだけの人に同じ質問されたと思う?」
「……10人、とか」
 尚志がとりあえず答えると、麻耶は「バカにしないで!」と怒る。それには尚志もムッと顔を歪ませた。
「麻耶が聞いてきたんじゃねえか」
「だからって適当にされたらむかつくじゃない!」
「それよりどんな質問されたの?」
 尚志を睨みつける麻耶に大和はできるだけ穏やかな口調で尋ねた。大和がいくらか冷静な態度を見せているからか、麻耶は特に睨むこともなく腹を立てることもなく答えた。
「『藤崎くんと付き合ってる人って誰だか知ってる?』って。そんなこと直接ヤマトくんに聞けばって感じじゃない?」
「それで何て答えたの?」
「『知ってるけど教える必要はないでしょ』って」
 そしてその時のことを思い出したのか、麻耶はまた不機嫌さを増した表情になった。
「そしたらわたしじゃないことは確かよね、みたいなことを言ってくるの! 確かにその通りなんだけどその言い方とか目つきとか……、ああもうっ、ホントに最悪だったんだから!」
 その苛立ちぶりに大和は申し訳なくなってくる。噂の出所は分からないが、ここに椿が居れば麻耶にもこれほど気分を悪くさせることはなかっただろうと思う。
「ごめんね、なんか」
 大和が呟くように言うと麻耶は驚いたように彼を見て、それからとんでもないというように手を顔の前で大きく振った。
「ヤマトくんが謝ることないわよ」
「そうそう、ヤマトが悪いわけじゃないし」
 麻耶と尚志が代わる代わるに言葉をかけてくれることに、逆に大和は申し訳なく思う。だがここで遠慮しても意味はないことを分かっているからありがたくその言葉を受け取ることにした。
「そういえば今週発表なんだよね、地球環境研究会の」
 ふと思い出したように良子が言った。今ここでその話題を出すのかと驚く三人をよそに良子はにっこりと微笑んで大和を見る。
「頑張ってね」
「あ、うん」
 大和が頷くと良子も満足そうに微笑む。
「女の子達をたくさん集めたらきっと麻耶にそういうこと聞いてくる人は少なくなると思うよ」
 眼鏡の縁を持ち上げながら良子が言った。大和にはよく意味が分からなかったが、とにかく女の子達を集めれば麻耶に迷惑は掛からなくなるということだけは分かった。そういえば望も同じようなことを言っていた気がする。なぜだかは分からないが男よりは女を集めなければならないらしい。
「あ、そ、そうだ。それでさ、ヤマトはもう原稿覚えたわけ? あれ、結構量あったじゃん」
 静まったその場の空気を取り持つかのように尚志が大和にそう聞いてきた。
「原稿? ああ、それならとっくに」
 何てことのないように答える大和に尚志は少しの間だけ言葉を失い、そのあと乾いた声で笑った。
 あの量の文章をたった土日を挟んだだけの間に完璧に頭に入れたらしい。尚志は自分とは少しばかり――いやそう思うにはだいぶ差が開いている気はするけれど――記憶する力が異なる友人にかける言葉が分からないでいた。
「じゃあ彼女とは? 電話できたか?」
 原稿を渡された日のことを思い出しながら尚志が話題を探す。なんだろう、この変な空気は。
 麻耶が息を呑むのが分かり、大和の彼女の話は失敗だったと悟る。だが口から出た言葉を取り戻すことなどできるはずもなく。
「うん。できた」
 そう言って満面の笑みを浮かべる大和に「そうか」とだけ答える。
 少し俯いた麻耶を気にしながらも、良子はそんな大和と尚志を交互に見つめていた。