Cette Place

10


 地球環境研究会の小さな発表会はある意味大成功を収めた結果となった。良子に励まされたとおり、大和は丸暗記した原稿を切々と語って聞かせ、その場の30分間を静寂と沈黙で包み込んだのだ。大和目当てにミーティング室となる小教室に集まった女子学生たちは終わるなり涙を流して帰っていったという嘘か本当か分からない噂がその後研究会の間にひそやかに流れた……というのが尚志談である。
 東原曰く彼女たちの涙の真相は、長年議論され続けている森林伐採と、それに関わる矛盾するリサイクルというシステムの討論は、今の学生にはひどくシビアで、軽く聞かせるには難しすぎる問題だったかも知れないが、藤崎の柔らかな口調で感動的な仕上がりになったため彼女たちの心に何かしら伝わるものがあったのだろう。
 その意見に賛同する者はいなかったが。それでも大和に話しかけてくる人数は確実に減ったに違いない、とは麻耶と良子の談である。結局その後研究会に入部したのは生涯福祉学部の2年生1人と文学部の1年生2人の3人だけだった。


 週末、望に渡された地図を見ながら着いた家はしっかりとした門構えで、裕福な方の家庭なのだろうと安易に想像できた。木彫りの表札には豊里と書かれているから、ここで間違いないだろう。大和は手に持っていた地図をジーンズの後ろポケットに押し込むと、表札の横に設置されたインターホンを押した。
「はい」
 玄関のドアを開けたのは少し膨らみのある体つきをした年配の女性だった。軽くパーマが当てられた茶色の髪が肩まで伸ばされて顔の輪郭をさらにぼんやりとさせていた。大和は小さく会釈をして数段上の位置に立つ彼女を見上げた。
「日高さんから紹介された藤崎です」
 大和が言うなり彼女は「あら」と驚いたように口元に手を当てた。それから慌てて笑顔を作り、門を開ける。
「ごめんなさい、もうそんな時間だったかしら。まだあの子学校から戻っていないんですよ。中で少し待っててくださる?」
「はい、それは構いませんが。部活ですか?」
 そういえば教える子については望から何も聞いていなかったと思い出す。学年さえ知らなかった。今日は顔合わせだけだと聞いていたからそれでも問題ないと思っていたが、やはり少しは知っていた方がいい気がする。
「ええ。サッカー部に入っていて。まあとりあえずお入りください」
 豊里夫人に案内され、大和は家の中に上がる。玄関の横から庭へ繋がっているらしいく、足元には鉢に植えられた小さな花が家を囲むように置かれていた。
 リビングは廊下の突き当たりにあった。玄関も小さな部屋ほどあったが、リビングはそれの比ではない。大和の住むアパートの一室を数個分入れたくらいの広さだった。
「そこのソファにでもお座りになってください。紅茶でよろしいかしら?」
 リビングに入ると夫人は対面式になっているキッチンへ向かいながら言った。
「あ、いえ、お構いなく」
 大和が振り返って答えたが、彼女は静かに笑みを浮かべただけで手際よく準備を始めた。大和はソファに座り、失礼だと思いつつ部屋をぐるりと見回した。
 キッチンと向き合うようにダイニングテーブルが置かれていて、リビングはその延長にあるように、L字型のゆったりとした大和の座っているソファがある。ソファは大きな窓の方を向いており、やや右側に薄型のテレビがあった。ソファの前には小さなテーブルが置いていて、花柄のテーブルクロスがかけられている。きっと彼女の趣味なのだろう。そういえば壁にも所々押し花を額に入れて飾ってある。
「日高さんと知り合いってことは藤崎さんもM大生?」
 トレイにカップを置いて運んできた豊里夫人が尋ねる。大和はそれを受け取りながら小さく頷いた。
「はい。日高さんは文学部ですけど僕は法学部で……」
 甘い香りがするその紅茶は、しかし香りよりはさっぱりとした味がした。
「日高さんはサークルの先輩なんです」
 夫人はトレイをテーブルの上に乗せると自分もソファに腰を下ろす。ちょうどL字の端と端なので軽く向き合った形になる。
「あらそう。M大に行くくらいなら安心して任せられそうだわ。もちろん日高さんの紹介っていう時点で信頼できる人だとは思っていたんですけど」
「そう言っていただけると嬉しいです」
 大和がほっと安心したように微笑むと、心なしか彼女の頬が赤く染まった。意味もなく顔に手を当て戸惑ったように笑う。
「ただ晴太が……。藤崎さんなら大丈夫だと思うんですけれど」
「セイタくんが、何か?」
 そういえばなかなか家庭教師が見つからないと言っていたらしいから、見つかっても何らかの問題があって誰もやるまでに至らなかったのかもしれない。それが家庭教師自身に問題があったわけではないとすれば、彼女の息子――豊里晴太に何かあるのだろうと簡単に予想がつく。ただその何かが分からない。大和の問いかける視線に夫人は困ったように溜息を漏らす。
「本当は元気で良い子なんですけど、塾をやめてから人見知りをするというか、特に“先生”という人になると警戒するようになって」
「塾で何かあったんですか?」
「それが私たちには何も言ってくれないんです。同じ塾に通ってた晴太の友達や親御さんたちにそれとなく伺っても特に何もなかったみたいで。けれどやっぱり学校でも特定の先生のことしか言うことを聞かないみたいなんです」
「あの、失礼ですけど、晴太くんは今いくつなんでしょう?」
 大和が遠慮がちに聞いてみると、彼女は少し驚いたように顔を上げた。大和は控えめに苦笑して見せた。
「あら言ってなかったかしら。今年中学2年生になったばかりですよ。塾をやめたのは中学に上がる前で、それまでは3年ほど通ってたんですけど突然やめると言い出して。でも成績もやはり落ちてきたので去年の冬くらいから家庭教師をしてもらおうと晴太とも話をしていたんですけど、なかなか晴太と気の合う人が見つからなくて……」
 大和は軽く頷くように相槌を打った。その話でなんとなく彼らの全体像を掴めてきた。塾の講師と晴太との間に何かがあったことは間違いないが、しかしそれが分かったところで大和にはあまり関係のないことのような気もした。晴太が大和のことをどう思うと、普通にアルバイトをするよりも条件が良いこの話を流すつもりはないからだ。
 残った紅茶がすっかり冷め切ったところへ玄関のドアが開く音がした。そのことに二人が気づいたのと「ただいま」というまだ幼さの残る男の子の声がしたのはほぼ同時だった。
「お腹空いた――……」
「おかえりなさい」
「こんにちは。お邪魔してます」
 リビングに入ってきた彼の姿を認めるなり夫人と大和が交互に声をかける。丸刈りに近い短髪が良く似合う活発そうな少年は、大和の姿を見るなり固まった。この人は誰だろうかと脳の中を逡巡させ、そういえば朝、家庭教師の先生が来るという話を聞いたなと記憶を手繰り寄せる。そんな彼の思考の動きを、大和は彼の泳ぐ目を見つめながら感じ取っていた。男子中学生にしてはやや背丈が低めの晴太は、けれどサッカー部で動き回っているせいか程よく筋肉のついたしなやかな体格をしており、くるくると変化する目の動きは素直そうで好感が持てた。
「ほら、晴太、挨拶は?」
 夫人の声で晴太はハッと我に返ったように視線を母親に合わせて止めた。
「あ、あーオレ、……着替えてくるっ」
 晴太はそう言うなり踵を返してバタバタと足音を立てながら2階にある自室へと駆けていった。どうやら大和の第一印象はあまり良くなかったらしい。
「すみませんねえ。あ、これおやつなんですけど、あの子の部屋まで持っていってくれません? 2階に上がって左側が晴太の部屋ですから」
 キッチンから出てきた彼女は二人分のジュースをコップに注いだものと、皿に盛ったクッキーをトレイに乗せて大和に手渡した。大和もその意図をすぐに理解し、快くそれを受け取った。早速二人で話してこいと試されるようだ。少し緊張するがそれを表に出さないようにニコリと微笑む。
「分かりました」
 リビングを出て廊下を数歩進み、階段を上がると左右に一つずつと正面に一つ、ドアがあった。大和は言われたとおり右側のドアの前に立ち、トレイを片手で持ち直すと、静かにノックする。返事はなかった。
「晴太くん? 入るよ?」
 もう一度ノックをして返事がないことを確認すると、ノブに手を置いてドアを開ける。
 まず目に入ったのが正面の大きな窓でベランダに繋がっていることが少し開けられたカーテンの隙間から知ることができた。左側の壁には勉強机や本棚が並び、右側にはベッドが置かれている。枕はベランダ側だ。晴太はそのベッドの上で制服のまま座り込んでいた。大和が部屋に入ると睨みつけるように見てくる。
「おやつ持ってきたから。お腹空いてるんでしょ? 一緒に食べない?」
 そう言って大和はベッドの前にそのトレイを置いた。この部屋には勉強机以外に机らしいものはなかったので床の上になるが、この際それは仕方のないことだろう。
 晴太は座ったまま動こうとせず、ただベッドの前に腰を下ろす大和の動きを黙って見ているだけだった。
「僕が先に食べてもいいのかな。美味しそうだよね。君のお母さんの手作りなのかな?」
 きっとそうだろうと思いつつ大和は店頭で売られていても可笑しくないほど整えられたクッキーを手に取り言った。おもむろにそれを口の中へ入れると、味わうように噛む。見た目どおり、なかなかの味で少し驚く。少しばかり少女趣味のある夫人だが、腕がそれに伴っているから誰にも文句は言われないのだろうと思った。
「食べないの?」
 大和が首をかしげながらベッドの上の晴太を見上げる。晴太は相変わらず大和を睨み続けていたが、その視線が先ほどよりも弱くなっているのを大和は感じた。その証拠に額に寄せられた眉がやや戻っているし、何より彼の目を見ていればくるくると動く表情のように何となく彼の感情が分かる。それがなぜなのかは大和には少し分かっていた。どことなく似ているのだ、大和の実弟である真に。
「全部食べちゃうけど」
 そう言って大和は本当に遠慮なくクッキーを口に運んでは飲み込んでいく。時々ジュースも飲みながら、ゆっくりと腹を満たしていった。おやつだなんていつ振りだろうかと懐かしく思いながら、しかし何も言わないのだから全て食べても構わないのかもしれないと思い始めた。
「……食いすぎだろ。それに」
 クッキーが半分以上無くなったところでやっと晴太が口を開いた。抑え目ではあるがはっきりと彼の声を聞けた。大和は満足げに微笑む。
「さっきから鳴ってるけどいいの? ケイタイ」
「え?」
 晴太の指摘に大和は慌てて自分の鞄から携帯電話を取り出す。確かに着信があった。それもメールではなく電話だ。バイブにしていたから気づきにくかったのだろう。
「え……」
 大和はその名前を見てもう一度呟く。不思議そうに自分を見る晴太の視線も気にならないほど、ディスプレイに全神経が集まった。本当は嬉しくて嬉しくてたまらないはずの電話だったのに、どうして今自分はここにいるのだろう。
――それは椿からの着信。
 今掛け直せば確実に繋がるだろう。しかし……。大和は少し躊躇いながら、それでも今ここにいるのは仕事だからなのだ、と携帯電話を鞄にしまう。動揺したように心臓がうるさくなるのは仕方のないことだが、それを露見にするような子供じみたことをするつもりもなかった。
「いいの?」
 晴太の大人びた問いかけに、いやこれは素直に掛け直さなくていいのかと聞いているだけなのだ、と気づく。
 だからといって大和はYesともNoとも言えずに、ただ苦い微笑を浮かべるしかなかった。