Cette Place

11


「どうして出ないんだよ」
 椿からの着信だとは知らないはずの晴太が不機嫌そうな表情で大和を見る。大和は動揺する心を見せないように戸惑いがちに微笑んだ。
「だって今は晴太くんと話す方が大事だと思ったし」
「嘘つき」
「え?」
 晴太に即座に言われ大和は今度こそ驚いたように目を開いて彼を見つめる。晴太はそんな大和を気にする様子もなく不機嫌なままクッキーに視線を落とした。彼の母親がおやつにと持ってこさせた手作りクッキーだ。その半分は既に大和が食べていたけれど。
「嘘なんて僕は――」
 吐いているかも知れない。本当は椿よりも大事なものなんて自分にはないことを知っている。けれど表面上はそれだけで済ませられないことも分かっていた。だから晴太の言っていることは正しいのだと思う。思うが、それでも。
「僕は今は」
「そういうのむかつく」
 さっきよりもずっと低い声で晴太が呟いた。吐き捨てるような言い方に大和は口を閉じた。
「そういう、オトナの言い訳って、すっげえムカツク」
 大人の言い訳。
 晴太の言うそれが何かは分からなかったが。
 確かにそうかもしれない。出なかったのは晴太が居たからではなくて、出たくなかったのかもしれない。――ばかばかしい。そう思う。
「出たかったら出れば良いじゃん。今からでも掛け直せば良いじゃん。オレに遠慮なんて、する必要がどこにあるんだよ」
 どうして分かるのだろう。彼はまだ中学2年生になったばかりの子供で、大和よりずっと年下のはずなのに。
 それに自分らしくないことは大和自身自覚していた。どうしても真と晴太が重なって“素”に戻ってしまいそうになる。
 以前の大和なら、ヤマトなら、もっと上手く立ち振る舞えていた気がする。
「……じゃあ」
 大和は気づかれないように静かに息を吐き出してから、そっと立ち上がった。これから電話をかけ直すらしいと分かった晴太の表情が心なしか柔らかくなった。
「ここで良いじゃん。オレ別に静かにしてるし」
 晴太の言ったことに大和は固まり、どう反応していいかと一瞬迷う。
「え……でも」
 躊躇う大和に晴太は再び視線を鋭くする。大和は彼が何を考えているのかさっぱり分からなかった。電話を目の前でされないことに何かコンプレックスでもあるのかと疑ってしまうが、それはすぐに否定した。多分電話自体に問題はないのだ。よくわからない根拠だけれど、きっと自分の知らないところで交わされる言葉が気になるのだと思う。それは大和にもある感情だった。
「別にアンタの話なんか興味ねえよ。それとも聞かれちゃマズイことでもあんの?」
 挑戦的な目に大和は頷くしかなかった。きっとここで拒否をすればこのアルバイトも失うことになるだろう。そんな気がした。
 大和は晴太に背を向けるように座りなおしてから、リダイヤルボタンを押す。数回のコールの後、恐る恐るといったように椿の声が聞こえた。
「もしもし?」
『あ、ひ、大和くん……?』
「うん。どうしたの?」
 いつもと違う椿の様子に、自然と大和の表情が険しくなる。そもそも椿から電話がある、ということも珍しいことだった。
 それに落ち着きのない雰囲気は電話越しからでも充分に伝わってくる。もしかして、と大和は一つ思い当たった。
「――そこに誰かいる?」
『え? う、あ、うん……、彩芽と芳香が』
 なぜ分かったのかと不思議そうに、そしておそらく二人は椿の傍にいるのだろう、囁くように小さな声で椿の友人である名前を言った。
 二人には椿とのことで色々と協力してもらった。今回も何かを企んでいるのだろうか。大和はこの際彩芽か芳香に直接聞いた方がいいのだろうか、と思案したが、せっかく椿からの電話なのだと思い直す。
『あの、あのね、もすぐゴールデンウィークじゃない?』
 少し上擦った声で椿が切り出した。
「ん、ああ、そうだね」
 答えながら大和は、もうそんな時季か、と思い巡らす。まだ大学に入ったばかりだという感覚の方が強いが、そういえば4月もあと1週間ほどで終わるのだ。
『あの、その間、こっちに帰ってくる予定とか、ある?』
「あぁどうだろう。サークルで何かやるかもしれないし、まだ決まってないけど」
『あ……そっか、そうだよね……』
 明らかに声の調子を落とす椿が可愛くて、思わずくすっと笑みを零した。少し意地悪だったかもしれない。
「どこか行きたい所あるの?」
 椿が望むのなら大和は迷うことなく椿と一緒にいることを選ぶつもりだった。椿よりも大切なものなどないと分かっている。
『え? ううん、無理はしなくても』
「無理じゃないって。なに、どこ行きたいの?」
『いや、ほんとに。あたしは大和くんの行きたい所がいいなって、思って……』
「ア、俺の……?」
 大和は思わず口を手で覆った。電話でしか、声だけしか届かないのが、とてももどかしい。目の前に居たら絶対に椿を抱きしめていた。
 どうしていつも彼女は、そんな嬉しくなるようなことを言ってくれるのだろう。柄にもなく自分の顔が赤くなっていくのが分かった。
『あ、ごめ、ごめん。そんなこと言われても、困るよね』
 慌てて謝ってくる様子さえ愛しくて。大和は嬉しさを隠すように目を閉じた。ここは自分の部屋ではないのだ、と冷静なもう一人の大和が耳の奥で囁く。
『あの、怒って、る……よね……?』
「なんで? 怒るわけないだろ」
 どうして大和が椿を怒る理由があるのだろう。思いがけない言葉に大和の口調が少し強くなった。それは大和自身が自覚しないほど僅かな変化だったけれど、椿は敏感にそれを感じたのか、ますます慌てたようにごめんね、と謝る。
「怒ってないから。もういいよ」
 いくら否定しても変わらず謝罪の言葉を繰り返す椿に、大和は少し苛立ち始めた。どうして、こんなにも椿を思っている自分が彼女を怒るわけがない、ということが届かないのだろう。それほど自分の言葉は信用がないのだろうか。
「帰れるようならメールするから、ね」
 できるだけ優しく言ってみる。そうしてようやく、椿も落ち着いてきたようだった。そのことに安堵しつつも、どこか悲しかった。
『うん。急にごめんね。ありがと』
「ううん、いいって」
 それから短く別れの言葉を交わして電話を切る。
 大きく息を吐いた。どっと疲れが出てきたみたいだ。椿を怯えさせたことに自己嫌悪する。あの会話の中のどこにそんな要素があったのか分からないことが一番辛い。
「……なんかさ」
 不意に晴太が口を開く。
「ん?」
 振り返ってみれば、クッションを抱いて丸く座る晴太が、おずおずと大和の方を向いていた。さきほどの電話のやり取りを全て聞いていたのだとすぐに察したが、だからと言って特に言うことも無かった。むしろそれを承知で電話をしたのだ。
「電話だと口調変わるのな」
「え?」
「どっちがホントのセンセイなの?」
 答えに詰まる。
 というよりは晴太が口にした言葉の意味を理解しかねていた。
 もしかして自然と女言葉に戻っていたのだろうか。いや、晴太が居ることはしっかり意識していたから、それはない。だとするとどんなふうに変わっていたと言うのだろう。椿がそう言うのなら分かる気もするが――。
 あ――……?
 椿なら、知っているのだ。大和が女言葉を使う自分とそうでない自分と、二つの大和が存在することを。大和が椿に教えたのだった。呼び名に拘ることも、それによって自らを縛り付けていることも、だから椿と離れてまでこの地へ来たことも。
 あの時大和は自分のことを何と言っただろうか。
「僕、は、“俺”って……」
 放った言葉を取り消すことはできない。それは何度も身をもって経験したことだ。それを分かっていたのに、無意識とは言え椿に……他の誰でもなく「藤崎くんは藤崎くんだよ」と言ってくれた彼女に、どうしてそんなことを言えたのだろうか。
 椿が何度も怒っているのかと確認してきた意味がようやく分かった。だが、それすらももう遅い。

 愕然とする大和を見つめ、晴太は「なんだよ」と詰まらなさそうに呟く。
「センセイも猫被ってんじゃん」
 それから可笑しそうに小さく笑った。自分の前で素の姿を少しでも見せてくれたことが晴太には嬉しかった。