Cette Place

12


 尚志は、これで何度目だろう、と思わず自分の指を見た。しかし当然のことながらそこに答えがあるわけでもなく。
「はあ……」
 ほらまただ。尚志はそっとカウント数を一つ足した。幾度目かの溜息を吐いた本人はそ知らぬ顔をして黒板を見つめている。
「何かあったのか、ヤマト」
 堪らなく尚志は口を開いた。だが悲しいかな、よりにもよって今は現代史の講義中である。これが次の商法Tならば問題はなかったろうに、と尚志は心の奥で嘆いた。しん、と静まった教室は100人ほどの学生が居るとは思えないほど厳粛な雰囲気で、それも全て教壇の上に立つ教授がこの時間を握っていることを表している。少しでも騒げば遠慮なく落とされると予想できた。
「何かって?」
 テキストを見たまま大和が返事をする。尚志は横目で教授の動きを確認しつつ、喋っていることをばれないように必至で声を抑えながら、それでも顔を顰めてみせた。どうして真面目に講義を受けていた自分の方が気を遣っているのだろうかという疑問を無視することは、意外に労力が要るのだ。
「それを聞いてるんだろ。さっきからその溜息、すげえ邪魔」
 尚志は言って、邪魔という表現が思いのほか的を射たものだと感じた。ウザいという安易な表現よりも、煩わしいという言い慣れない表現よりも、邪魔という言葉がまさに当てはまる。
「溜息? ――ああ、ごめん」
 大和は自分が溜息を漏らしていたことを指摘されて始めて気づいたように謝った。いや本当に気づいていなかったのだろう。尚志は今こそ盛大な溜息を吐きたいと思った。今度は呆れたように顔を顰める。
「何だそれ。また彼女に電話するなとか言われたのか?」
「違うよ」
 真面目に否定されて尚志は更に顔を歪ませた。尚志とて本気で言ったわけではなく軽い冗談のつもりで言ったのだ。それを真剣に答えられても面白くないのは当然のことだった。
「じゃあどうしたんだよ」
 だんだんと苛立ちを覚えながら尚志は隣に座るやる気の無い友人を見つめた。一応指示をされればページは捲るみたいだが、ノートはまだ白いままだった。ホワイトボードは既に黒いインクで埋め尽くされているというのに、だ。
「……椿ちゃんを」
「あ?」
「怖がらせちゃった」
 それはとても気が滅入りそうなほど気落ちした小さな声で。
「……あ?」
 尚志は幻聴でも聞いたかのようにまじまじと大和を見た。もう一度その言葉を聞き取ろうとしたが、既に大和は再び自分の世界に潜り込んだかのようにテキストを見つめ、溜息を一つ吐き出した。
 仕方なく尚志は大和に問いただすことをあきらめ、自分もテキストに目をやる。今は話にならない。聞くならこの講義が終わってからだな、と頭の隅で考え、意外に手のかかる友人の印象を改めることにした。

 次の講義が行われる教室へ移動すると、そこには既に麻耶と良子が姿を見せていた。尚志は迷わず彼女たちの隣の席を確保し、大和もその後に続いた。
「聞いてくれよ、麻耶と坂ちゃん。ヤマトの奴、また彼女のことで落ち込んでるみたいなんだ」
 席に着くなり尚志が心底困ったという仕草で二人に話し始めた。麻耶と良子は一瞬お互い顔を見合わせてから大和の方へ視線を向けた。心配そうに眉を下げる良子の横で麻耶が苦笑した。
「またあ? 今度は何が原因で?」
「またって……。こっちは結構キてるんだけど」
 嫌そうな表情で言う大和に「だって前が前だし、ねえ?」と麻耶と尚志が視線を合わせる。前回の一件で大和が彼女絡みで落ち込んでいる時はとてつもなく小さなことであるに違いないという認識が彼らの中でできたようだ。当事者の大和にとって大きな事かもしれないが、第三者にとっては惚気と同じなのである。
「それでも聞いてあげようって言ってるんじゃないの。授業始まる前に話しちゃって。溜め込むより楽になると思うしさ」
 麻耶は苦笑を浮かばせつつ大和に話しかけた。ね、と隣の良子に声を掛けると、彼女も小さくコクンと頷く。
 大和は少しだけ考える仕草を見せてから、いよいよ意を決したように口を開いた。確かに溜め込んだままよりは良いのかもしれない。
「彼女、大人しい子で、すぐ遠慮しちゃうんだ」
「へえ」
 意外だ、と尚志は思った。大和くらい整った顔立ちで性格も申し分ないのなら高校時代も充分モテていたはずで、だからそんな彼を射止めたのはきっと彼女が積極的だったからだと思っていたのだ。大人しい子がどうやってこの男を落とせたのか、尚志の僅かな好奇心が胸の中で疼いた。
「でも――」
 そこで大和は思案する。椿を怖がらせた原因を話すには言葉遣いのことも話さなくてはならない。だが大和は大学で出会った彼らに自分の生い立ちなどを話すつもりは無かった。面白くない話であるし、話すにしても大和が育った環境は少々複雑で、何より話したところでそのことに意味があるとは思えないからだ。
「ちょっと……強く言い過ぎて、彼女を怖がらせちゃったんだ。せっかく彼女からデートに誘われたのに、それにも応えなかったし……」
 どうしてあんなふうに言えたのか、大和は今でも自分が信じられなかった。椿を怖がらせた自身を締め付けたくなる。
「デートって? ヤマトの彼女って地元なんだろ?」
「ゴールデンウィークにって。もうすぐでしょ」
「ああ、なるほど。それでデートがダメになって落ち込んでるわけだ」
 納得したようにウンウンと頷く尚志を一瞥した大和は、しかしまだ遠くを見つめていた。
「それもあるけど」
 デートがどうのというのは大した問題ではない。もともとそれほど頻繁に帰るつもりのなかった大和には、それ以上に大きな問題が生じていた。
「けど、何?」
 麻耶が尚志の横から大和の顔を覗き込むように見上げる。
「それきり彼女、電話を取ってくれなくて。メールも返事がないんだ」
 言って、大和は口を閉じた。歪ませた表情は本当に辛そうで、思わず麻耶や尚志の表情も歪んでしまう。
「それ、音信不通、ってこと?」
 恐る恐る麻耶が言えば、キッと鋭い視線で大和に睨まれた。反射的に肩を震わせる。
「それ以外に何があるんだよ」
 明らかに普段の温和な口調と異なるそれに、麻耶だけでなく尚志や良子も肩を震わせた。
――恐い。
 初めて友人に恐怖心を抱いた。容姿が整っているだけに迫力は常人とは違うようだ。
「……まあ、でも」
 その張り詰めた空気を一番に破ったのは、それまで静かに聴いていた良子だった。少し強張った声で、けれど平静を装うように優しくも激しくもない口調で良子は言った。
「ゴールデンウィークのデートは応えなくて正解だったかもしれないね」
 大和の視線は更に鋭くなるが、良子を振り返った麻耶と尚志には関係が無かった。二人は大和からの視線を避けられて安堵しながらも、良子の言葉に首をかしげた。
「どういうこと?」
「だってゴールデンウィークは地球環境研究会の合宿があるみたいだから」
「そうなの、坂ちゃん?」
 尚志の問いに良子はコクンと頷いた。
「うん。東原先輩が言っていたから間違いないと思う」
 答えてから良子は再び大和へ視線を向けた。既に大和の鋭く細められていた目は元の形に戻り、普段よりも落ち込んだ姿になっていただけだった。
「だからね、ヤマトくん」
 良子の控えめな声に大和は黙って顔を向ける。良子はできるだけ優しい笑顔を浮かべた。
「ヤマトくんも彼女のことばかりじゃなくて、何か気分転換できること見つけたら良いんじゃないかな」
「気分転換?」
「うん。実は今日ね、その合宿で必要なものの買出し頼まれたんだけど、ヤマトくんも一緒に行かない?」
「坂ちゃん、それってただ荷物持ちが欲しかっただけなんじゃないの?」
 尚志が冗談めかして言うと、良子は慌てて首を振った。彼女の頬が少し赤らむ。
「あ、ごめん、そういうつもりじゃなかったんだけど」
 その焦る仕草に尚志も麻耶も声を立てて笑い、遅れて大和も表情を和らげた。
 きっと彼女なりに気を遣ってくれたのだ。いつまでも彼らの前で落ち込んでいてもそれこそ意味のないことだ、と大和は感じ、テキストを握っていた手を持ち上げて頬に当てた。
「良いよ」
 尚志と麻耶は笑うのをやめて大和の方へ振り返った。
 軽く頬杖をついた大和が微笑んでいる。
「荷物持ち、付き合う」
 にっこりと笑みを見せれば、三人に安堵の息が漏れた。
「うん」
 良子も微笑み、そしてタイミングよく、講義が始まるチャイムが鳴った。