Cette Place

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 太陽はすでに傾いて、カーテン越しの窓からはオレンジ色の光だけが部屋を照らしていた。半年振りに帰ってきた実家には誰も居なかった。タイミングの問題だということは分かっていても、少しほっとする。
 リビングに誰の姿も見えないことを確認してから、大和は自分の部屋がある二階へと上がった。小窓から太陽の赤い光が階段を照らし、自分の影を伸ばしていた。トントンとこ気味良い足音が懐かしかった。木造建築特有の木の匂いもここがアパートではないことを感じさせた。
 必要な机やベッドといったものは全てアパートへ持ち込んだ為やけに殺風景と化した部屋は、以前帰ってきてから6ヶ月の月日が流れたとは思えないほど――呆れるほど代わり映えのしない様で、誰も手を付けていないことが守られている様でもあり無関心な様でもあるように思えた。そう思う己自身がひどく滑稽だ。何かを期待していたのかと問えば絶対に返ってくる答えは“否”であるのに。
 大和は荷物を部屋に置くとリビングへ降りてソファへ腰を下ろす。することもないのでテレビを付けた。正月仕様の特別番組が流れていた。
「ああ、なんだ。もう着いてたのか」
 暫くして父が帰ってきた。大和の姿を見つけるなりそう言った。大和が顔を上げると「連絡してくれれば迎えに行ったのに」と笑った。
「……親父一人?」
「ん、ああ。母さんは買い物だし、真も遊びに行っているからな」
 言いながらダイニングチェアに腰を下ろす。だからか、と大和は納得した。母の居る前で父はあからさまに大和に向かって笑顔を見せることがなかった。
「そういえば明日の夜はどうするんだ?」
 ふと思いついたように問いかけられたそれに、大和はすぐに返事が出来なかった。
「俺――」
 考えていなかったわけではない。だが用意していたセリフはいざ目の前に差し出そうとすると、それで良かったのか確信が持てなかった。ただの独り善がりでもいいと思っていたのに、本当にそうなってしまったらと考えると怖くなった。
「……俺は」
「昨年はお前、一人で家に残っただろう」
 なかなか答えない大和に苦笑を洩らして、父が畳み掛けるように繋いだ。細かった大和の声は呆気なく掻き消されてしまう。
「今年も留守番するつもりか? 真は友達と初詣に行くみたいだし、父さん達も行くつもりだけど」
「あのさ、俺――」
 意を決して大和が口を開いた直後、玄関の鍵が開けられる音が聞こえ、咄嗟に大和は声を喉の奥に押し込めた。そんなつもりはなかったのに、条件反射のように息を止めた。リビングのドアが躊躇いもなく開けられる。
「真? 帰ってるの?」
 母と大和の視線が交わる。刹那、二人の動きが止まった。
 それでもすぐに動いたのは母の方で、いつものように何も見なかったの如くキッチンへと姿を消そうとした。
「あ、あのさっ」
 大和は勢いで立ち上がった。驚く父には目もくれず、ただ母親へ視線を向ける。背中を向けてキッチンに移動した彼女に大和は叫ぶように言葉を放った。どのくらいの大きさの声で話せばいいのか知らない幼子のような気分だった。
「俺、今年は初詣、彼女と行くから! それで家に連れて来るから! 逃げないで会って欲しいんだけど、良いよな! ちゃんと俺の母親振ってくれるよな!」
 キッチンで忙しなく動く彼女はやはりというか、予想通りに何も返事はせず、振り向くことさえしなかった。
 けれど声は届いているはずだ。大和はそう思うことにして、腹の底で渦巻く憤りを抑えこむことにする。舌打ちしそうになってソファに腰を下ろしテレビに視線を向けた。それでも眉間に皺が寄ってしまうのは仕方のないことだろう。
「彼女……できたのか」
 父親が弱々しく微笑んでみせる。
「昨年から付き合ってる」
 大和はテレビを見たまま低く呟く。
「……そうか」
 本当はどういう子なのかとかなぜ今まで黙っていたのかとか色々聞きたいことがあったのだが、大和の不機嫌さを見て父は口を閉じた。つくづく妻と似ている息子だ、と内心思わずにはいられなかった。


 大晦日に除夜の鐘を聞いて元日に初詣に行くという日本の習慣は、そういえば不思議なものだと思う。その1週間前にはクリスマスを祝っていたことを思えばなお面白い。キリスト教に仏教に神道と宗教行事が目白押しである。けれど無神論者が多いのも可笑しなものだ。そのくせ困った時は“神頼み”をする。それがいいのか悪いのかは分からないが、大和は目の前を行き交う人々を眺めながら、自分もその中の一人なのだと妙に納得した。
「大和くん、お待たせ」
 茶色のブーツを履き、白いダッフルコートを着て、ブラウン系のチェック柄が入ったマフラーを巻き、白い毛糸の帽子を被った椿が白い息を吐きながら近づいてきた。寒さでほんのり頬が赤くなっている。
 最後に会ったのが夏だったからか、真冬仕様の服装の椿がなんだか新鮮で、大和は知らず胸を高鳴らせた。
「何か考え事でもしてた?」
 ぼんやりと突っ立っていた大和の姿を見ていたのだろう。椿がキョトンと首を傾けて言った。そんな仕草がいちいち可愛くて、大和は自然と笑みになる。
「ううん、別に。それより暖かそうな格好してるね。手袋は? してないの?」
 大和が掌を見せるように腕を前へ出すと、つられて椿も両手を前に出した。手袋はしておらず、触れると白い肌は氷のように冷たかった。ダッフルコートを着込んだ外見とは違いすぎるその冷たさ加減に大和は驚いた。
「冷たっ! 椿ちゃん、冷えすぎ!」
「冷え性だからねえ。大和くんは暖かいねえ」
 大和自身も手袋はしてなかったが、のんびりとした口調で答える椿に大和は難しい表情を浮かべた。重なった互いの手を見つめている椿はそんな大和の睨みに気づかない。堪らなく大和の口から溜め息が漏れた。
「暖かいねえ、じゃないでしょ。なんで手袋してこなかったの」
 鋭い雰囲気にようやく椿が顔を上げた。大和の細められた目に、椿は肩を竦ませて困ったような上目遣いをする。大和は一瞬たじろいだが、なんとか踏み止まる。
 ……いつの間にこんな技を身に付けたのか。
「前に使ってたヤツに穴が開いちゃってて」
「新しいのは買ってないの?」
 間髪入れず頷く椿に、大和は彼女の頬を両手で挟んだ。
「ひやっ!」
 ひんやりとした大和の手に椿が驚いた声を上げる。さすがに顔に当てれば彼の手も同じように冷たく感じる。
「ばか」
 大和は彼女の頬を挟んだまま顔を上げさせ、怒りを抑えて窘めるように言った。
「椿ちゃんの馬鹿。前も言ったの、覚えてるよね? 椿ちゃんを傷つけるのは椿ちゃん自身でも許さないって」
「傷つけてないもん」
「こんなに冷やして身体に良いわけないでしょ」
 そうして、大和は両手を離すと、片手を繋いでそのまま自分のジャケットのポケットに突っ込んだ。
「だからずっとこう、ね」
 横に並んでにっこりと微笑む大和を見上げ、けれど椿は腑に落ちない様子で頷いた。
「大和くんて細かい……」
 冷え性なんだからしょうがないじゃん、と心の中で不満に思う椿は、それが口に出ていることに気づかないでいた。
 しかしこうしてずっと手を繋いでいてくれるのは嬉しいので、暫く歩いているうちにすっかり気分は良くなる。昨年は家族で祖父母の家に行っていたし、大和が受験を控えていたこともあって、こうして初詣に出かけることもなかったのだ。今年は大和の誘いがあったから嬉々として無理を言い、一人だけ家に残った。家族に冷やかされても平気なほど待ち望んでいた。願わくば大和も同じ気持ちであってほしい。
 地元で一番大きな神社にはこれだけの人がこの街にいたのかというほど長い列ができていて、毎年祖父母のところへ行っていた椿と昨年は遅めの初詣いになった大和は、素直に驚いた。繋いでいる手を引っ張って大和が「すごいね」と言えば、椿もマフラーで半分隠れている顔を上下させて「すごいね」と答えた。
 ようやく鳥居が見えてきた頃、日付が変わったらしく、それをケイタイや腕時計で見ていた人々がざわめきだす。それに気づいて大和と椿も顔を見合わせて微笑んだ。
「あけましておめでとう」
「あけましておめでとう」
 一番最初に言えて良かったと思う。一番最初に繋いだ手が好きな人のもので幸せだと思う。
 同じ時に隣に居てくれているのが彼女で嬉しいと思う。
 これからも一番最初に言葉を交わすのが彼女であってほしいと願う。一番最初に感じる温もりが彼女のものであってほしいと願う。
 ずっと隣に居てくれるのが彼女であれば何もいらないと分かっている。
 先の未来なんて誰にも分からないし、この先どうなるかなんて想像も出来ないけど、自分で築き上げたこの場所だけはなくさないでいようと心に誓う。
 強く握った椿の手は小さくて、けれど力強く握り返してくれたので、大和はこの温もりを守ろうと思った。
 ようやく辿りつき、ポケットの中で握っていた手を離す。椿の手がするりと抜けたポケットの中は寂しくなったが、神様に報告するためには仕方がない。賽銭を投げて鈴を鳴らす。拍手をして合掌し、目を閉じた。

 帰り道の途中で配っている豚汁を食べ終え、大和はまた椿の手を取ってポケットに入れた。椿は照れながらも何も言わず、黙って握り返した。
 そんな椿の様子を伺っていた大和は、もう片方の手で拳を作る。力を入れすぎて少し爪が皮膚に食い込んだ。――大丈夫だ、先ほど神様に宣言してきたばかりなのだから。
「ねえ、椿ちゃん」
「うん?」
 屈託のない表情で椿が見上げてくるのを、大和は視界の端で確認しながら、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「この後さ、家に来てくれる?」
 言って、静かに椿の顔を覗きこむ。椿は目を丸くさせてじっと大和の顔を見つめていた。
「……大和くんち?」
「そう。僕の家。家族に、会ってほしいんだ」
「え……っと……」
 困ったように椿は繋いでいない方の手で自分の髪を梳く。どうしていいか分からない時に彼女がよく見せる仕草だった。
「そんなに深く考えなくていいよ。ただ紹介しておこうと思って。僕の親父と……母さん、に」
 最後の方はなんだか不自然な言い方になってしまったのは、きっと椿も気づいていた。
 だから椿は大和の手を握り締めて頷いた。
「……うん。分かった」
 たったそれだけのことで。
「ありがとう」
 泣きそうになるのを自分で苦笑しながら、浮かべたのは微笑だった。

 願わくば。
 【この場所】がかけがいのないものであるようにと。

F I N .

 

ご精読ありがとうございました。
『Je t'aime』は続編『Cette Place』を持ちまして完結です。
このあとも椿と大和には波乱万丈なアレやコレが待っておりますが、
それはそれとして、幸せで甘甘な二人をご想像してやって下さい。
最後までお付き合いありがとうございました。
2008.12.30. up  美津希