天つ神のおまじない

天つ神のおまじないT


 四月。すみれは着慣れないリクルートスーツに履き慣れないハイヒールという出で立ちで、馴染みのある改札口の前で立っていた。一度も染めたことのなかった髪は若干明るみを出している。母親に教わりながら施した少しの化粧で、すみれはまるで自分が自分でないように思えた。

(これであたしも新たな人生を歩んでいくんだわ)

 恥ずかしさと見てほしいという両方の気持ちを胸に、落ち着かない様子で何度も腕時計と壁時計を比較する。しかし先ほど見た時とまだ3分も違っていなかった。待ち人はなかなか現れてくれない。

『少しは落ち着いてみたら?』

 耳の後ろから少女の声が聞こえた。もちろん立っているのはすみれ一人だ。誰かが突然話しかけてきたわけではない。その事にすみれは驚きもせず、ただいつものように怪しまれない程度の小声で返事をした。

「充分に落ち着いてるわよ。でも遅すぎない? もう20分は待ってるのに」

『でも約束の時間にはまだなってないよ』

 少女の言うことは間違っていない。ただすみれが早く来ていただけのことだ。しかし5分前はとうに切っている。もうそろそろ来る気配がしても良さそうだ、とすみれは少し苛立ってきていた。

(これじゃあ1年前と変わらないじゃない)

 もう一度自分の腕時計と公共の壁時計を比較する。そろそろ約束の時刻になろうとしていた。



 すみれが彼と出会ったのはちょうど1年前の春、高校3年の始業式の時だった。

「君、月島すみれさん?」

 唐突に、なんでもない休み時間の廊下が異空間にでもなったような感覚に陥った。それほど彼に――面識もなかった転校生という存在に――自分の名前を呼ばれたことは衝撃だった。もちろんすみれ自身は目の前に立つ彼のことは風の噂で知っていた。知ってはいたが、実際に目にしたのはこの時が初めてで、見た瞬間には彼が噂の転校生だということに気づかなかった。

「はい、まあ、月島ですが」

 呼ばれたからには返事をする。だがなんとなく自分が呼ばれたことが腑に落ちない。すみれは遠慮もなく怪しげな表情をしてみた。そういえば彼の名前は何だったろうか?

「月島さん、最近ツイてないでしょ」

「は?」

(何を言ってるんだ、こいつは)

 すみれは思い切り間抜けな顔になった。まるで占い師のような口調の彼を見つめ、ああそうだ、と彼の名前を思い出した。

「明日足莉公園で待っててよ。時間は……そうだなあ、朝の11時くらい。そしたら良いことあるよ、きっと」

 それだけ言うと彼――柴島大河はすみれに背を向けて遠ざかっていった。

(何なんだ、いったい……)

 明日は学校が休みになる土曜日だ。

 わけの分からないまま、すみれは素直に大河の言葉に従い、翌日の午前11時10分前には駅の近くにある小さな児童公園のベンチに腰掛けていた。雑草が好き放題伸びているこの公園はあまり人気がなく、天気もすこぶる良いというのに子供の声一つ聞こえない閑静な空間だ。

 どうしてこう素直に従ってしまったかといえば、すみれ自身大河の言葉に思い当たる節がいくつかあったからだ。例えば買ったばかりのシューズの紐が切れたり、大雨の日にコンビニに入ったら傘をパクられたり、自転車の鍵を溝の中に落としてしまったり。ツイてないでしょ、と断定的な言い方をされて否定できなかった。それは最近そう思っていた矢先のことだった。もしかすると単なる思い過ごしかもしれないけれど、良いことがあると聞かされて興味や好奇心が生まれないというのは嘘だと思う。

(しかし、実際来ちゃってるあたしってどうよ? 何気に病んでるんじゃないか?)

 すみれはそろそろ11時になることを確かめると少しばかり来たことを後悔し始めた。良いことがあると言っていた本人の姿が一向に見えないことが何となく不安にさせる。

(もしかして騙されてたり……?)

 そんなふうに思っていると突然あたりが暗くなった。雲が大きく太陽を隠してしまったのかと顔を上げてみると、待っていた顔が自分を覗き込むようにしていた。

「ほんとに来たんだね」

 にっこりと笑う大河のそれは、馬鹿にしたような言い方ではなく、安堵した口調でもなく、ただ「来たんだね」とすみれを迎え入れるようなものだった。

「柴島くんが来いって言ったんじゃない」

 すみれが反論するように言うと、大河は彼女の隣に腰掛けて「そうだね」と頷いた。

「じゃあツイてない月島さんにツかせてあげるよ」

 言うや否や、大河はすみれの手を取った。優しく彼女の手の甲を撫でると、そこから熱が奪われるように寒くなったような気がした。思わず身震いをすると、大河はもう一度同じ場所を優しく包み、撫でた。すると今度は燃えるような熱さが生まれすみれは大河から手を離そうとする。

「なに!?」

 驚くすみれに大河はなんでもないように手を握り締め、放すまいとする。そして小さく何かを呟くと、やっと手を解放してくれた。

「さっきのは幸せになるおまじない。困ったことがあったら六合を呼ぶといい」

「りくごう?」

 すみれは自分の手の甲を摩ってみる。先ほどまで感じていた焼けるような熱さはもう残っていなかった。

「そう、六合。きっと月島さんの力になってくれるよ」



『あ、ほら、来たわよ』

 六合の声にすみれは我に返った。改めて辺りを見回すと確かにこちらに向かって歩いてくる大河の姿が見えた。彼もまた新調されたスーツ姿だ。遠目から見ても分かるほどとても似合っている。

(そういえば見た目はカッコいいんだよね、柴島くんって)

 1年の付き合いだというのに、すみれは新発見でもしたかのように大河を見つめた。身長はずば抜けて高いというわけではないが、彼の持つ独特の雰囲気やハーフのような整った欧米風の顔立ちは見るものを惹きつける。その彼がすみれを見つけて嬉しそうに笑顔を見せるのは、自分のことながらどこか不思議に感じる。

「おはよ、すみれ」

「おはよう。じゃああたし行くから」

 挨拶もそこそこにすみれは改札を潜ると右側の階段へ向かう。大河は「うん、じゃあね」と左側の階段へ向かって歩く。

『すみれたちって変よね』

 階段を下りてホームへ出る頃、六合がぽつりと呟いた。

「変なのは柴島くんでしょ」

 お互い逆の方向の大学へ行くというのになぜ同じ時間に待ち合わせなんかをしなければならなかったのか、すみれは未だ疑問に思っていた。そもそも言い出したのは大河であって、彼の考えることはすみれの理解を超えることばかりだ。

『まあ仲がいいのは良いけど――右に気をつけて!』

 六合の忠告どおり危うく右足で隣の女性の足を踏むところだった。すみれは内心ほっと息をつきながら、向かい側に見えた大河の姿を捉えた。

(成長しないなあ、あたしも)

 何だかんだと大河の言う事を聞いてしまう自分に、そっと溜め息をついた。


≪ F I N. ≫

   

+++ あとがき +++
ご精読ありがとうございます。
久しぶりのSSがお下がりってのもアレですが…。
当時は連載もので考えていたので、その感じ丸出しです。
2つまで書いてあったので、両方を一気に蔵出ししました。
気に入っていただければ幸いです。
2008/05/05 up  美津希