天つ神のおまじない

海水浴編


爽やかな青空。煌く太陽。輝く白い砂浜。

賑やかな海を前にして、テントの中で大河は不機嫌さを隠しもせずに睨みつけていた。――この状況を作り出す原因になった彼女、すみれのはしゃぐ姿だ。

「いい加減になさったらいかが? せっかくの男前が台無しですわよ」

大河の隣で同じように太陽の熱から体を隠している貴人が、呆れたように横目で彼を見る。それほどここに来たくなかったのなら来なければ良かったのに、と思ってしまう。無論、すみれの傍を離れることは、みすみす敵地へ彼女を送り込むことになるので、あり得ない事ではあるのだが。

「お前の言いたいことは分かってる。けど、どうして海なんだ。海なんて忌み者の巣でしかないだろう」

大河は吐き捨てるように言った。この類の不満は当然すみれ自身にも伝えたことだ。海や山は美しければ美しいほど人の邪念が少なく、その分感情が入り乱れている街中よりも怨念を溜めやすい。そういう所にこそ厄鬼は集まってくるのだ。そのこともすみれには忠告していたはずだった。

だが彼女は“学校行事”という使命感の元、大河からの忠告を無視して、この夏休みに清掃のボランティアとして観光地とは言い難い小さな町の海辺まで行くことを決めた。すみれ達の通う高校はこういったボランティア活動に力を入れており、春は介護施設へ行き、秋は稲刈りの手伝いをし、冬は山道の清掃をしたりする。

「ちょっと柴島くん! 来たんならサボらないで手伝ってよ!」

大河が一生懸命にビニール袋にゴミを入れていくすみれを睨みつけていると、いつの間に来たのか、目の前には怒った表情のクラスメイトが彼を見下ろしていた。ショートヘアが似合う活発なこの少女は、確か学級委員であった気もする。

「ああ、ごめん。ちょっと暑さにやられたみたいで。すぐに戻るよ」

戻る、と言いながら実際は未だに空き缶の一つも拾っていないのだが、大河がにっこりと微笑めば彼女はそれ以上何も言えなくなってしまったらしい。無理だけはしないでね、と言って海辺へ戻っていった。呆れた、と貴人が呟く。

「すみれの能天気さも困りものですが、そこまで機嫌を悪くするのなら縛り付けてでも止めれば宜しかったのに」

天后とは違い、貴人の言葉はオブラートに包むということをあまりしない。物騒なものの言い方に、さすがの大河も顔を顰めた。

「とりあえず今のところ厄鬼の気配も感じませんし、厄師よりも高校生としての役目を果たした方が賢明です」

最後に美しく艶やかな笑みを浮かべ、貴人は霞のように姿を消した。ヒト一人が消えたというのに、その変化に気づくものは大河を除いて誰一人としていなかった。

静かになった隣を横目に、大河は盛大な溜め息を吐き出す。

「俺は海が苦手なんだ」


重い腰を上げた大河は軍手を嵌め、配布されたビニール袋を片手に、一人離れた場所でゴミを拾うすみれの元へ近づいた。ずっと突き刺すような日差しの中に居たからだろう、束ねた髪から覗く項と半袖のパーカーから出た腕とハーフパンツを履いた足を見て、大河は朝よりもその肌が赤く焼けていることに気づいた。もともとすみれの肌は白い方だったから、その変化は少し見ていて痛々しい。

「月島さん、そろそろ水分取ったほうが良いんじゃない? 皆勝手に休憩入れてるけど、月島さんは全然休んでないだろ」

そう声を掛ければ、すみれは思い出したかのように喉の渇きを覚えた。顔を上げて注意してくれた大河に微笑んで、そうするね、と頷いた。

「それにしても熱心だよね。こういうの好きなの?」

ふと思い立って何気なく大河は尋ねてみた。自分では到底真似できないな、と思いつつ、しようとも思わなかったけれど。

すみれは「うん?」と小首を傾げて大河を見上げる。少しだけ大河の胸が高鳴ったのは彼が上目遣いに弱いからだ。すみれが特別というわけでもない。

「そうかな。何も考えずに黙々とする作業は好きだけど」

「へぇ」

「あ、そうだ。さっき拾ったんだ、これ」

不意にすみれが着ていたパーカーのポケットに手を入れる。その表情は楽しそうで、宝物を見せる子どものようにも見えた。

すみれが取り出したのは石だった。どこにでもありそうな石粒は、けれど波によって磨かれたのか凹凸はなく、見方によっては美しい青緑の色をしている。大河は海の色だと思った。

「綺麗でしょ? 子供の頃もね、よくこうやって綺麗な石を集めたの。懐かしいなぁと思って」

目を細めて話すすみれを見ながら、大河は適当に相槌を打つ。大河には幼少時、海で遊んだ記憶はなく、彼女の話に共感はできなかったが、確かにすみれらしい。

「それで?」

大河に促されて、すみれは困った。特にそれで、ということもなかったからだ。

彼はつまらなく無駄なことだと呆れているのだろうか。そうだとしたら悲しいが。

「う…ぅん、と……。青龍はこういうの好きかなあ?」

すみれの口から出た式神の名に、大河は器用に片方の眉だけを吊り上げて彼女を見た。

「どうしてそこで青龍が出てくるんだ?」

「え? 別に深い意味はないけど。この石の色、青龍に似合うかなと思って」

「……」

「それにこの前、厄鬼から助けてもらったし。……ああ、まあ、お礼に小石ってのもどうかと思うけど」

何も言わない大河に焦って、すみれは乾いた声で苦笑して見せた。幼稚園児でもないのだから、そんなお礼の仕方があるかと、自分でも思う。今のは失敗だった。

だが、フッと笑った大河から出たのは、すみれが想像していたものとは違う言葉だった。

「青龍が厄鬼から月島さんを守るのは当然のことだし、それを月島さんが気に病む必要もないよ」

「そうかな? でも――」

「青龍だけでなく式神が月島さんを守るのは俺からの命令であり、彼らの意思に伴うものじゃない。礼なんてものは無用だ。それにこの先、厄から救ってもらう度に式神らに礼をしていたら月島さんの身がもたないよ?」

すみれにとっては酷く冷たい言い草に聞こえたかも知れない、と大河は頭の隅で考え、だからというわけでもないが困った顔をするすみれの髪を撫でて優しく微笑んだ。心優しい彼女には式神たちの扱いにも慣れてもらわなければ困るのだが、彼女のこういった表情を見て放っておけない自分がいるのも事実だ。厄介なことになってきたな、と胸の内で苦笑する。

「けど、まぁ、月島さんから礼を言われれば青龍も喜ぶだろう。それに俺もその石の色は青龍に似合うと思う」

大河が賛同の意を表した途端、すみれの表情が華やいだ。笑みが零れる。大河の顔も僅かに緩んだ。

ふわ、と生暖かい風が吹く。

僅かに舞った砂がすみれの目に入り、思わず手で避けた。痛さで目が閉じ、反射的に涙が浮かぶ。

あ、と声に出したのはすみれか大河か、いずれにしてもその瞬間は既に遅かった。

青龍に渡そうかと思っていた石がすみれの手から滑り落ちる。

「あっ、石が」

「ダメだ、月島さん!」

慌てて大河が腕を伸ばした。

だが体を翻して石を追いかけるすみれの腕には届かなくて。

波打ち際に居たすみれの足は簡単に波に濡れた。

「青龍!」

大河が叫んだ。

波がすみれの足に巻きついた。

それらはほぼ同時の出来事で、すみれには事態が飲み込めなかった。どうして大河が必死の形相で叫んでいるのか、足に触れた波が引かないのはなぜか。

理解したのは。

――波によって足が引きずられ、体が反転し、目の前にあった眩しい空は水面の向こう側になった。

“何か”によって自分が海の中へ沈められているということ。そう判断した時には、既に息はできず、空気が昇っていく泡の音しか聞こえなくなっていた。どんどんと空が遠ざかり、透き通るような青はすぐに濁った青緑へと変化した。

助けを呼ぼうにも、口を開ければ酸素が逃げていくだけだ。

死。

刹那的にその文字が脳裏に浮かんだ。恐怖ですみれは目を閉じた。嫌だ。こんなところで死にたくない! 家族と、友達と、大河と式神たちと、まだ別れたくない……!!

どうにか動く腕は、けれど伸ばしたところで掴めるのは形のない水ばかりで役に立たない。ふよふよと浮かんでいるのと変わらない。

それでも何とかしなければ、という思いだけで腕を振り回す。水圧で体が重い。振り回す、と言っても動きはかなり制限されているように感じた。

怖い。恐い。怖い。恐い。

腕が疲れてきた。息ももう、止めていられない。酸素が欲しい。

意識が……遠のく――。

果たして自分の腕は動いているだろうか。必死にもがいているだろうか。

力はどうやって、入れていただろうか。

やがていよいよ耐えられなくなり、すみれは――。

最後の泡を吐き出した。



海から上がってきた青龍の腕には青白くなったすみれが横に抱かれていた。目を閉じ、意識はないようだ。

「遅いぞ。息は大丈夫なんだろうな」

騒ぎにならないよう大河は岩陰にすみれを寝かし、青龍を睨みつけた。青龍は顔色一つ変えず、小さく頷く。

「命に別状はない。ただ、これを探していて遅くなった」

そう言って青龍が掌を差し出した。中にあった物を見てますます大河の表情が険しくなった。

しかし青龍は反して穏やかな顔つきに変わる。

「すみれが私のために探してくれた石だ。失くすわけにもいくまい」

「なるほど、すみれ……ね」

これまで一度とて呼ばなかった彼女の名を青龍が口にした。それは式神が彼女を護るべき主人として認めたということなのだろう。

それは当然のことであって、喜びはすれど非難するものではないのだが。

――面白くない。大河の心情を簡潔に代弁すれば、その一言に尽きた。式神たちよりも遥かに好意的に接してきた自分でさえも名前で呼んでいないというのに、いきなりそれを横取りされたようで、怒りにも似た感情が湧き上がる。大河自身、それが嫉妬というものであることは、未だ気づいていないのだけれど。

だからわざと、青龍の目の前で大河はすみれに唇を寄せた。

青龍にそのような感情がないということは分かっている。意味のない行為だとも充分承知した上で、けれどそれを止める者がいないのも事実だった。

すみれの唇に顔を近づければ、彼女の小さな呼吸が聞こえる。それが確認できたことに安堵し、大河は目を細めて口付けた。薄く冷えた唇、のその下へ。僅かに水音を立ててキスをする。塩辛い、苦手な海の味がした。


すみれが目を覚ます頃には青龍は既に姿を消し、大河は彼女の頭を膝の上に乗せ、髪を指に絡めて遊んでいた。。すみれがぼんやりと目を開ければ、大丈夫か、と大河の優しい声が降りてくる。

「あ……柴島くん、あたし……」

「ああ、海に引きずりこまれたな、厄鬼に。呪縛霊の一種のヤツだ」

「そっか……。あたし、また迷惑かけちゃったね」

厄鬼がすみれを狙うのは仕方のないことにしても、もう少し注意を払うべきだった。すみれは瞼を伏せて溜め息を吐いた。

と、落ち込みを見せたのも束の間、彼女はすぐに今の己の体勢に気づき、慌てて体を起こそうとした。不可抗力だとはいえ膝枕はさすがに遠慮する。

しかし大河がすみれの両肩を押して彼女が起き上がるのを阻止した。すみれは「え?」と戸惑いの表情を浮かべる。

「もう少し安静にしてろ、すみれ。急に起きると立ち眩みする」

「あ、うん……」

今までにないほど優しくされ、心なしか囁く声も甘く聞こえ、すみれは戸惑いつつも素直に従った。余程心配させてしまったのだろう。

「良い子だ」

そう言って小さな子どもあやすように、大河はすみれの額にキスを落とした。すみれはくすぐったくて、思わず目を閉じてしまう。

(あ。そういえば名前――)

いつの間にか自然と名前で呼ばれていたことに気づいたが。

(まぁいいか。それに名前で呼ばれた方が仲良くなった感じがするし)

だからと言ってすみれも大河のことを名前で呼ぶ、という発想は彼女にはなかった。ただほんの少し、彼との距離が近くなったことに嬉しさがこみ上げる。きっとこの先に遭遇する厄にも立ち向かうことができるだろう、と確信に近い予感が生まれた。そして自分も護られるだけでなく、彼らの役に立てる力を付けたい。少なくとも、大河が離れていくそれまでは。

≪ F I N. ≫

 

2009/08/16 up  美津希