天つ神のおまじない

告白編


……はあ、と何度か分からない溜め息が漏れる。

「どうしたの、立木君? 今日はあまり進んでないみたい。珍しいね」

前から心配そうな声が掛けられる。立木は慌てて顔を上げた。

「え、あ、そうかな?」

頬が引きつっていることを本人が自覚しているのか分からないまま、しかし確かに動揺を見せる彼に、すみれは眉根を寄せて表情を険しくした。

「そうだよ。それにさっきもさ、売店でお金払ったまま商品持たずに帰ろうとしてたし。変だよ、今日」

すみれはつい十分程前のことを持ち出した。

二人は今、いつも行っている図書館ではなく、食堂の席で先日出されたレポートに取り掛かっていた。ちょうど昼過ぎから始まる3時限目の講義が休講になったため、立木自ら彼女を誘ったのだ。だというのに、当の彼はペンを止めては溜め息ばかりを漏らす。気にするなと言う方が無理な話だった。

「話なら聞くよ?」

相談に乗るよ、と言えない自分に少しだけ情けなくもなりながら、すみれは真っ直ぐ立木を見つめる。

立木は逡巡した。数ヶ月前彼女と美術館へ行ったときのことが脳裏を過ぎる。簡単に言ってしまえば溜め息の原因は向かい合わせに座っている彼女だ。そして、間に入ってきたあの男。西欧人寄りの整った顔立ちをしていた、彼女の友人である。

高校時分の同級生だと聞いているが、実際に会ってみると明らかにそれ以上の親密さを感じた。思わず嫉妬を覚えたのは否めない。それ以前からも彼の名前は頻繁に出ていたから、いやでも邪推してしまう。しかし、彼女へなかなか改めて聞けないでいた。

いっそ聞いてしまおうか……。そう思ったときには既に口が開いていた。

「あの人――」

「え?」

すみれはキョトンと小首を傾げた。言い難そうに視線を逸らす立木の言った人物が咄嗟には分からなかった。

「あの……、この前、美術館に行く時に会った……」

立木は口元を手で覆い、もごもごと小さな声で説明する。本当は名前も思い出してしまったが、自分の口から告げるのは、なんとなく嫌だった。

「あ、柴島くん?」

「そう」

「柴島くんがどうかしたの?」

躊躇いもなくすみれが彼の名を言う。当たり前のことだが、それでも立木は言い知れぬ緊張感に襲われる。食堂に残っている人数は少ないが、それでも皆無というわけではないのに、話し声や雑音が一切なくなっていた。

「その人と仲良いよね。よく二人で出かけてるみたいだし」

俺とはまだ、美術館へ行ったときの一度しかないし、それも正確には二人きりではなかったけれど。と、立木は胸の内で舌打ちしながら言った。

「あ、うん……そうだね。仲、良いよ」

まともにすみれの顔を見れていない立木は、彼女の微妙な表情の変化に気づくこともなく、ただまた漏れそうになった溜め息をぐっと堪えた。喉に力を込めなければ、思ってもないような嫌な言葉を投げかけそうになってしまう。これはただの嫉妬だというのに。

「……」

立木は次に続けるべき言葉が見つからず、二人の間に沈黙が訪れる。

口を開けば、言ってしまいそうで。自分の想いを全て、彼女にぶちまけてしまいそうで、怖かった。すみれと教職課程の講義が一緒になり、知り合ってからようやく1年が過ぎたところだ。時期ではない、と分かっているのに言ってしまいそうで、言ってしまえば暖めてきたこの関係が壊れてしまいそうで。

「あのね、実は私」

沈黙を破ったのはすみれの静かな声だった。

「疫病神がいたの」

「は?」

突拍子のない単語が出てきたので、立木は思わず逸らしていた視線をすみれへと向ける。彼女はいたって真剣な表情をしていた。立木自身、すみれは自ら冗談を言うタイプではないと知っている。

「本当に。神様っていうか、鬼って呼ばれていたけど。だから運がなくて、危なかったことも失敗もたくさんあったんだ」

ここは案の定、笑うところではなかったようだ、と立木は安堵した。そして、彼女が持ち出してきた話題に、暗に励まそうとしてくれているのだろうか、と勘付く。

「運って巡り合わせって言うもんな。失敗が続いたりすること、誰にだってあるよ」

立木は、俺はそういうことで悩んでいるのではないのだ、と示唆しようと笑って頷いてみせる。

しかしすみれは首を横に振り、そうじゃなくて、と否定した。どういうことだろうか。

「巡り合わせじゃなくて、故意的にだったの、私の場合! ……まぁ、鬼頭に選ばれたのは巡り合わせだったのかもしれないけど」

首を捻る立木はますます彼女の話していることが理解できず、困惑した。

「故意的にってどういうこと? っていうかキトウって?」

厄のことを誰かに話すのは初めてだった。すみれは式神や鬼頭との戦いのことはあまり触れず、掻い摘みながら大河との繋がりが普通の友人から始まったわけではないことを説明した。

話し終えたとき、ちらりと立木の様子を窺えば、信じてもらえているかは微妙だったが、とりあえず納得はしてくれたようだった。それだけでも話して良かった、と胸を撫で下ろす。彼ならば無闇に他言することもないだろうし、真剣に受け入れてくれるだろう。

目を丸くしながらも、一つ一つ聞き漏らさないよう向き合っていた立木は、彼女の話が終わる頃には今までの緊張がすっかり消えていたことに気づいた。そしてあの時、彼とすみれとの間に感じた友人以上の親密さが何だったのか、ようやく腑に落ちた。

やはり、彼とすみれとの間には、誰も入ることの出来ない絆で結ばれていたのだと確信する。それは寂しくもあり悲しい事実ではあったが、その理由が分かってしまえば怖がることはないのだ。怯えることはなかったのだ。彼がすみれに対して好意を抱いていることは明らかであったが、すみれがどう思っているのかはまだはっきりしていない。おそらく恋愛感情に疎い彼女は、そこまでの気持ちを抱いていないのかもしれないし、抱いていたとしても気づいていないだろう。良かった、と一人頷く。

そこまで考え、当然湧き上がるのは一つの疑問だ。

「でも、どうしてそれを、俺に?」

冗談で笑い飛ばすでもなく尋ねる立木に、すみれは恥ずかしそうに微笑んだ。それは困ったときによく見せる苦笑にも似ていた。

「だって立木君、柴島くんのことすごく気にしてたから。私も誰かに話したかったし、調度いいかなって」

刹那、立木は顔を赤く染めた。よりにもよってすみれに自分の態度から感情を読まれていたかと思うと、恥ずかしくて居た堪れない。

「それにね、柴島くんがくれたおまじないも、今はなくなっちゃったし、秘密にする理由もないかなって」

すみれは、おまじないが続いていれば例え立木でも話すことはなかったのだ、と言っているようなものだとも気づかないで、言葉を続けた。

「どうして?」

立木は身を乗り出して尋ねた。

「それは……」

それは、正直に言ってすみれ自身も分かっていなかった。

ただ大河が話してくれたことを代弁すれば。

「私に憑いていた疫病神はもういなくなったから、おまじないも必要なくなっただけ。それだけだよ」

高校を卒業し、鬼頭のような厄鬼が現れるようなことはなくなり、本当に平和そのものだった。だからすみれは忘れていたのだ。六合や天空、朱雀達式神はすみれを守るために付けられた存在だということ。大河がすみれを気遣ってくれるのも、厄鬼からの危険を最小限に抑えるためだということを、すっかり念頭から抜け落ちていた。

こうして実際に離れてみて、すみれはそう実感することが多くなった。寂しかったのだ。

だから、少しでも立木に話して、分かってほしかった。

寂しい――。

今まで傍にあった賑やかな声がなくなってしまったこと。呼べばすぐに答えてくれる温もりがなくなったこと。

この言いようのない感情を共感してほしかった。

でも、違った。

話しても少しも胸の靄は晴れないし、共感を得てもきっと満足しないと分かった。なんて身勝手なのだろう。

すみれは泣きそうになるのをぐっと堪え、俯く。膝の上で拳を作り、固く握り締めた。力を込めなければすぐに涙が零れてしまいそうだった。目頭が熱く火照っていく。最悪だ。

不意に、視界に指が映る。

驚いて顔を上げると、立木が腕を伸ばし、そっとすみれの頬へ触れる。親指の腹で目元を拭われた。

「泣いてるのかと思った」

手を離した立木が、優しく微笑む。すみれは慌てた。

「ご、ごめんね。そんなつもりじゃ……」

「うん。分かってる。でも、悔しいな」

すみれがキョトンと小首を傾げると、立木は苦笑しつつ肩を竦めた。

「俺ならそんな悲しい顔、させないのに。ずっと一緒に居てあげられるのにって思うと、すげぇ悔しい」

すみれは声を発することもなく、大きくゆっくりと瞬きをする。

「俺、月島さんのこと好きなんだ。一緒に笑ったり泣いたりして、隣に居たいって思ってる」

「えっ……」

驚きを隠せないすみれに立木は小さく笑って、講義の資料とノートを片付ける。

「まぁ、考えておいてよ。返事は急がないからさ。っていうかまだ言うつもりはなかったんだけど」

「え、あの……」

「来月から俺、実習入るから、なるべく早めにくれたら嬉しいけど。それじゃ、先に行ってるね」

立木は爽やかに笑顔を向けると、立ち上がり、食堂を後にした。その直後に3時限目を終えるチャイムが鳴る。

「え、え、ええぇ!?」

すみれが上げた小さな雄叫びは、数人が残った食堂に僅かに響き渡る。

≪ C O N T I N U E D . . . ≫

 

2010/5/02 up  美津希