彼と彼女と…

彼と彼女とX'mas


 最初から期待なんかしていなかった――そう思ってさえいれば、自分は大丈夫だと分かっていた。だから、雪野は努めて明るく返事をした。少しでも落ち込んだ様子を見せれば、本当に落ち込みそうだったから。そうして心配をかけるのは絶対にやりたくなかったから。
『でも夜には会える時間を作れるからさ。ほら、正しくイブ(前夜)だろ』
 そう言ってくれるだけで嬉しかった。けれど雪野はそんな優しい辰巳の提案に賛成しなかった。24日も仕事で、25日も仕事で、きっと朝も早いだろうに、自分のためなんかに無理をして欲しくない。それで体調でも壊してしまったら、仕事に差し支えてしまったら、申し訳なさ過ぎる。
「ほんと、無理しなくていいですよ? あたしもちょうどバイトで忙しいし」
 それは本当だった。クリスマスとその前日である24日の二日間は驚くほど薄いシフトで、雪野はどうせ辰巳も仕事だからと両方とも入れていたのだった。それでも人数が足りないのだから、普段の客足だとしても忙しくなることは確実だ。疲れていても辰巳に会えれば嬉しいのだが、辰巳はそんな自分と会っても楽しいだろうかという不安もある。ただそれだけの理由だけれど……。
『雪野は俺と会いたくないの?』
 そんな不満げな辰巳の声を聞けば、まるで責められているようで雪野は自分がひどく冷たい人間のような気がしてきた。会いたくないはずないのに、どうしてそんなことを言われるのだろうかと慌てて「違います!」と叫んでいた。そこでここが自分のアパートの部屋であることを思い出し、思わず声を潜めた。いくら電話越しの相手に対してとはいえ、薄い壁伝いに隣人に聞こえでもしていたら恥ずかしくて顔を合わせられない。
「違います。会いたいに、決まってるじゃないですか……」
 当たり前のことをどうしてこうも言わせるのだろうか。彼にとっては意図していないことでも雪野にしてみればわざとそうさせているような、そんな流れになっているような気がしてならない。そういえば初めて会った時から辰巳は話し上手であり、聞き上手でもあった。だからこそ人見知りのする雪野でもあれだけ自然に話せていたのだろうが。
『本当?』
 疑るように尋ねてくるので、雪野は携帯を持つ手に力を込めて頷いた。
「はい。本当です。でも」
 だからといって無理はして欲しくない。クリスマスに会えないからといってずっと会えないわけでもないのだから、と続けようとした雪野に辰巳は被せるように言った。
『じゃあ会おうよ。っていうか行くからね』
「え」
『俺が会いたいんだ。顔を見たい』
「あの」
 雪野が何かを言う前に「それじゃ、おやすみ」と言って辰巳は電話を切った。ツーツーと流れる機械音から耳を離し、雪野は思わず頬を両手で覆った。
 どうしよう。
 顔がにやけてしょうがない。

 雪野は落ち着かず、やはり違う店にしようかと思ったが、やはりどこの店にしても同じものだろうと思い直し、意を決して足を進めた。こんなことなら誰か友人を誘えば良かったと思うものの、けれど結局決めるのは自分だし、時間や間に気を遣いながらではゆっくりと選べない気がした。だから例え初めて入る高級ブランドショップに怖気づいて泣きそうになっていても、こういう状況に追い込んだ自分自身に文句を言ったところでどうしようもないのである。
 普通の百貨店や総合店にあるような雰囲気とは当然の事ながら異なる空間に、雪野は挙動不審になりつつも目的のものを探し回る。彼女の目当てのものは広いフロアのやや隅の方に設けられたコーナーにあった。メインとなる衣服やバッグと合わせて購入できるようにという配慮なのだろう、それらの周りに並べられている。雪野が手に取ったのは黒い皮製の手袋だった。もちろん男性用のものだ。雪野はいくつかのデザインを見比べ、一番ベーシックなものを選んだ。可愛くはないかもしれないが、実用的なことが重要なのだと決めていた。それに相手はあのトップモデルなのだ。きっとこの手袋も着こなしてくれるだろう。そんな期待も少なからずあった。
 雪野が辰巳にプレゼントをするのは初めてかもしれない。いや違った、これで2回目だ。初めてのプレゼントは11月の中頃だった。その日は珍しく辰巳の家に泊まって、なぜだっただろうか、朝食をどこかの喫茶店で取ろうという話になったのだ。その途中で雪野は突然雑貨屋に入りたくなって、新しいCM出演が決まったお祝いだと託けて、お揃いのマグカップを買ったのだ。あれは結局そのまま辰巳の家にあるし、財布を取り出そうとするのを頑なに拒否して彼には一円も出させなかったのだから、プレゼントと言って良いだろう。雪野から彼にお金を出してあげたものはそれくらいで、だというのに辰巳からはたくさんの物を貰っている。だからこういう時こそちゃんとした物をあげたいと思う。
――ああ、そうだ。
 雪野は不意に思い出した。あの時喫茶店に行こうと言い出したのは辰巳だった。本当は雪野が朝ごはんを作るはずで、前の日に冷蔵庫の中もチェックしておいたしサンドイッチを作ろうとそのパンも買ってきたと言うのに、どこでどう間違えたか上手くできずに新鮮だと言っていたその食料たちは皆、空しくも生ゴミと化してしまったのだった。
 はぁ、と溜め息が出る。あの時は絶対に二度と辰巳の前で台所には立たないと誓ったものの、やはりあのままで終わらせられないという気持ちも確かにある。これではして貰うばかりで、与えてもらうばかりで、なんだか辰巳にとって不公平な気がしてならない。雪野は手に持っていた手袋を握り締め、力強くレジへ向かった。
 値段も見ずに決めた物だから予想以上に出費することになったが、店を出た雪野の表情は明るかった。辰巳への気持ちを考えれば少し今月の朝飯や昼飯や夕飯を減らせば良いことで、むしろ今まで雪野が貰ってきた物らとを比べればずっと安いものだ。辰巳が喜んでくれれば一日くらいご飯を食べられなくなったとしてもどうってことはないだろう。
「喜んでくれるかな、辰巳さん……」
 聖人の生まれた特別な日くらい、辰巳には何かを与えたい。それがこんな手袋で申し訳ないけれど、これが今の自分の精一杯だ。雪野は何度も手に持った紙袋を眺めてはその日のことを想像し、一人頬を緩めて微笑んだ。

 バイト先ではクリスマスに入ったスタッフ達に、特別に店長からケーキが配られた。市販の小さなショートケーキだけれど、スタッフ達は全員ありがたくそれをいただく。雪野も例に漏れず、私服に着替えてから皆と一緒にそのケーキを頬張った。思いがけないクリスマスプレゼントに皆は笑顔で店を後にした。スタッフ数人はそのまま仲間内で飲み会をするらしく、雪野も誘われたが丁重に断った。彼氏か何だと言われたが、雪野は曖昧に笑って彼らと別れた。角を曲がれば辰巳の車が見え、思わず駆け足になる。普段は自転車で店に行くが、辰巳が来ると分かっている日はいつも歩きにしている。
「辰巳さん」
 寒い中車の外で待っていた彼に、雪野は嬉しそうに声を掛けた。彼女の声が聞こえた辰巳の表情も自然と柔らかくなる。
「遅かったな」
 辰巳は近づいてきた彼女の体を引き寄せた。走ってきた雪野の頬に両手を当てれば暖かくて、冷えてしまった自分の手が彼女にとって気の毒に思えた。だからすぐに離そうとしたが、それを雪野のさらに冷たい手で遮られた。自分の手が雪野の頬から体温を奪っているのが分かって慌てるが、しっかり握られたその手を離すのもなんだか惜しくて、結局困ったように顔を歪ませるしかできない。
「雪野?」
「中で待っててくれたら良かったのに」
 そんな見当ハズレなことを言われ、辰巳は小さく溜め息を吐いた。何のために外で待っていたと思うのだろう。
「車の中だったら真っ先に見つけられないだろう?」
 それでなくても真夜中に女の子が一人で歩いて帰ること自体危なくて勧められないのに。――しかしそうでなければこうして雪野と見詰め合うこともできなかったのだろうから、一概に悪いことだとも言えないのがつらいが。
 それに何より。
 辰巳はそっと身を屈めて、彼女が頬を挟む自分の手を固定してくれているのをいいことに、ゆっくりとキスをした。人がいないとは言え路上でこんなことをするのは雪野が嫌がるだろうし、辰巳の立場からしても決して良い事だとは言えないが、今日くらいは、こんな状況のときくらいは神様も許してくれるはずだ。
 車の中では体勢がつらくてこれほど長く丹念に彼女の唇を味わえないのだから。
「……甘い」
 しっかり雪野との口付けに浸った後、まだぼんやりとしている雪野に辰巳が呟いた。
「何か食べた?」
「ふぇ?」
 訳が分からないというように首を傾げる彼女に辰巳は悪戯っぽく囁く。
「甘い味がしたから」
――雪野とのキスはいつも甘いけどね。
 と付け足せば、雪野の顔は見る見る赤くなっていく。そして睨まれた雪野の手によって、辰巳の両手も彼女の頬から離されたのだった。そんなふうに照れた様子を見せてくれる雪野が可愛くて、辰巳は思わず微笑んだ。雪野は恥ずかしさのあまり、さっさと車に乗り込む。手袋の入った袋を入れている鞄を胸に抱きしめ、辰巳に早く乗るように急かした。
「辰巳さん、いつまで笑ってるんですか」
 不機嫌な声で言ってみるものの、それが文句ではなく照れ隠しだと分かっている辰巳の笑顔は更に深くなるだけだった。
「さて、夜景でも見ていきますか」
 辰巳のせりふに雪野はきょとんとした。このまま真っ直ぐ彼のマンションへ行くものとばかり思っていたのだ。いつものように。
「夜景?」
 聞き返せば、そうだよ、と頷く辰巳は早速車を走らせ、いつもとは逆方向へ進ませていく。
「初めて会った時に見せるはずだった晴れた日のあの場所だよ。覚えてる?」
「覚えてます……」
 その時は曇っていて、けれど次に誘われたのは別の場所で。結局あの夜景はずっと曇っていた記憶しかなかった。
「多分今日は他の客で賑わってると思うけど」
「他の人は、関係ないです」
 やけにきっぱりとした口調に、思わず辰巳は嬉しくなった。そんなふうに言ってくれる横顔が優しくて、その言葉が暖かくて、そんな雪野が愛しく思えて。
「あ、そうだ、着いたらクリスマスプレゼント、渡すよ」
 辰巳はハンドルを切りながら言った。本当は直前まで言わずに驚かすつもりだったけれど、あんなことを言われたらそんな演出は入らない気がした。他の人は関係ないと、彼女が言ってくれたから。他の誰でもなく、雪野が言ってくれたことが嬉しかったから。
「あたしもあるんです、プレゼント。交換しましょうね!」
 ほら、また、思いもしない嬉しい言葉を、まるで知っているかのように言ってくれる雪野だから。
 辰巳は微笑んで頷いた。
 雪野も助手席で鞄を抱き、微笑む。
 辰巳が嬉しそうに微笑んでくれたから。「交換しようね」と頷いてくれたから。
 ラジオから流れる定番のクリスマスソングがとてもロマンチックだったから。
 そしてまた、こんな日が来るといいなと願いながら、雪野は流れる小さく集められたライトを眺めることにした。あの場所へはもう少し時間がかかる事を知っているから。

≪F I N.≫

 

2007/12/18 up  美津希