彼女の場合

01

 動物の交尾と人間の性交は違うものだ――ということを、あたしはずっと前から知っていた。だからキリスト教が同性愛を否定している一方で、日本の江戸時代には衆道が広く認知され、現代では同性婚を認めている地域さえあるのも納得できる。それは、文化だからだ。
 あたしは単純に人と肌を重ねるのは温かくてキモチイイから好き。生殖行為とか文化とかは考えない。でもそれって普通でしょ。セックスは快楽をくれる。それには色々と理由が付くけれど、それも結局は後付に過ぎない。キモチイイことはキモチイイもので、それだけで充分だ。堅苦しいことを言われても興醒めするだけで、全然気持ちよくない。萎えるだけだ。
「この前、ダチと二人で歩いていたらスカウトされたんだけどさ」
 情事後の一服を楽しみながらナンパ男は言う。
「それが何のスカウトだったと思う? なんとホモビデオ! ありえなくねぇ? 俺らがホモに見えたんかよ、キモチワリィ。やっぱスルなら女とじゃん」
 その点エミちゃんは最高だった、と下品に笑うナンパ男は一口だけ吸った煙草を灰皿に押し付け、布団に包まったままのあたしに再び覆い被さってきた。独特の苦い匂いが鼻につく。滅多に顔には出さないけれど、あたしは煙草の匂いが苦手だった。特にキスしたときに味わうあの苦さは最悪だ。肺の中を直接泥で塗られたような気分になる。
「イヤ」
 寸前のところで顔を逸らし、隙を突いて男の下からベッドを降りる。床に散らばった下着を拾うと、シャワーを浴びる為に部屋を出た。
「えっ、ちょっと待ってよ、エミちゃん!?」
 まさか拒否られるとは思っていなかったらしい男の情けない声が背中にぶつかるが、あっさりと無視してシャワールームの扉を閉める。エッチまでは良かったんだけどなぁ、と少しだけ後悔して、熱めのお湯を全身に浴びた。カラダは良かったけれどアタマが悪いのはダメだ。アタマのカタイ男はもっとダメだ。
 髪から足の指先までお湯を浴び、ふと壁に付いている鏡に目をやる。防水加工されているらしいそこにはやや童顔のあたしが映っている。スレンダーとは言い難い肉付きの良い身体。だけどあたし自身、一度も太っていると自分を卑下したことはない。だからこそ自慢の巨乳があると思っているし、大きめのお尻は安産型だと昔からお祖父ちゃんや両親に褒められて育ってきた。
 まだ若いから肌もキレイだと自負している。自宅では念入りにオイルやスキンローションで手入れをしている成果だ。このもち肌が好きだという男もいた。そのための努力だから、そう言われると素直に嬉しい。嬉しい時は思い切り甘えてあげる。そうすればお互いキモチイイということも知っているからだ。だからこそあんな小さな男に触らせたことを後悔する。
 外にいるナンパ男のことは気にせず丁寧に身体を洗う。さっぱりしたあと、簡単にメイクをして、シャワールームを出たのはそれから30分以上経っていただろうか。
 ベッドルームに戻れば入れ違いに男がシャワールームへと入っていく。その間に服に着替え、メイクをやり直す。ここへ来た時は情熱的だったのにと思うと、人との関係はなんて不安定なんだろうと痛感せざるを得ない。そんなことは何度も経験しているはずなのに。
 チークを塗り終え、マスカラを手に取ったタイミングで、あたしの携帯が鳴った。正確にはマナーモードにしてたから、震えてテーブルに打ち付ける音が響いた。開くとメールが届いていた。侑(ゆう)くんからだった。落ち込んでいた気持ちが途端に浮き上がる。
「もしかして、彼氏からのメール?」
 いつの間にか出てきていた男の声が背後から掛かる。振り返ればタオルを肩に掛けたままこちらを見ていた。
「彼氏じゃないけどぉ。でももう帰るねぇ」
 あまりちゃんとマスカラできてなかったけど、既に気持ちも萎えていたあたしはここには居たくなくて、ひらひらと携帯を見せ付けるように振った。アタマのカタイ男は、しかし空気は読めるようで、無理に引き止めたりはしなかった。
「じゃあ、また暇な時にでも遊んでよ」
「わかったぁ。じゃあねぇ」
 でもそれはきっと社交辞令。節操の無いあたし達だけど、こういうところは日本人っぽくて、あたしは嫌いじゃない。メルアドはデータとして残るけど、関係はいとも容易く切れていく。切れてしまったらそれでお終い。
 ホテルを出て柄にもなく空を眺める。ネオンの輝きが煩くて星なんて全然見えない。そんな空があたしにとっては普通で、どこまでも続く黒に吸い込まれそうになる。今日は曇っていて月もない。バッグから再び携帯を取り出してメール画面を開く。ディスプレイの明りが眩しくて思わず目を細めた。


 朝、少しだけ寝坊して、なんとか一限目に間に合う電車に乗った。人間関係はチャラついているかもしれないが、あたしは根は真面目なのだ。
 大学に向かう途中で見覚えのある背中を見つけた。ふと、先週の侑くんのメールを思い出して、あたしは早足で近づいていく。
「祐(ひろ)!」
 声を掛けると祐が振り向く。あたしよりずっと高い位置から見下ろし、眠そうな目が細く弧を描いた。おはよぉ、と言うと、おはよ、と返ってくる。けれどその声も眠そうだった。
「寝不足ぅ?」
「まぁね。多嶋(たじま)のレポートがやっと終わったとこ」
 大きな欠伸を隠しもせず祐は答えた。顔はイケメンなのに飾らないこういう自然なところが祐の良いところだ。普段は誰にでも優しくて、何回か寝たこともあるけどその時は少しだけ意地悪い。そのギャップがイイという女の子は大勢いて、けれど祐はあたしみたく誰とでも寝るわけじゃなくて、なかなか不思議な男だった。
「ああ、だからかなぁ。侑くんからメールあったよぉ?」
 課題が多いことで有名な多嶋准教授の授業はあまり人気が無い。あたしが知る限り、今のところ真面目に受けているのは祐しかいないようだ。時間潰しで受けている友人達は祐のレポートだけを単位を取るための命綱にしている。多嶋准教授も出席を重視すればいいのに、相変わらず課題だけで単位の評価をする。結局はどっちもどっちなのだろう。
「侑から、何て?」
 眠そうだった目をぱっちりと開けて祐が再びあたしに視線を落とす。侑くんと祐を会わせたのはあたしだけれど、祐はすっかり侑くんを気に入ったらしい。侑くんのことが話題になると途端に表情が変わる。そんな祐もあたしは好きだった。
「いつものお誘いメール。侑くんがメールをくれる時ってぇ、祐と連絡が取れなくなる時だけなんだもん」
 不貞腐れるように頬を膨らますと、あたしの表情とは逆に祐の表情は嬉しそうに緩んだ。
 ずるい、と思う。二人が仲良くしてくれるのは良いけど、除け者にされたみたいな寂しさを覚える。祐に侑くんを取られたようで、悲しくなる。しかも侑くん自身がそのことを自覚しているのか分からない。
「怒るなよ。エミには侑だけじゃないだろ」
 祐の大きな手が子どもをあやすようにあたしの頭を撫でた。祐の言う「侑だけじゃない」というのは、たぶん体を重ねる相手、という意味なのだろう。確かにそれはそうかもしれないが、あたしの方が侑くんとの付き合いは長い。侑くんと初めて会ったのは高校1年生の時だった。だから簡単に侑くんを奪った祐は少しだけ憎い。……少しだけ、なのだ。祐のことも同じくらい好きなあたしは、やっぱり悔しくて、不貞腐れた表情が直らない。
「だって一番は侑くんなんだもん……」
 ぐりぐり、と強めに頭を撫で回したあと、祐くんは手を離し、宣告するようにあたしの肩を優しく叩いた。
「俺の一番も侑だから、譲ってよ」
 優しく、どこか甘さも漂う口調で言う祐の顔を見たくて、ちらりと視線だけを向けた。
 本当は分かっているのだ。侑くんの一番も祐だってことは。
「ま、エミが譲ってくれなくても、侑は俺を選ぶだろうけど」
「どっから来るのぉ、その自信?」
「寂しいなら今日来る? 侑と会うんだけど」
「い、意地悪ぅ!」
 反射的に行く、と言いそうになって、慌てて唇を尖らせた。会うということと寝るということはほぼ等しく、別にそれは良いんだけれど、今日は予定があるのだった。祐もそれを知っていて誘ってくるのだから本当に意地が悪い。落ち込んだ表情を浮かべるあたしの気を逸らすためだと分かっているから余計にイジワルだ。
「俺はいつでもいいから、寂しかったら声掛けな」
「寂しくないしぃ、平気だもん。ていうか祐には関係ないじゃん」
「そーかい」
 呆れたように笑って、祐は「それじゃあ俺はこっちだから」と図書館の前で別れた。祐は講義があるわけではなかったようだ。
 撫でられたせいでくしゃくしゃになった髪を整え、あたしは講義のある大教室へと急いだ。

 マイクを使って話す先生の言葉を教材用のプリントにメモしていく。時折黒板を使うので、チョークを叩く音が高く響く。
 真面目にペンを走らせていると、不意に腕を突かれた。隣を見れば奈々(なな)が覗き込むようにしてこちらを見ていた。奈々は大学で知り合った友人の一人だ。金髪に近い色に髪を染め、くるくるとパーマをかけている。メイクも毎日完璧にこなし、アクセサリーは最低3個が必需で、夏は露出の高い服を好んで着ているような、派手目な子だ。更に輪をかけて男関係も派手であり、しかしそのことを納得してしまうほど美人なので、うちの学部ではそこそこ有名人だったりする。
「ねぇねぇ、ユッコから聞いたんだけど、朝、また祐くんと一緒だったんだって?」
 ひそひそと先生に見つからないように話す内容は、別に今でなくてもいいんじゃないかと思うようなもので、少しだけ眉根を寄せた。バカっぽい口調のためかよく誤解されるのだけれど、あたしは根は真面目なのだ。
「一緒だったけどぉ、その話今じゃないとだめなのぉ?」
「だってエミ、次東館でしょ? アタシ本館だし、話せないじゃん」
 東館は本館とはグラウンドを挟んで建っているため、10分の休み時間に移動するにはギリギリの距離にあった。確かにこの後に話すのは難しいかもしれないが、だからって理由にはならないと思う。今時メールだって電話だってあるのだし、何よりすぐに知ったところで何か影響が出るのかと言えば、それは奈々の自己満足にしか繋がらない。
「ねぇ、今度の飲み会に祐くん誘ってよ。アタシらの中で一番仲良いのエミなんだから、それくらい良いよね」
「またぁ?」
 これで何度目の頼みだろうか。あたしは心底嫌になる。
 けれど奈々の気持ちも分かるのだ。奈々くらいの美人だとある程度の男は簡単にオチるらしい。その中で唯一まだ彼女が手を拱いているのが、祐だった。祐は誰が見ても美形の部類に入るので奈々が手を出したい気持ちはよく分かる。けれど祐にその気がないのに、いくらあたしが言ったところで無理なことは無理なのだ。それでも奈々はなかなか諦めない。
「ていうか奈々、今彼氏いるじゃん」
 確か社会人の彼氏がいたはずだ。合コンで知り合ってもうすぐ3ヶ月目になるはずだった。一度写メを見せてもらったけど、エリート風な男性で、年齢こそ離れているものの、大人な雰囲気が漂う二人はお似合いのカップルに見えた。
「いるけどさ、それとこれとは別なの。大体、ユッコが寝たことあってアタシがないってのが許せないの。しかも最近は誰とも寝てないっていうし。それに本命できたらよそ見しなさそうだもの。だから今しかチャンスないじゃない?」
 同意を求められても困る。
「最近誰にも手を出してないってことはぁ、もう本命できてるんじゃないのぉ?」
 会話を早く終わらせたくて、けれど友人としての優しさで言外に諦めてほしいという願いを託したのだけれど、奈々はそれを汲み取ってはくれなかった。あるいは分かっていて無視したのかもしれない。美人ということを自覚している奈々なりのプライドがそうさせているのだろうか。あたしにはない自信が奈々にはあるのだ。
「でも彼女できたなんて話聞かないもの。きっとまだよ。それともエミは相手知ってるの?」
「知らないけどぉ」
 奈々の言うとおり“彼女”はいないだろう。けれど侑くんが一番だと言った祐が、絶対に奈々の誘いには乗らないことははっきりしている。ユッコと寝たのは侑くんと出会う前だったから、奈々には可愛そうだけれど、その時点で奈々の勝負は決まっていたのだ。
 そもそも、そういう感覚があたしには分からない。誰と誰とが寝たとか、そういうのは関係ない。自分がキモチよければそれでいいはずでしょ。奈々の言う優越感だとか精神的快楽は、あたしにとって理解し難いものだった。
「こら、そこ!」
 急にマイクから届く声の音量が大きくなり、教室中に響いた。先生の視線の先はあたしと奈々で、他の学生の冷ややかな視線と一緒に注がれている。あたしは真面目に受けていたのに!
「木庭笑美子(こば えみこ)、西郡(にしごおり)奈々、私語は慎むように」
 それだけ言うと、先生は再び淡々とした口調で説明に戻る。隣の奈々へ睨むように視線をやれば、肩を竦めて苦笑を浮かべていただけだった。注目され慣れている奈々には、大教室でマイク越しに名前を呼ばれることくらい何でもないらしい。そんな神経、あたしにはないのに。