彼女の場合

02

 大学の最寄り駅から一本で街の中心部に出ることが出来る。中心部というだけあって駅の周りには繁華街やらが多くあり、その中の一角にある雑居ビルの地下に、人知れずひっそりと暖簾を構える店がある。一見何てことのないドアが、開けた瞬間にお洒落なバーの入り口へと変わるのだった。
「今日は大変だったんだよぉ」
 マスターがいつものように優しい笑みを向けて迎えてくれたから、カウンターに着くなり思わず口を開いてしまう。大学に入ってから出来た彼氏に連れられてやって来たこのバーをあたしはすぐに気に入って、彼氏と別れてからもよく来ている。すっかり馴染みになったマスターはこうして話し相手になってくれるのだ。それが仕事だとは分かっているけれど、聞き上手な上に時々ドキッとするほど鋭いアドバイスをくれたりするから、嘘も通じない。
 そんなわけで、マスターに隠し事なんて無意味に近いから、学校のことも家のこともこの前のナンパ男のことも、マスターの口車に乗せられてほとんど話していた。だからマスターは数少ない良き理解者でもあった。
「もぉ、本当にサイアクだったぁ」
 奈々とのことを話したあと、出されたお冷を半分ほど一気に飲み干す。キンキンに冷えた水が喉を通って体に染みこみ、少しだけ熱が冷めるようにイライラの熱も少しだけ落ち着いた気がした。
「珍しいね。エミちゃん、普段は真面目なのに」
 注文したマティーニを作りながらマスターが笑う。
「だってしつこいんだもん。エミはちゃんと講義受けたかったのにぃ」
 すっと目の前に完成されたカクテルが出される。それを黙って受け取り、一口飲み込むと、甘い香りが口の中に広がった。
「エミはバカだからさぁ、ちゃんと聞いてないとレポートも書けないしぃ、試験も出来ないんだよぉ。でも奈々は頭良くてぇ、不公平だよねぇ、神様って」
 考えただけで益々項垂れる。そうなのだ。奈々は自分に自信があるだけあって、成績も良い。そもそもあたしが通う大学は、私立の中ではそれなりに偏差値の高い学校だった。高校時代、全然勉強なんてしなかったあたしは、進路を決めてから死ぬほど勉強して、ようやく入れた。それに比べて奈々は、ランクを一つ落としてこの大学に入ってきたらしいのだ。
 言わばユッコもあたしと同じタイプで、だからこそ奈々としてはプライドが許さないんだろう。イイオトコとどれだけ寝られるかなんて、ステータスでも何でも無いのに、彼女には譲れないモノのようだ。
「でもその子には無い魅力がエミちゃんにはあると思うよ」
 自然と流れに入ってきた声はマスターの渋いものではなくて、若い穏やかな男の人だった。驚いて顔を上げれば、いつの間にか隣に座っていた男性が優しい笑顔をこちらに向けている。年齢はマスターの半分以下、20代後半から30代前半といったところか。平日なのにスーツではなくラフな格好だったから、余計に若く見える風貌をしていた。何気なく付けているアクセサリー類の小物にセンスを感じさせ、しかし左手の薬指にリングは無かった。
「ああ、ごめんね。マスターとの会話を聞いてたらつい口を挟みたくなって」
 あたしが驚いた顔をしているのに気づいたその人は、爽やかな微笑を浮かべて更に続けた。
「だめですよ、椎名(しいな)さん。口説くなら他所でしてくださいね」
 マスターが水の入ったグラスをさり気なくその人――椎名さんに渡し、間に入ってくれた。椎名さんはそれを受け取り、微笑を苦笑に変えて肩を竦めた。
「人が悪いな、マスターも。僕は彼女が落ち込んでいるから慰めようと思っただけなのに。ね、エミちゃん?」
「え、えーとぉ……椎名さんはよく来られるんですかぁ?」
 急に話を振られ、あたふたと会話を続けるように言った。マスター以外の大人の男性に“エミちゃん”なんて呼ばれ慣れていなくて、少しだけドキドキとする。よくよく見れば椎名さんの顔は整っていて、祐と似たタイプの爽やかなイケメンで、更にドキドキする。
「そうだね、仕事がない日は大抵ここで飲んでるかな。でもエミちゃんとは初めてだね? いつも時間が遅いからかな」
 最後の言葉はマスターに問いかけるように椎名さんは視線を動かした。それを受け止めてマスターは小さく頷いた。彼が常連だということは先ほどからの会話で分かっていたけれど、思っていたよりも頻繁に来ているようだ。あたしの場合は時間潰しに一杯飲んだら帰る、くらいなので、時間帯がずれていたのも当然かもしれなかった。現に今日も、このマティーニを飲み終えたら人と会う約束がある。
「そう。残念なことしてたな。もっと早い時間に来てたらもっと早くエミちゃんと出会えてたのに」
 何気なく言われた明らかな口説き文句にあたしは耳が熱くなった。手元にあったカクテルを飲んでお酒のせいにしてしまう。カッコイイ人がさらりとそんなことを言うなんて、ズルイ以外の何物でもない。
「ほら、椎名さん、簡単にそういうこと言わない。エミちゃんはこれでも純粋な子なんだから」
 マスターの苦笑に椎名さんもクスっと笑い、あたしはまた顔を赤くする。
「二人ともからかわないでよぉ!」
「ふふっ、ごめんね」
 椎名さんは笑い、マスターは黙って空になったグラスを下げた。一気に飲んだので僅かに頭がクラクラとする。
 それから暫く三人で話している間に、他のお客さんが二人ほど来店した。椎名さんとはマスターを挟まなくても話が弾み、思っていた時間よりも長居してしまった。けれど今までのナンパ男達とは違い、最後まで連絡先を聞いては来なかった。
 それでも会計のために立ち上がったあたしに、またね、と言ってくれた椎名さんはやっぱり紳士的で格好良かった。


 本来の予定は、倉掛(くらかけ)さんとの食事である。倉掛さんはあたしの保護者のような人だ。あたしの家庭は少しばかり複雑で、両親の代わりに彼がよくあたしの面倒を見てくれていた。高校に上がって引っ越すまでは近所に住んでいたこともあって、勉強を見てもらったり一緒にご飯を食べたりもしていたのだけれど、倉掛さんが昇進して忙しくなったということもあり、ここ最近はなかなか会えないでいたのだ。
 待ち合わせ場所に指定されたところはグランドホテルのレストランだった。先に着いているとのメールがあったので、そのまま入っていく。名前を告げるとすぐに席へと案内された。外の景色が一望できる窓側のそこは、とてもロマンチックだ。
「久しぶりだね、エミ」
 席に着くと目尻に皺を寄せ笑顔を向ける倉掛さんがいた。あたしも笑みを返して久しぶりだねぇと応える。
「学校は楽しいかい」
「うん。でもねぇ、今日先生に注意されたちゃったぁ」
「お喋りでもしてたのかな」
「エミは真面目に受けたかったんだよぉ?」
「次からはエミが友達に注意しなくちゃだめだよ」
「……はぁい」
 倉掛さんと話していると自分はいつまで経っても子どものままじゃないかと思ってしまう。親子程とはいかないけれど、それなりに年の離れた彼からしてみれば、あたしはいつまでも子どものままなのかもしれない。
「そういえば祐くんは元気かい?」
 ウェイターにワインを頼んだ後、倉掛さんは尋ねてきた。唯一、祐には倉掛さんのことを話していて、倉掛さんにも祐のことは話していた。というのも、倉掛さんが祐に仕事を依頼している張本人だからだ。そう考えれば、侑くんといい倉掛さんといい、あたしは祐に感謝されこそすれ、イジワルされる云われは無いんじゃないだろうか。朝のことが今更ながらに憎らしく感じた。
「元気だよぉ」
 不貞腐れながら返事をすれば、不思議そうに倉掛さんは小首を傾げる。
「相変わらず仲良くしてるんだろう?」
 ここで言う“仲良く”というのは、直接的に言えばセックスのことだろう。初めて会ったのは偶然祐とホテル街を歩いていた時だったから、倉掛さんは祐のことをあたしの恋人くらいに思っている。だからこそ祐を信用し、仕事を渡しているのだけれど、あたしと祐にそんな甘い関係は、残念ながら築かれていなかった。それこそ侑くんとの関係よりもドライかもしれない。
「仲悪くはないけどぉ、祐はエミより侑くんのがイイんだってぇ」
「ユウくんって?」
 ついぽろっと言ってしまったが、そういえば侑くんとのことは言っていなかった。あたしはどう言おうか迷いつつ、正直にセックスフレンドだとは言えなかった。
「友達だよぉ」
 倉掛さんはそれを素直に受け取り、そうか、と苦笑した。
「まぁ、男は友情を選ぶ時もあるからね。焼餅は程ほどにしておきなさい」
 やっぱり祐との関係を誤解しているようだ。でもそう仕向けたのはあたしだし、それを訂正していないのもあたしだった。
 分かった、と素直に頷けば、倉掛さんもは「いい子だ」と褒めるように笑みをさらに深くした。
「そうそう、また祐くんに頼みたい仕事があるんだ。学校の試験はいつからかな? できれば急ぎたいんだが」
 祐に仕事を頼む前のリサーチはよくあることだ。倉掛さんなりに気を遣っているらしい。あたしはよく知らないのだけれど、祐はバイトとしては勿体無いほどに優秀らしく、時たま助っ人として直接倉掛さんの会社に出向くこともある。今回はどちらだろうか、と考えながら、試験の時期を思い返す。
「まだ大丈夫だと思うよぉ。レポートの多い講義があるんだけどぉ、それもこの間終わったみたいだしぃ、しばらくはないと思う」
「祐くんは頭の良い子だから、要領も良いんだろう」
 まるで祐のことも自分の子供のことのように誇らしげな顔をして頷く。倉掛さんは本当に祐を気に入っているのだ。
 それから話題は家のことに移り、あたしは既に一人暮らしをしていて実家とはほとんど連絡を取っていないので、話題は専ら倉掛さんの方になっていた。倉掛さんはあたしが高校2年生の時に、同じ会社で働いていた女性と結婚をしていた。今では2歳と1歳のお子さんがいる二児の父親だ。倉掛さんのようなお父さんならきっと幸せな家庭なんだろうと簡単に想像できる。今も倉掛さんは蕩けるような顔で子どもの自慢話に興じていた。下の子どもが最近よく話すようになり、兄弟喧嘩で煩いのだ、と嬉しそうに笑う。
「今日は出張だと言っているんだ」
 料理を食べ終えるのを見計らって倉掛さんが言った。先ほどまでの優しい微笑はそのままなので、その先の意味を理解するのに少しだけ時間がかかった。倉掛さんとは子どもの頃からの付き合いで、だからいつも、この瞬間は落ち着かなくなる。
「この上に部屋を取ってある。どうする、エミ?」
 テーブルの端に胸ポケットから取り出したカードキーを置く。最初に会った時より確実に皺が増えた手の甲を見つめながら、あたしは倉掛さんを見つめた。いつだって倉掛さんは無理を強いたことは無い。選択するのはあたし自身だ。初めてセックスがキモチイイものだと教えてくれた時も、倉掛さんは優しく選択を迫り、けれど有無を言わさない強さでその手を伸ばさせた。
 倉掛さんは、あたしが逆らえないことを知っていて選ばせるのだ。本当は祐くんよりずっとずるい人なのだ。
 あたしがカードキーに手を伸ばすのを確認し、彼は満足気に微笑んだ。
「じゃあ、行こうか」
 促されて立ち上がり、倉掛さんはあたしの腰に手を回して足を進めた。いつだったか、家族は大切じゃないのか、と尋ねたことがある。一般的に浮気と言われても否定できない関係にあるのだから、あたしの質問は不思議なものでもないだろう。けれど倉掛さんは面白そうに笑って、エミも家族だと言ってくれた。
 レストランを出てロビーを通り、乗り込んだエレベータは最上階へ近い高さまで上っていく。
 何人とも体を重ねてきたあたしだけれど、倉掛さんとの時はいつも緊張する。
「いつも初めてのときを思い出すよ」
 部屋へと入り、備え付けの冷蔵庫からジュースを取り出した倉掛さんは、懐かしそうにそう言った。緊張はしているけれど喉は渇いていなくて、貰ったジュースを手の中で回しながら「エミも」と答えた。
「エミはいつも思い出してるよぉ」
「エミは何年経っても変わらないね。あの頃のまま可愛くて、綺麗だ」
 倉掛さんの手があたしの頬を撫でる。
 初めて倉掛さんに触れられたのはあたしがまだ中学生の時だった。世に露呈すれば倉掛さんは犯罪者にだってなっていたかもしれない。けれどあたしは、触れられたことに救われた。あの頃に味わった絶望から救い出してくれたのは紛れもなく、今あたしに触れている倉掛さんの温もりだったのだ。
 だからあたしにとって、倉掛さんの与える選択肢は、いつだって一つだけだった。
 そしてさらに、選んだ先にはもう一つの選択肢があって、あたしにはいつでも逃げ道を用意してくれている。倉掛さんはそういう人だ。