彼女の場合

03

 久しぶりに会った侑くんは落ち込んでいた。理由は言わずもがな、祐がバイトに入ったからだ。こんな顔を見せ付けられると正直妬くというよりも落ち込んでしまうのだけれど、そもそも侑くんが落ち込む原因となった祐のバイトは倉掛さんからの依頼でもあり、手繰り寄せればあたしが倉掛さんと祐を繋いでしまったものなので誰に何の文句も言えないのだった。
 侑くんの容姿はパッと見普通だ。平凡と言って差し支えない。不細工でもないし、かと言ってイケメンと言えるほどでもない顔立ち。ただスタイルは良い。侑くん自身はもやし体形だと気にしているようだけれど、言うほど細い印象は受けない。身長が割とあるから、もう少し筋肉があっても良いとは思うけれども。
 あたしたちは肉体関係を目的としたオトモダチではあるものの、それだけの付き合いに留まるには少しだけカンケイが長すぎた。外で“健全”なデートもするし、本当に稀に、外でご飯を食べるだけの時もある。
「……なぁ。本当に居場所知らねーの?」
 個室タイプの居酒屋に誘われ行ってみれば、既に何十回と聞いたことを再び侑くんが聞いてきた。無論、祐のことだ。隠すことでもないはずなのに、祐は侑くんにバイトのことを一切秘密にしているらしい。最初にこの質問をされたのがかれこれ1年くらい前だから、よっぽどのことだと思う。それ程まで頑なに祐が隠していることをあたしからバラすのも憚られ、なんとなく言えないでいる。
「缶詰ってさぁ、なんなんだよ?」
 それはアレでしょ。ツナ缶とかサバ缶とかの保存食でしょ。
 咄嗟に浮かんでしまったそんな言葉は飲み込んで、知らない、と繰り返す。
 あたしは祐ほど鬼ではないから、一応知っているヒントは出しているのだ。初めて聞かれた時はまさか祐がそんな事を隠しているとは思ってもみなかったから、正直に「缶詰状態だ」ということを教えた。それでも場所まではあたしも知らなくて、侑くんは余計にフラストレーションが溜まってしまったようだ。その度に誘われるのは全然嫌じゃないからいいんだけど。
「飲みすぎだよぉ」
 落ち込んでいるときの侑くんは絡み酒っぽい。少し厄介だけど、甘えられているようで少し嬉しい。カウンター席ではなく対面して座っているから、若干侑くんのビールを手前にずらした。落ち込みの余り頭を垂れている侑くんはすぐに気づかず、コップを持とうとした手が何度か空を握った。そこで手元に無いと判断するとすっかり諦めたのか、指を握り締めたまま動かなくなる。
「俺はヒロにバイトの事も言ってるし、大学の話だってするのにさ、ヒロは俺に何も言わないんだ」
「でもぉ、エミには侑くんのことばっかだよぉ」
「まじで?」
「まーじーでー」
 あたしはいよいよビールを自分の前に置いた。侑くんは真っ赤な顔で手元のビールには一切目もくれずこちらを凝視した。祐の態度を見ていれば驚くことでもないと思うのだが、侑くんにとってはよっぽど信じがたい事実だったようだで、少し可笑しい。
「それにねぇ、祐ってば嫉妬深いんだぁ。自信持っていいと思うよぉ、侑くん?」
「あぁ、まー……な。でも何の自信だよ?」
 侑くんが喜ぶと思って続けて言ってみれば、これにはあまり反応を見せてくれなかった。嫉妬されたことは経験有りなんだろうか。それでも自分に向けられる感情の理由が分かっていないあたり、侑くんは可愛いと思う。こんな侑くんだから、祐はバイトのことを言わないでいるのだろうか、とも思ってしまう。あたしは答えずに微笑だけを向けた。
「この後どうするぅ? だいぶ飲んだよねぇ」
「んー? なんかあんの、この後」
 あるとすればセックスくらいかな、とも思うけれど、なんとなく今日はそんな気になれなかった。たぶんそれは侑くんも同じで、だからこの後のことなんて考えていないような返答をしたのだろう。いつもなら期待しちゃうけど、今日は朝まで飲むのも悪くない。
「あのねぇ、もっと美味しいお酒飲めるとこがあるんだけどぉ、行っちゃう?」

 今日はゆっくり飲みたいから、滅多に人を連れて行かない落ち着けるバーへ侑くんを誘った。当時の彼氏と別れてからは次の彼氏も友達も連れて行かなかったのに、突然二人連れで来店したあたしにマスターは一瞬驚いていたが、すぐにいつもの穏やかな表情で迎えてくれた。今夜は他の客も少なく、店員は基本的にマスター一人なので、話し声も気にならないほど静かだった。
「エミのくせにこんな場所隠してたのか」
 ぐるっと一回り店内を見回した侑くんは、いつもあたしが座るカウンター席の隣に腰を下ろして呟くように尋ねてきた。クラシックな音楽が静かに流れ、暗めな照明でさらに落ち着いた雰囲気を出しているここを気に入ってくれたようだ。あたしも紹介されたクチだけれど、同じものを好きだと思ってくれたことは素直に嬉しい。
「なーにー? “くせに”って、超シツレーなんだけどぉ」
「良かったらいつでも来て下さい」
 あたしとマスターの言葉に侑くんはヘラヘラと笑って、楽しそうに表情を崩す。
「……ヒロとも来てないのか、ここ?」
「来るわけないよぉ。二人でご飯とかもあんまり無いしぃ。侑くんだけだもん」
 そう言うと侑くんはどことなくホッとしたような顔で頷いた。
「ヒロって酒強いよな。あんま、酔ってるとこ見たことないかも」
 そう呟いた侑くんはグラス越しにどことなく遠くを見つめていた。あたしは侑くんを初めてヒロと会わせた時の事を思い出す。あの時もお酒の席で、確かあたしから飲みに行こうと誘ったのだ。サークル内のコンパ的飲み会だったこともあり、詳しいことは言わずに連れて行ってしまったのだけれど、侑くんは驚きこそしたものの最後まで付き合ってくれたのだった。
 そういえば祐は、会ったときから侑くんを気に入っていたように思う。目の前でキスを始めちゃうくらいには気に入ったんだろう。女の子から誘われたって気分が乗らなければ平気で据え膳も食わない男なのに、珍しいな、と思ったのが印象的だった。
「エミもないなぁ。でも侑くんも強い方だよねぇ」
 あたしはカクテル数杯でダメになってしまう。眠くなってくるのだ。侑くんは酔うと絡んでくるし、立てなくなったこともあったみたいだけど、記憶を飛ばしたという話はきいたことがなかった。酔いつつも最後まで他の人の面倒を見てしまうタイプだ。
「俺は弱いぞ? いや、ヒロ相手だからとかじゃなく。この間も合コン行ったんだけどさ――」
 侑くんはグラスの中の氷を回しながら先週末にあったらしい合コンの話を始めた。大学の友達のケイスケくんというのがよく出てくる名前で、今回も彼の誘いを受けて参加したらしい。祐がいない時だけ行ってみるみたいで、ただ、それは普段の侑くんの生活の中でどれだけ祐との時間が占められているかを聞かされるに等しいことでもある。言うなれば惚気みたいなものだろうか。バカップルのイチャイチャ話を聞かされている気分になって、むしろ羨ましくさえ思うのに、侑くん自身は本気で言っているのだから、何て答えていいものか少し悩む。こういう時、男同士の友情ってあたしにはよく分からない。
「ていうかさぁ、侑くんは彼女とか作らないのぉ?」
 常々思っていた。コイビトがいれば祐がいなくても大丈夫だと思うのだ。その一方で、そうしたらあたしとのカンケイもなくなるんだろう、と思うと寂しくもあるのだけれど。
 侑くんは僅かに難しい顔をして喉の奥で唸った。思い当たる人でもいたのだろうか?
「彼女は……いい、かな。今はヒロがいるし」
 ああそうか、と思い直した。先日言っていた祐の言葉が思い返される。何だかんだ言いつつも、祐がそうであるように、結局侑くんも祐を選ぶのだ。気づいていたはずなのに、それはなんだか、やっぱり寂しい。
「そういうエミはどうなんだよ。前の彼氏と別れたのいつだっけ」
「んー、3ヶ月……かなぁ。奈々に彼氏が出来る少し前だったと思う」
「何で別れたんだっけ。結構長くなかったか」
「半年くらいだったよぉ。別に好きな子が出来たんだってぇ。知ってる子だったけどぉ、すっごくマジメな子だったのぉ! もーびっくりぃ!」
 キャハハと声を立てて笑う。だって本当に笑っちゃうくらいあたしとは真逆のタイプの子だった。髪も染めてなくて、ピアスの一つもしてなくて、アクセサリーだって全然着けてないような地味な子で。なんであたしと付き合ってたんだろうって思うくらいだったから、全然悲しくもなくて、あっさりと別れてしまった。きっとお互いそんなに本気ではなかったんだろう、と今になって思う。
「半年か。エミにしては長かったよな。俺が原因じゃなくて良かったよ」
「あー、あったねぇ。高校の時だったっけぇ」
 再び過去を思い出して笑いが込み上げてきた。一度だけ侑くんが原因で彼氏と喧嘩別れになったことがあった。それからは、彼氏がいる間は侑くんと会うことは控えるようにしたけれど、それでも長く続く方じゃなくて、結果的に侑くんとの付き合いの方が長くなっていて、だから侑くんとは親友以上のトモダチになっているのだ。それがまた彼氏の嫉妬心を煽るということは、今のところないのだけれど。
「今はちょっと休憩中なんだぁ。彼氏作る気ないしぃ、いつでも誘ってきてくれて良いからねぇ」
 恋愛はしんどい。面倒くさいからって恋愛をしない人が最近増えてきているみたいだけれど、あたしはそれで恋愛を止めたいとは思わない。好きだと思った人には好きだって言いたいし、言ってほしい。それで思いが重なるなら、こんな奇跡はないって思うし、やっぱり気持ちのある行為は何よりもキモチイイのだ。好きな人の温もりはずっと肌で感じていたい。
 でも今は少しだけ疲れていて、休みたい。いつかそんな人と会える日まで、ほんの束の間の休息だと思っている。だけど人の温もりを全く感じられないのは寂しいから――。そんなふうな思いで侑くんに視線を投げる。侑くんは「しょうがないな」っていつもの呆れたような優しい目で受けてくれた。

 そろそろ日付が変わろうとしている頃、ドアが開いてお客が一人入ってきた。ちょうど侑くんはお手洗いに行っていて、見るともなしに人の気配がする入り口へと視線を移す。あ、と声が重なったのは偶然だった。
「今晩は。確か、エミちゃん……だったよね」
 来店してきたのは先日会ったばかりの椎名さんだった。倉掛さんと会う前にここへやって来た日に顔を合わせた人、ということで名前まで珍しく記憶に残っていた。椎名さんはこの店の常連で、いつもは遅い時間帯に来ていたと言っていた。その“いつも”がだいたいこの時間なのだろうか? そう考えれば随分と遅い時間ではある。絶対にあたしとは会わない筈だと腑に落ちた。
「今晩はぁ。椎名さん、ですよねぇ?」
「あ、名前まで覚えてくれてたんだ。嬉しいな」
 椎名さんは心底嬉しそうに微笑んで、侑くんとは反対側のあたしの隣に座った。マスターに水割りを一杯頼むと、体ごとこちらに向けてあたしの顔を覗きこんできた。
「珍しいよね、こんな時間に居るなんて」
「今日はお友達を連れてきて下さったんですよ」
 あたしの代わりにマスターが答え、彼も顔をマスターへと向ける。へぇ、と興味深そうにする椎名さんは、あたしの隣の席を見て小さく頷いた。誰かが座っていた形跡でも見つけたのだろうか。確かに侑くんの荷物はその下に置いている。
「彼氏?」
 にっこりと微笑んで首を傾げる椎名さんは、やはりカジュアルな格好をしていて、実年齢よりもよっぽど若く見える。そういえばあの時はあまり話していなかったから、彼のことを名字くらいしか知らないんだった。実際は何歳なんだろうか。
「友達ですよぉ。それより椎名さんはお仕事帰りですかぁ?」
 あたしが質問をすると、軽く首を縦に振って、一口水割りを飲み込んだ。形の良い喉仏が上下に動く。その姿が様になり、オトナのオトコって感じがして、少しドキドキした。身近にいる社会人の男性といえば、今はサークルの先輩か奈々の彼氏くらいで、そのどちらにもない色気が椎名さんにはあった。
「まぁね。本当は明日もあるからここに来るか迷ったんだけど。来て正解だったみたいだ」
 これは狙っているんだろうか? 表情や仕草や態度からは下心が全然感じられないから、僅かに戸惑う。
「お仕事って何されてるんですかぁ? スーツじゃないですよねぇ」
「ん? ああ、服装か。基本的に人と会う仕事じゃないから、普段はこういう格好が多いんだ。勿論、商談や取引先と会う時はスーツだけど、着慣れないから似合わないんだよね」
 椎名さんが口にした職業は、偶然にも祐のバイト先と同業だった。ということは倉掛さんとも同業者ということだ。世の中は狭いとつくづく思う。
 そんな話をしている内に侑くんが戻ってきた。いつの間にか来ていた新しい客とあたしが親しげに話しているのが不思議だったのか、僅かに眉根を寄せながら席に着いた。椎名さんは侑くんを見てすぐにあたしが言っていた友達だと気づいたようで、同じように「今晩は」と声を掛けた。あたしの時もそうだったけれど、椎名さんはすごく気さくで、人見知りのない人だ。
「エミ、知り合い?」
 椎名さんに「今晩は」と返した後、思わずといったように、侑くんが小声で尋ねてくる。
「ここの常連さん。でも会ったのは2回目かなぁ」
 あたしの答えに侑くんは「へぇ」と曖昧な相槌を打っただけで、それ以上彼に対して何かを聞いてくるということはなかった。
 そうして暫くマスターも時折交えて軽く会話を交わした後、あたしと侑くんは帰ることにした。もう時間も遅いし、あたしも侑くんも明日の講義は2限目からあった。
 お会計を済ませた後、店を出るあたし達の背中に椎名さんの「またね」と声がかかり、振り返る。
 あたしも笑って手を振り、また、と返事した。おやすみなさい、とも言った。
「カッコイイな、あの人」
 侑くんが駅までの僅かな道すがら、ぽつりと呟く。
「俺、あーゆー人になりたい」
「でもそうしたらぁ、祐は嫌がりそうだよねぇ」
 祐は何かにつけて侑くんのことを「可愛い」と評している。椎名さんみたいになられたら、少しはがっかりするんじゃないだろうか、なんて勝手に推測してみる。それは侑くんにも想像に難くなかったようで、小さく笑い声を上げた。「そうかもな」と頷いた。
 きっと祐は、そういう人間だ。