彼女の場合

20

 逃がすまいとするかのように掴まれた腕が痛い。
「先生ぇっ、ちょっと、待って……っ」
 文字通り突然先生に連れ去られたあたしは、ホテルを出て大通りを走っていた。前を歩く先生は大股で歩いているだけだけど、コンパスが違うからそれに着いていくには走らなければならないのだ。細く高めのヒールを履いていたから、何度か突っかかりながらも引っ張られる腕を解けずに先生の後を追う。困惑しつつ、次第に先生が駅へ向かっていることに気づいた。
 あと数十メートルで駅に着く手前で先生は角を曲がる。直線上には確かに駅があるのだが、目的地は違うのだろうかと考える間もなく、駅前の駐車場へと入っていった。これから車に乗るのだと分かれば、益々連れて行かれる場所が分からなくなり、困惑と共に不安も出てきた。
「先生、どこに行くの?」
 5階建ての立体駐車場へ入り、エレベーターが下りてくるのを待つ間、そっと先生の顔を窺うようにして尋ねてみる。が、先生は黙ったまま一瞥もくれなかった。
 ようやく開いたエレベーターへ乗り込み、降りてすぐの位置に先生の車はあった。以前一度だけ乗ったことのある黒のセダンだ。
 助手席に押されるように乗るのを見届けてから、先生は運転席へと乗り込んだ。エンジンはかけず、駐車場の明りだけが車の中を照らす。薄暗い中で見る先生の無表情な横顔は見るからに怒りが現れているようでかなり怖い。
 運転席に座ったもののシートベルトも掛けないところを見れば、すぐにどこかへ行く感じではないようだ。それが先生の意図したことかはさて置いても、事実として更なる緊張感を高めているようであった。
 ふぅ、と先生が大きく息を吐く。深く背中を預けた先生の座席からギシギシと革の擦れる音が聞こえた。他に鳴る音もなく、それがやけに大きく響く。
「木庭――」
 溜め息交じりに先生はあたしの名前を呼んだ。なぁに? と振り向いてもまだ先生の視線はあたしに向いていなかった。
 もう一度先生があたしの名前を呼んだのは、それからしばらくしてから、ようやくという頃だった。
「あの男は、まさか彼氏とか言わないよな」
 そっと横顔を眺めるあたしにチラリとも視線を合わせず、先生は聞いてきた。
「もしかして前に言ってた“椎名さん”……か?」
 そこでやっと先生がこちらを見てくれた。あたしは思い切り首を振って否定する。
「ううん、あの人は倉掛さん。エミの保護者みたいな人だよぉ」
「保護者?」
「小さい頃から色々と面倒見てくれてる人なんですぅ」
 その“色々”の中に色情のことが含まれていることは、きっと言っても理解してもらえないだろうから口を噤んだ。先生みたいな人には言ってはいけないこともたくさんあるのだと思う。でも嘘は吐かないと決めて、少しの後ろめたさを隠した。
「そうか。でも腕組んでたな」
 先生の言いたいことがわからなくて首を傾げた。
「腕組むくらい普通だよぉ。安いホテルってわけじゃないんだしぃ、それなりにエスコートされるでしょー?」
 あたしの答えに納得した表情ではなかったけれど、それ以上掘り下げてくる気配もなく、先生は黙った。
「もしかしてぇ、援交してるとか思われたんですかぁ、エミ?」
 わざと憤慨して見せれば、ばつの悪そうにした先生が小さく「すまない」と謝ってきた。ということは本当に援助交際しているように思われたと言うことだ。それは少なからずショックだった。あたしは自分の貞操観念が立派なものじゃないと自覚しているけれど、お金を貰って体を売るようなことはしたことがない。先生だけにはそう思われたくなかったけど……それも今までの行いのせいかと思えばこれ以上何も言えず、視線を落として拳を固める。
「責任転嫁するわけじゃないが、木庭があんなことを言うからだぞ、俺が勘違いしたのは」
 そう言っている時点で責任転嫁されている気もしたけれど、あたしは何も言わず視線を上げて先生を見た。
「あんなことぉ?」
「お前の譲れないものだ」
 確かに先日、そんな話をした。人の価値がどうのとかいう流れだった。その時あたしは、譲れないものが一つだけあるというようなことを話したと思う。
「人の温度を感じられる行為は拒めないと言っただろう。つまりはそういうことなんじゃないかと思ったんだ。父親にしては若いし、恋人と言うには……偏見かもしれないが、年が離れすぎているように見えたからな」
 言いながらも先生は苦い顔をしたままで、それから自分を落ち着かせるように静かに息を吐き出した。
 あたしは思わず息を呑んだ。
 言い訳めいたそのセリフは、確かにあたしを心配してくれているものだと分かった。それはとても嬉しい事だった。
「でもよく考えてみれば、俺が出て行くのもお門違いだったよな。……悪かったな、無理矢理連れてきて」
 戻るか、と先生があたしを見る。
 反省しました、と言わんばかりのすっきりとした顔で振り向かれて、更に困ったのはあたしだ。このまま降ろされたらだめだ、と思ったのはきっと本能だ。先生の右手がロックを外そうと動いた瞬間には、あたしは先生の左手を掴んでいた。
「待って先生!」
「……木庭?」
 丸くなった先生の目があたしを見下ろす。あたしはしっかりと見上げて言った。
「先生、エミが倉掛さんと一緒に居たのを見て、助けてくれたの?」
「いや……まぁ、そうなるが」
 結果的には勘違いだったけどとか何とか口の中でもごもごとと言う先生を無視して、あたしはにっこりと笑顔を浮かべた。
「エミ嬉しい!」
「はぁ?」
「エミねぇ、分かったよ」
「俺は分からないんだが」
「エミ、先生が好き」
 それはあまりに突然過ぎたかもしれない。あたしにとってはずっとつっかえていたものが取れたような、長い間埋まっていたものを漸く掘り出せたような感覚だったけれど、先生にしてみたらやっぱり唐突な出来事のように思えたのかもしれなかった。何が、と怪訝そうな顔をした。
「先生のことが好き!」
 怪訝な顔をした先生は少し怖かったけれど、全然気にならなかった。それよりもやっと見つけられた気持ちがとても素敵なもののようで、高揚する感情を抑えられなかった。身を乗り出して先生の首に腕を巻きつける。サイドブレーキを乗り越えて先生の肩に頬を寄せれば、身動きの取れなくなった先生の体から、段々と力が抜けていった。
「木庭、重い」
 先生の手があたしの体を押しのけようと肩にかかるが、あたしは更にぎゅっと抱きついた。迷惑だろうとは分かっているけど、本気で嫌がられてない限りはこのままでいたいと思うのだ。
「ねぇ先生。エミ、先生のこと、好きでいて良いよねぇ?」
 先生との立場とか、今は大事かもしれないけど、その内関係なくなるときも来るはずだ。それまでは、せっかく見つけた気持ちをどこかへ隠すなんてできないと分かっていた。
 先生は肩に置いた手を背中へ回してくれる。自然にゆったりと抱き合う形になる。先生の肩は広くて、頭を軽く撫でる手は大きくて、やっぱり人の体温は心地良いものだと確認させてくれた。だけどきっと、こんなにも安心できるのは、それが先生の温かさだからだろう。
「俺はたぶん答えられない」
 低い声で先生が呟くように言った。
 ダメだ、と言われなかっただけであたしは満足だった。
「それでも良いよぉ。エミがずっと好きでいるだけだからぁ」
「ずっと?」
 思わずといったふうに先生が小さく笑う。
「ずっとぉ。ずぅーっとだよぉ」
 確実な約束ができるはずもないことだけれど、今はそう思えるから、嘘ではない。あたしはこの先もずっと先生のことが好きだと思う。そうしたら何かの拍子で、今は応えられないと言った先生の気持ちも、いつかはあたしに向いてくれるかもしれない。そんな未来を想像して、あたしは一人でクフフと笑う。

 そういえばどうしてあの場所に先生が居たのかと、抱きついたままの格好で尋ねれば、先生は優しくあたしの髪を指で梳きながら、「仕事だ」と冷静な口調で答えた。そして慌てたようにその手を離した。
「悪い、携帯貸してくれるか」
 そう言われれば体を離すしかなく、渋々助手席に座りなおしてバッグから携帯を取り出した。先生に渡すと、先生は直接番号を押してどこかに電話を掛ける。繋がった相手はどうやら一緒に居たらしい他の先生のようで、簡単に謝った後一つ二つ約束の言葉を交わして電話を切った。
「先生の携帯はぁ?」
「荷物置いてきたままだったのを忘れてたんだよ……。このまま送ってやるからちょっと待ってろ」
 急いで車から降りた先生は、ドアを閉める直前、思い出したかのように体を屈めて顔を覗きこませてきた。
「さっきの、俺の携帯に掛けてるから、番号消しとけよ」
 それだけを言って先生はドアを閉めた。足早にエレベーターへ乗り込む先生の姿を見つめた後、自分の手の中にある携帯画面に目を落とす。発信履歴の一番上に、12桁の番号が表示されていた。
 先生って天然なのかな? 消しとけって言われて、あたしが素直に消すわけないのに。
 メニュー画面を開き、先生の名前を入力して番号を登録する。思いがけず手に入った好きな人の電話番号は、欠番だった000になった。


「エミ、昨日もナンパ男振ったんだって?」
 講義の始まる5分前に滑り込んできた奈々は、面白がるように言ってきた。その話はつい今朝ほどユッコに話したばかりのことだ。学校からの帰りに、駅の近くで声を掛けてきた男がいて、断ってもなかなかしつこかったと愚痴ったのだった。
「ユッコから聞いたのぉ?」
 あたしが確認するように聞けば、ううん、と奈々は可愛らしく小首を振った。あたしが愚痴を零したのはユッコだけだったから、それなば一体誰からだろうと疑問に思うのと同時に奈々が答えた。
「サトシが言ってたわよ。エミも変わったなって感心してた」
「変わったかなぁ?」
 自覚が無くてどう返せばいいのか困る。確かにセックスはしなくなったし、ナンパにもついていかないようにしている。でもそれは椎名さんがいた時とそんなに変化したものではなくて、代わりに今は先生のことに気持ちが向いているというだけだ。
 ああ、でも、椎名さんの時には寂しさに堪えられなくてナンパに乗ったこともあるから、完全に無くなった今は、確かに変わったと言えるだろうか。だからと言ってあたし自身が特に変わったことはないのだけれど。
「他のとこに入り浸ることもなくて良かったって言ってたよ、サトシ」
「サトシは面倒見てくれるから居やすかったんだよねぇ」
「オカンなんて言われてたわね、そういえば」
 最近ようやく念願叶って彼女ができたらしいサトシは、オカンの名前を返上することに成功し、今はオトンと呼ばれている。彼女の話を聞いていると、娘が可愛くて仕方のない過保護な父親の言葉にしか聞こえないことが多々あるからだった。だがサトシはそれを特に嫌がる様子もなく、蜜月のごとく幸せそうな顔を浮かべるのだ。
 そんなサトシを少し羨ましく思いながら、あたしはサトシとその彼女の幸せを思った。そうしたら、無性に先生に会いたくなった。
 先生はまだあたしが先生の番号を消していないことを知らない。知らせるつもりもまだない。でもいつか、この番号に掛けられる日が来たら良いなと願う。
「ねぇ祐ぉ。先生、今日は早いかなぁ」
 後ろの席に座る祐の方へ体ごと振り向けば、眠そうな顔をした祐が頬杖をつきながら視線をこちらに向けた。
「水曜だし、会議が早く終われば早いんじゃないか」
 興味なさそうに答える祐を見上げて、あたしは不満気に唇を尖らせた。あたしが欲しかったのは確実な答えだ。
「なんで先生のゼミ取らないのぉ? そしたら遠慮なく予定聞き出せたのにぃ」
「そもそも専門が違うし。ていうかそれくらい自分で聞けよ。エミが多嶋の研究室に入り浸ってるの、結構有名になってるぞ」
「……だって先生、いつもはぐらかして返事してくれないんだもん。……エミ嫌われてるのかもぉ」
 珍しく弱気になったあたしの発言に、「そんなわけないでしょ」と肩を叩いたのは奈々だった。明るい口調で軽く言ってくれるから、あたしもすぐに吹っ切って、タイミングよく鳴ったチャイムに体の向きを直した。本当は、そんなに煙たがられていないという自信はあった。だけど学校外で会いたいという言葉を上手く避けられるたびに、空気が無くなっていく風船のように、静かに自信もなくなっていくものなのだった。

 講義が終わると、我慢が出来ずにそのまま先生の研究室へ向かった。まだ講義から戻ってきていないのか、無人の部屋で待っていると、しばらくしてドアが開く。
「先生、おかえり!」
 姿を確認した途端に先生の胸に飛び込む。既に慣れてしまったのか、先生は驚くこともせずにあたしの体を受け止めてくれる。
「はいはい」
 ぞんざいな言葉しか返ってこないけれどあたしは幸せだった。時間の許す限り、気の済むまで抱きついていると軽く撫でてくれる手がとても暖かくて、それだけでキモチイイものだった。
 でも欲を言えば、いつかは違う場所で感じてみたいと思う。
 大声で好きだと叫びたいと思う。
 耳に響く低い声音で好きだと言われたいと思う。
 その声音を乗せた唇に、キスをしたいと思う。



+++ F I N . +++

 

ご精読ありがとうございました。
2012/10/21 up  美津希