彼女の場合

19

 久しぶりに一人で寝た夜は寂しかった。
 ので。
 目の前にはバカみたいに呆れた顔をしたオカンがいる。
「エミさぁ……、何かある度に俺のところに来るのやめないか」
 オカンことサトシは面倒臭そうに言いつつ、ご丁寧にあたしの分の夕飯(コンビニ弁当・498円)を差し出してくれた。こんなものでも今のあたしには優しくて、ありがたく両手で頂戴する。
「だって奈々もユッコも彼氏いるって言って相手にしてくれないしぃ」
「ああ、どうせ俺は彼女もいない寂しい男だよ。つかソレ言ったら祐もだろ?」
「祐のトコに行ったらエッチしちゃうじゃん。エミ今はちゃんと“この人”って決めた人としかエッチしないことにしたんだもん」
「……」
 侑くんが相手してくれない、と不機嫌になっていた祐の家に行ったところで、ヤることは決まっている。その点サトシは安全パイだ。思考的にも言動的にも、良くも悪くも常識人なサトシはあたしが求めない限り求めてくることはない。それは以前入り浸っていた数日間で確認していた。
 それは事実なのに、サトシは何が気に入らないのか、男としてどうなんだソレはなどと訳の分からないことを呟いていたが、あたしは無視してテレビの電源を入れた。コント番組にチャンネルを止めて、白々しい観客の笑い声をBGMに温められたご飯を食べる。コンビニ弁当といえど、昨今の出来栄えは侮れないものだ。
「とにかくっ、俺んとこにだってこの前みたいに長くは置いてやれないからな。俺にだって彼女の一人や二人、すぐにできる予定なんだ!」
「一人はともかく二人とか最低ぇ」
「言葉の綾だ!」
 ムキになって本気で言い返してくるサトシにあたしは笑って受け流した。
 サトシと一緒に居るのは楽しい。
 気を遣わないで済むからすごくラクで、口では邪険にしながらも行動に伴っていないからつい甘えてしまうのだ。いつでもここに居てもいいと許される気がして。
 夕飯を食べ終え、あたしがゴロゴロとしている間にお湯を張っていたサトシは、さっさとお風呂に入ってさっぱりした態度で出てきた。入れ替わるようにして、サトシが携帯ゲーム機で遊んでいる間にシャワーを浴びた。マッサージをしたり無駄毛を処理したり化粧水を塗ったりしていると時間が経つのは早く、結果として長風呂になってしまうのは女の子として仕方ないことだと思う。
 あたしがお風呂から上がると、ゲームに飽きたらしいサトシは漫画雑誌を寝転びながら読んでいた。
 髪を乾かし、ヘアケアをしてからようやく布団に入る。一人は寂しいからサトシの布団に無理矢理潜り込んだら、驚いたサトシが思い切り後ずさった。
「何入ってきてんだよ」
「最近冷えてきたでしょー。寒いの嫌なんだもん」
 唇を尖らせて甘えるように言えば、これ見よがしに溜め息を吐いたサトシは、足を組んで正面に向き直った。
「あのなぁ。俺は男。エミは女。お互いハタチ越えたオトナなんだから一緒に寝るなんてしないわけ。分かる?」
 幼児に言い聞かせるが如くゆっくりとした口調で言われたら、頷く他ない。サトシも健全な男として、あたしを女として見てくれてるのだと分かれば、文句はあれど口に出してはいけないのだと分かる。
 ――その日の夜は、やっぱり寂しくてあまり眠れなかった。

 あたしがセックス断ちをしていることを知っている人間は限られている。それまでの経歴があるから迂闊に泊めてもらうように頼むことも出来なくて、途方に暮れていたところに声を掛けてきてくれたのは祐だった。意外と言えば意外だし、必然と言えば必然のような気もした。
「サトシに追い出されたんだって? 声を掛けてくれればすぐに泊めてやったのに」
 ニヤニヤと悪戯っぽい笑顔を見せながら祐は言うが、あたしはふるふると首を横に振った。
「祐の所に行ったらエッチしちゃうもん。そういうのはやめたんだもん」
 きっぱりと断ったはずなのに、祐は笑って受け流した。
「俺が節操無いような言い方だなぁ。エミが嫌ならセックスはしないし、望めば泊めるくらいはするよ?」
 軽い口調で簡単な事のように祐が言うから、あたしは少しの不安を残しつつ祐の言葉に甘えることにした。他に行く当てもなく、一人で寂しく眠ることになるのなら、一緒に隣で眠ってくれるという祐を信用してもいいだろう。
 ということで、数ヶ月ぶりに祐の部屋へと行くことになった。
 男の子らしく小汚い程度に片付けられていたサトシの所とは違い、必要最低限の物しか置いていない祐の部屋はいっそ殺風景なほど何も無い。壁の色と同じ白で統一された空間は、ともすれば別次元のような空間で、あたしはあまり好きではなかった。アクセントで置かれた黒いソファが唯一の存在感を醸し出していて、あたしは部屋に入るなりそのソファへダイブする。
「パンツ見えてるぞ」
 苦笑しながら祐が言い、慌てて振り返るけれど、よくよく思い返せばあたしが履いているのはミニスカートではなくタイトなジーンズだ。からかわれたことに気づいて軽く睨みつける。祐はそんなあたしの視線に気づくこともなく隣の寝室へと入って行った。
 大学生の身分にも拘らず、田舎とは言えどそこそこ物価の高い土地で2DKのマンションを借りられるのは、祐の実家が金持ちだからだろう。実際彼のご両親が何の仕事をされているのかは知らないけれど、祐の振る舞いからもちゃんと躾けられているのは明らかだ。
 夕飯は祐が作ってくれた。白いお米に豚のしょうが焼きと、白菜と大根のサラダが運ばれてきた。濃い目の味付けがお腹に染み渡ってご飯が美味しい。どうせなら食後のデザートも期待したのだけれど、生憎そこまでのサービスは無かった。
「イケメンで料理も作れたらぁ、良い旦那になるよねぇ」
「侑は料理できないしな。やっぱ腹から捕まえるのが一番だと思うんだよね」
 相変わらず話題は侑くんばかりだ。一緒に食器を洗う作業をしていれば、客観的にはあたしと祐が恋人と言った方が説得力はあるはずなのに、と思いつつ、そんな常識は祐の中ではどうにでもなってしまうことを知っていた。
 サトシのアパートのユニットバスとは違って、セパレートタイプのお風呂場は広く感じる。そこでゆっくりと半身浴をし、更に時間をかけてボディケアをしてからお風呂から上がる。先に上がっていた祐の姿は部屋になかったから、隣の部屋に居るのだろう。そっとノックをしてドアを開ければ、机に向かってパソコンを操作している後姿が見えた。
「祐ぉ、お風呂ありがとう」
「おう。すぐ寝るか? そのソファ、ソファベッドだから準備するけど」
「……一緒に寝たらだめぇ?」
 ダメモトで尋ねてみるも、祐は首を傾げるだけだった。
「何もしないって言ったのはエミだろう」
 言うと祐は立ち上がり、すぐにソファの下部を引っ張り出してベッドにしてくれた。寝室から布団1枚と枕を持ってきてくれたら完璧に寝床は確保された。
 隣の部屋までの距離は遠くて、やっぱり一人で眠るのと変わらなかった。一人の体温は冷たい。

 サトシも祐も所詮は友達――赤の他人なのだ。そこに温もりを求めること自体間違っていたのだろう。
 本当はルール違反なのかも知れないけれど、家族だ、と面と向かって言ってくれた人を頼ることに迷いは無かった。
 久しぶりに会った倉掛さんは、変わらず優しい笑顔を向けてくれた。
「珍しいね、エミから電話をくれるなんて」
 以前と同じようにホテルのレストランで待ち合わせて、一緒に食事をする。眺めの良い窓際の席へ案内され、フレンチのコース料理が並べられていく。同じなのに、どうしても以前とは違うと思うのは、あたしと倉掛さんの関係が微妙に変化したからだろうか。
「エミね、好きな人ができたと思ったんだぁ。でも恋人になる前に振られちゃったぁ」
「そうか……。エミが好きになるんだから、きっと素敵な人だったんだろうね」
 フォークでサラダを突き刺し、口へ運びながら頷いた。椎名さんはとても素敵な人だった。人間としても、男性としても、きっと誰から見ても魅力的な人だった。
 それでもダメだったのは、あたしの方に問題があったのだ。最初から椎名さんはそれに気づいていた。あたしだけが気づけていなかった。
「残念だったけど、悲しくはないよぉ。寂しいけどぉ、悲しくはないんだぁ。可笑しいかなぁ?」
 シーザードレッシングは仄かな酸味が利いて美味しかった。でもどことなく物足りなくて、早くメインが来ないだろうかと考える。
「可笑しくはないよ。人は悲しすぎると悲しいと判断できないこともある」
「そっかぁ」
 倉掛さんが言うのなら、そういうこともあるのだろう。それがあたしに当て嵌るかどうかは別として、なるほどと頷くことは出来た。何事も限度があるという話ならば感情にも受け入れられる限度があるのだろう。それだけの話だ。
 メインは牛ロースのステーキだった。焼き加減は倉掛さんのオススメだというミディアムにしてもらう。柔らかい肉がナイフによって簡単に解されていくのは気持ち良いものだ。口の中で蕩けるという表現がぴったり合う食感は感動さえ覚えるほどだった。倉掛さんは、こういった美味しい場所は、れなりの値段を払って然りだと常に言っているだけあって、よく心得ている。
「エミは綺麗になったよ。前に会った数ヶ月前より、良い女になった」
 ワイングラスを傾けながら倉掛さんは言った。特にダイエットをしたり特別違った美容ケアをしたわけでもないのに、たった数ヶ月で見た目がそれ程変わるわけはない。だけど倉掛さんが綺麗になったというのなら、あたしはそれを素直に受け入れるまでだ。単純にそう言われて嬉しいというのも勿論あるけれど。
「ありがとう。でも何もしてないよぉ?」
 赤ワインが苦手なあたしは白ワインを口にする。さっぱりとして口当たりがよく、飲みやすかった。ワインの種類は分からないからいつも倉掛さん任せで、だからきっとこのワインも年代物のそれなりの値段がするのだろうと曖昧に考える。安くても美味しいものはある、と倉掛さんは笑うけれど、値段の高低基準も分からないあたしには、言われた説明を聞き流すくらいしか出来ない。
「何もしていないことはないだろう。恋をしているんじゃなかったのか? 好きな人ができたとさっき言っていたじゃないか」
 不思議そうに、可笑しそうに、倉掛さんは笑った。あたしはそれを否定するように首を振って、ワイングラスを置いた。
「だって恋をしたら、倉掛さんには会わないもん。そう約束したのは倉掛さんだよぉ」
 恋をしたら、好きな人が出来たら、こんなふうに他の男に抱かれてはいけないよ――。中学生だったあたしにそう言って、抱いたのは倉掛さんだ。その時のあたしには倉掛さんが特別で、全てだったけれど、それを否定したのも倉掛さんだった。実父に、物的にも性的にも暴力を揮われていた当時のあたしは、正常な心理状態ではないから、そう思うのは幻だと告げて、彼はあたしを拒みながら抱いたのだ。
 縋るものがなかったあたしに手を差し伸べながら、いつかこの手は消えると忠告していた彼は、今その手であたしの手に触れる。
 薬指にシルバーのリングを嵌めた彼は、あたしの指に自身のそれを絡めながら撫でた。
「なら、この後はどうする? 出張と言っているから、部屋はいつものように取ってあるんだ」
 自ら手を伸ばすことを止めた倉掛さんがどういうつもりで誘うような言葉を投げかけるのかは分からなかった。けれど、あたしの答えは最初からないのだ。
「昔みたいに、一緒に眠るだけで良い? まだあの人がお父さんだった頃みたいに」
「エミが小学校に上がる頃のように? 勿論、それで構わないよ」
 倉掛さんは一瞬驚いたように細い目を丸くしたけれど、すぐに「懐かしいね」と笑顔を浮かべた。その時のあたしのことはほとんど知らないはずなのに、本当に懐かしそうに目を細めて微笑むのだ。
 メインディッシュを食べ終えると、すぐにデザートが運ばれてきた。2種類のフルーツのジェラートだった。
 デザートまでを綺麗に平らげ、コーヒーで一息入れてから席を立った。軽く腕を曲げた倉掛さんに促されるまま、そこに自分の手を添える。
 腕を組んでホテルのロビーに出る。フロントで鍵を貰わなければならないようだ。中央に置かれているソファで待つようにと言われ、腰を下ろしてぼんやりと倉掛さんの後姿を眺める。今日はゆっくり眠れそうだ。
「さぁ、行こうか」
 鍵を手にした倉掛さんが戻ってきた。あたしは立ち上がり、向けられた肘に手を伸ばす。
「――木庭っ」
 呼ばれた声に振り返る。
 驚愕した、なんてものじゃない。頭の中が混乱し、困惑する。
「先生ぇ……?」
 どうして、と問う前に、突然目の前に現れた先生に腕を取られ、伸ばしていたはずの手は倉掛さんから離れていく。ふと見ると倉掛さんも驚いた顔で先生を見ている。それはそうだろう。急に現れた男はあたしの腕を引き、怒ったような形相をしていたのだから。
「すみませんが、こちらが先約なので」
 全くの嘘を平然と言ってのけた先生の声は、聞いた事の無いほど低く冷たいものだった。何に対してかは検討もつかなかったけど、先生が心底怒っているという事だけが明らかだった。