彼女の場合

18

 山田くんも先生も、あたしに自分を大事にしろと言った。誰彼構わず体を開くなと言いたいんだろう。でも、あたしは自分が大事だから、セックスをするのだ。人と触れ合うと温かい。心情的にもそうだけれど、身体的物理的にもそれは当てはまる。一人は寂しいから、温もりを求めて抱き合う。相手が違えど与えられる温もりは同じだ。求めた時に応えてくれるのが常に同じ人だと限らない――ただそれだけの話だ。それのどこが悪いと言うのだ、おかしいと言うのだ。
 山田くんに言われた時は意味が分からなかった。だから無視して他の人を探した。彼は求めても応えてくれる人ではなかっただけだ。彼のように、さもあたしを哀れな子だと仕立てて拒んだ人は今までにもいた。言葉は異なれど要はそういうことだろう。
 でも、先生に言われた時は違った。あたしは先生に求めることはしなかった。なのに先生はあたしに、自分を大事にしろと言った。どうしてだろう? 先生には関係のないことだ。先生が潔癖気味な人か、余程あたしが哀れに思えたか。どちらにしてもあたしが本気で言葉を受け止めたのは、それが先生の言ったことだからに他ならない。
 奈々に「椎名さんと付き合おうかな」と呟けば、バーカと言われた。これもよく分からない。バカの続きを聞けなかったから、なぜ奈々がそんな風に言ったのか今だって謎のままだ。あたしよりずっと頭の良い奈々が言うのだから、あたしが呟いたことは愚問に聞こえたのだろうけれど、それだって散々奈々が言ってきたことだったのに。何を今更、ということなんだろうか。
 本当は「そんな気など無いくせに」と言いたかったのかもしれない。「エミは素直だから」と言った彼女には、あたしの気持ちが見え透いていたのかもしれなかった。

「エミ」
 自習室へ向かう最中、不意に呼び止められた。自習室という名のパソコンルームは、大学内で唯一自由にパソコンや印刷機を使える部屋で、時間帯によっては満席にもなり得るため、あたしは急いでいた。
「祐だぁ。どうしたのぉ?」
「いや、さっき先輩から飲み会のメールあったから。エミはどうするのかと思って」
 サークルの先輩からのメールは数十分前にあたしのところへも届いていた。既に返信していたあたしの答えは考えるまでも無い。
「パスしたよぉ。椎名さんと会う約束してるんだぁ」
 あたしが答えると、祐は「そうか」と納得したように頷いた。
「それがどうかしたのぉ?」
 小首を傾げて尋ねれば、祐は小さく頭を振った。
「最近顔出さなくなったから、どうするのかと思っただけだ。急いでたんだろ。悪かったな、呼び止めて」
「ううん。あ、祐は行くのぉ? 奈々も行くのかなぁ」
「俺はまだ返事してないけど、断る理由も無いしな。西郡は来ないだろう、彼氏いるし」
 あたしたちの所属するサークルの飲み会と言えば合コンを指していた。定期的に先輩から誘いのメールが入ってくるものの、参加は自由だ。だから祐が行くというのは意外だった。
「祐にも侑くんがいるでしょう?」
 すると途端に不機嫌な表情を浮かべる祐を見ると、侑くんとは相変わらず会っているのだと察した。そのためにあたしが侑くんと会わなくなったというのもあるだろうけれど、やっぱり少し寂しくもなる。
「バイトが忙しいらしい」
「いつかの祐みたいだねぇ」
 祐の不機嫌な理由が可愛らしく、思わず笑ってしまった。自分のこともあるから祐も侑くんには強く言えない様なのが手に取るようにわかった。
「まぁ、そういうことだ。しばらくは俺も暇だし、遊びなら付き合うけど」
 祐はふざけるように言ってあたしの髪を指で掬った。本気で言ってないことは目が笑っているからすぐに判った。
「そういうのは奈々に言ってあげたらぁ? 喜ぶんじゃない」
「冗談。あいつに言ったら本気にされかねないだろ。俺のタイプじゃないって知ってるくせに」
 髪から指を離して祐は苦笑した。確かに奈々みたく自分に自信のある女の子は祐のタイプでないことは知っているけれど、どのタイプが祐の好みかなんてことまでは知らない。だったらなぜユッコに手を出したのかと問いただしたいくらいだった。
「エミも本気じゃないよぉ。だからもう祐とは遊ばない。寝るのもねぇ、今は椎名さんだけなんだぁ」
 えらいでしょー、と胸を張って見せた。子供っぽい仕草だとやった後に思ったけれど、祐は笑い飛ばすことはなく、「そうか」と僅かに目を細める。
 その後なんだかんだと他愛のない話をして、祐とは別れた。そしてすぐに講義開始の鐘が鳴るのが聞こえた。自習室の席が空いていることを願いつつ、足早に東棟側の校舎へ向かった。
 途中で先生の研究室がある本館を通り抜けることに気づいた。手元のレポートを見つめて逡巡する。急いでいたのは自習室の席の確保のためだけで、レポート自体を急いでいるわけではない。時間的には次のコマまで2時間程の余裕があった。迷ったのは一瞬だけで、結論はすぐに出た。
 急遽進路変更し、階段を使って2階まで上がる。突き当たりの角を一度曲がれば、研究室が並ぶ廊下に出た。
 先生は講義に出ているかもしれないと思いつつ、ドアの前までやってきた。ドアノブの上にある不在の札はなかった。ホッとしてノックすれば、すぐに声が返ってきた。
 入ってきたのがあたしだと分かると、先生は僅かに驚いた顔をしたけれど、そのまま何も言わず椅子を差し出してくれた。
「今日はどうしたんだ?」
 ここへ来るのは泣いた日以来だ。だけど先生相手だからだろうか、気まずいとは思わなかった。先生もいつもと変わらない態度で優しかった。
 特に何があるというわけでもなかったから、少し返答に困った。
「自習室に行く途中だったんだけどぉ、だめぇ?」
 わざと甘えた声で言ってみた。怒られはしなかったけれど、引かれたかもしれない。先生は小さく溜め息を吐いた。
「ここに居たってレポートは終わらないんだぞ。時間は有効に使いなさい」
「うん……」
 暗に用がないなら来るなということだろうかと考え、シュンと項垂れる。でも次の瞬間には良い口実を思いつき、パッと顔を上げる。驚いた顔の先生と目が合って、にっこりと笑顔を浮かべた。
「あ、あのねっ、エミ、ちゃんと自分を大事にすることにしたんだぁ!」
「ふぅん?」
「もうナンパされても相手にしてないしぃ、今はちゃんと一人に絞ってるよぉ」
「それは彼氏だよな? 相手にする人間を一人に絞れって意味で俺は言ったんじゃないぞ」
「あぅ……」
 言葉に詰まったあたしに、先生は呆れた表情で肩肘をついた。ゆっくりと椅子を回転させてあたしと正面で向き合う。
 そっと先生の指があたしの髪を絡め取り、指の腹でそっと撫でられた。さっき祐にも同じように髪を触られたのに、祐に対しては何も感じなかったのに、先生がそうしただけで鼓動が早くなる。ドキドキして頬が熱い。じっと見つめられて、どうしようもなくなった。
 すぐに先生の手は離れていく。少しだけ名残惜しくもあった。
「簡単に触らせるなよ。女は少しガードが固いくらいが調度良いんだ」
 真剣だった先生の表情がほんの僅かに柔らかくなる。少し治まっていた鼓動がまた早く波打っていく。
「安易に男に触らせることは女としての木庭の価値を下げることにもなる。自分を大事にしろと言ったのは、そういう意味も含めてだ。分かるか?」
「エミの、価値……?」
 自分の価値なんて考えたこともなかった。父親に暴力を揮われ、男の人に簡単に体を開いてきたあたしに、女としての価値が果たしてあるのだろうか。下げるも何も、最初から無いような気もする。だけど先生には知られたくなくて、胸の内のモヤモヤとした疑問は口に出来なかった。
「クサイことを言うつもりはないが、お前には根本的なことが欠けているようだからな……。敢えて言えば、魅力的な人間になるための価値だ。安易に下げて良いものじゃない。元々持っている価値が平等に100だとすると、人生を積み重ねていく中で加点されるか減点されていくかの違いだ。魅力的な人間になれるかどうかは、自分自身の行いにかかっている。マイナスにするのもプラスにするのも、他人ではなく自分自身ということだ」
――価値を加点するのも減点するのも自分自身の行いが決める。
 今までのあたしの行いはどうだったのだろう。過去を振り返ってみるが、減点されることはあれど、加点になる要素は思い当たらなかった。
「まぁでも結局、評価するのは他人で、基準になることも個人によるものだ。だけどな、それでも俺にはお前の本当の部分は分からない。俺には見えている表面でしか評価が出来ない。お前のことはお前にしか分からない。だから、人はプライドを持つ。自分自身の誇りさえ保てれば、いずれ他人にも理解される。価値は自ずと決まってくるものだ」
「誇り……?」
「お前に一番欠けているのは、もしかしたらそれかもしれないな。譲れないもの、曲げられない信念、そういったものがお前にはあるか?」
 そう言った後、先生は照れたように眉根を寄せて顔を顰めた。柄にもなく熱血教師も顔負けなセリフを吐いて、自己嫌悪しているようでもあった。けれども、あたしは先生を格好悪いとは思わなかった。
「ほら、もういいだろ。さっさと自習室に行ってレポート仕上げてこい」
 先生は追い出すようにあたしを立ち上がらせ、ドアの方へと促した。背中を押されながら、あたしは振り返って先生を見上げる。
「先生、譲れないものならあるよぉ」
「うん? 何だ」
「人の温度」
 答えながら、あたしは先生の手を握る。性格には先生の人差し指だ。あたしとは違う先生の指は、長くて力強く、硬そうなペンダコがあった。
「先生ははしたないと思うかも知れないけどぉ、エミは多分、こうやって触れられたら拒めない」
 本当は指を絡ませたかったけれど、そこまでの勇気はなくて、すぐに離す。視線を指先から上げれば、僅かに目を丸くした先生の顔があった。すぐに目を細めて睨まれた気になるけど、怒られてるんじゃなくて呆れられてるのかもしれない。あたしは簡単に触れさせるなと言われたばかりで、それを否定したことになる。
「好きじゃなくても、好意を寄せられたらやっぱり拒めないと思う。だって人の体温はキモチイイもん。触れてる時は寂しくないもん。その時だけは……どんなふうに思われてても、愛されてるって感じることはできるでしょう?」
 あたしの言葉に先生は何も言わなかった。何かを言われる前に、あたしが背を向けたからだ。
 何かを言われるのが、怖かったからだ。


「僕は、そうは思わないな」
 先生に説かれた価値の話を椎名さんにすると、最初に否定の言葉が返ってきた。
 サークルの飲み会の日程と重なった椎名さんとの逢瀬で、食事を終えてベッドを共にした後のことだ。ベッドヘッドに枕を挟んで腰掛け、寝転ぶあたしを見下ろしながら椎名さんは言った。
「人の価値とその人の誇りは別物だろう。プライドを掲げていても価値のない奴だっているし。だいたい、価値を上げ下げするのは自分だけじゃない。関わった人間によって価値が決まることもある。例えば、ある仕事を4人のチームで達成させる。だけど評価されるのはチームのリーダーだ。4人全員が平等の価値を付けられることはない。逆も然りだ。一人のミスで仕事が失敗したとする。連帯責任だと問われるのは学生の間だけだ。会社の中じゃ責任はただ一人に負わされる。それはミスをした人間じゃない。チームのリーダーだ。」
 椎名さんの言うことも尤もらしく、あたしは何も答えられずにいた。椎名さんは優しくあたしの頭を撫で、微笑んだ。
「確かにその先生が言うように、女性は少しガードが固めの方が良いという意見には賛成だ。簡単に手に入っちゃうとつまらないからね。だけどエミちゃんは充分に魅力的な女性だよ。人と比べて経験が多いことも決してマイナスじゃあない。それだけ男を知っているということは、エミちゃんにとっての強力な武器になり得るものだ」
 その言葉はあたしのことを肯定された気がして、嬉しかった。椎名さんはあたしを喜ばせることが上手だ。きっとあたしだけでなく、女性を嬉しくさせることをよく知っているのだろうし、それだけ多くの女性と付き合ってきたということなのだろう。
 だから椎名さんの隣は心地良い。傷つけるものはないのだと安心して、甘えたくなる。彼が好きなんだと思わせられる。
 でも、先生の時のように、指先が髪に触れただけで感じたドキドキは訪れなかった。鼓動は安定して、リラックス状態のままだ。
「椎名さんはぁ、エミのことぉ、好きぃ?」
「好きだよ。エミちゃんは?」
「エミも椎名さんのこと好きですよぉ」
 まるで恋人同士のような会話をしても、甘い雰囲気にはなりきらない。どちらのせいか、なんて答えはないのだろう。言うなれば、どちらともその気がないからだ。ここに居るのは、醒めた表現をすればセックスが目的だからで、愛し合うことではない。上辺だけの“好き”という言葉は、交わされるだけで意味は持たない。
「本当に?」
 屈んで、椎名さんの唇が降りてきた。あたしはそれを黙って受け止める。触れ合う部分が暖かい。
「僕はエミちゃんの価値を下げる男じゃないと言い切れる?」
 離れた唇は、息がかかるほど近くにあって、愛を囁くような優しい声音を放つ。
「その先生が言うには、僕は君の価値を下げる男に他ならない。恋人でもない君を抱いているんだから」
 目を開ければ、残酷な言葉を紡ぐ椎名さんの表情が、とても優しいものだと分かった。
「だからと言って、僕たちは恋人同士の関係を望んでいるわけでもない」
「……椎名さん?」
 思わず体を起こして椎名さんの顔を見つめた。
「エミちゃんとは色々と相性が良くて、君自身のことも気に入っているから、こんなことを言うのはとても不本意だけど」
 あたしの為だと責任転嫁のような言葉を投げつけて椎名さんは告げた。
「この関係を解消しようか」
 あたし達は付き合っていたわけではないけれど。本当は友達同士でもなくて。
 こんな時に適切な言葉は“別れ”の二文字しか思い浮かばなかった。
 つまりは、そういうことだろう。