彼女の場合

17

 目の前には椎名さんが頼んだデミグラスソースのハンバーグ定食が置かれた。愛想の良いウェイトレスさんは小さくお辞儀をして静かに下がる。いつもより確実に安いディナーに、椎名さんは美味しそうだと呟いた。
 自分が納得するならば値段に厭わない彼との食事で、珍しくファミリーレストランなどという安さが売りの店に来ているかと言えば、あたしが誘ったからに他ならない。椎名さんはどうせなら、と最近イチオシらしい駅から少し離れたレストランへ誘ってくれたけれど、あたしが断って近場のここを選んだのだ。
 決して早い時間ではないけれど、ちらほらと子供連れの客も見え、店内はそれなりに賑わっていた。落ち着いた話をする場面には相応しくないだろうが、しんみりとした空気を作りたいわけではないから、これくらいの雑音があった方が返って気楽だった。
「たまにはこういうのもいいね。値段の割にはボリュームがあるのが利点だ」
「椎名さんもファミレスとか来るんですかぁ?」
「そりゃあね。食事の度に女の子を誘うわけじゃないから。一人の時だと定食屋とか駅の蕎麦屋が行きつけだよ」
 駅の蕎麦屋と言って思いつくのは立ち食い蕎麦だったけれど、椎名さんのカジュアルな服装からは想像しにくかった。どちらかと言えば草臥れたスーツを着たサラリーマンが立ち寄るイメージが強い。
「なんか意外ですぅ」
 素直に感想を口にすれば、椎名さんは不思議そうに笑った。
「そうかい? 案外、ああいうところの方が麺やつゆに拘ってたりするものなんだよ。一度行ってみるといい……と言っても、流石に女の子一人だと行きにくいかな」
 椎名さんはそう言って可笑しそうにした。あたしが行くわけがないとでも思っているんだろう。あたしは映画館や焼肉でのお一人様は平気なタイプだけど、そういえば確かに駅構内にある立ち食いの店に入ったことはなかった。
「それで、今日はどうしたの? お金に困ってる、なんてことはないよね」
 わざわざ椎名さんの誘いを断ってまでファミレスを選んだことに対しての質問だろうことは分かった。あたしは頭を横に振って否定する。それに今まで、椎名さんがあたしに食事代を払わせてくれたことはなかった。初めの頃に一度だけ電車代は跳ね返したけれど、そのあとはタクシー代ですら払ってくれていたのだ。椎名さんの車が使われたのはそれほどの回数ではなかった。
「うーん……あのねぇ。椎名さんはエミのこと、どう思ってるのかなぁって」
 正面と向かって尋ねるのはできなくて、俯き加減にくるくるとストローを回したながら聞いてみた。へっ? と素っ頓狂な彼の声が漏れ聞こえた。
「エミはねぇ、言い方は分からないけどぉ、良いお友達だと思う。だって恋人ってわけじゃないでしょう?」
 別に改めて確かめる程のことでもないのだろうし、だからと言ってあたしと椎名さんとの関係が変わることもないと思うけれど、一度椎名さんの口から言ってほしかったのかもしれない。案の定ちらりと視線を上げれば、椎名さんは驚いた顔であたしを見ていた。
「僕としては恋人でも構わないけどね。体の相性も良いし、エミちゃんのことは可愛いと思ってる」
 にっこりと笑顔を向ける椎名さんに、今度はあたしが驚いた。恋人でもいいなんて言われるとは思ってもいなかった。
「そんなに驚くことかな? まぁ、確かに、今はエミちゃん一筋とは言えないけど。エミちゃんが望めば今の彼女達と別れるくらいには本気だよ」
 椎名さんは苦笑気味な表情で言った。きっと嘘ではないんだろう。
「エミ次第ってことですかぁ?」
 そのことに少しの引っ掛かりを覚える。裏を返せば、あたしが望まない限り、椎名さんからは恋人という関係まで発展させる気はないということだ。
 それは、先生やサトシが言うところの“好き”という感情がないからじゃないだろうか。その中で仮に恋人になったとして、果たしてそれは本当の恋人なんだろうか? 嘘ではないけれど、真実でもない気がする。妥協するならそれでも良いのかも知れないけれど、妥協してまで結びたい関係なんて、本当に必要だろうか?
 あたしの問いかけに、椎名さんは「そうだね」と笑って、一口ハンバーグを頬張る。
「デートして、体を繋げて……。やっていることは恋人と僕たちと、そう変わらないだろう。勿論、エミちゃんを思う感情はありきの話だ。その上で、相手がたった一人に絞られるか、多数でも構わないかの違いじゃないかな。だからエミちゃんが、体を開く相手も心を向ける相手も自分だけにと望むなら、僕は叶えてあげられる条件を持っている。ただし、エミちゃんが望まなければ僕の一方的なものになるから、恋人という関係は成立しない。それだけのことだよ」
 まるで数式を解くかのように答えを述べる椎名さんの言葉は、上手くあたしの中へ入ってこなかった。あたしの頭の悪さを露呈させるようで恥ずかしいが、理解できないものは仕方がない。小首を傾げて解説を乞う。
「じゃあ椎名さんはぁ、エミと恋人になりたいってことですかぁ?」
 それはつまり、彼はあたしのことが好きだとうことだろうか。恋情を抱いているということだろうか。それ程の激しい思いをぶつけられるどころか、見せられたこともないが、密かに抱いていたというのだろうか。信じられなくて、まじまじと見つめてしまった。
 椎名さんは困ったように苦笑を浮かべた。
「エミちゃんの気持ちがこっちに向いていないのに、そんなことは思えないよ」
 のらりとかわされた気がしてムッと頬を膨らました。
「どうしてエミの気持ちなのに椎名さんが分かるんですかぁ?」
「エミちゃんは素直だから。分かるよ。その点、奈々ちゃんはポーカーフェイスが上手い子だったね」
「奈々ぁ……?」
 どうしてそこで奈々の名前が出てくるのだろうか。あたしが覚えている限り、奈々とは一緒に食事を取って以来、二人に接点はなかったはずだ。それともあたしの知らない所で会っていたのだろうか。そりゃあ、あたしに許可を請う必要はないけれど、奈々からも椎名さんからも、一言もそんな話を聞いたことがなかった。それでなければ、あの一度きりの食事で奈々のポーカーフェイスを見抜いたことになる。
「奈々とも寝たことあるのぉ……?」
 自然と顔が強張っていくのが分かる。恐る恐る尋ねれば、椎名さんは少し黙って、肩を竦めた。
「一度だけ。誘われてね」
 あたしは自分の顔が険しくなっていくのが分かった。けれども椎名さんは慌てて取り繕うこともなく、またどうしてあたしが不機嫌そうに表情を歪めているのか分かった風でもなく、再び「一度だけだよ」と念を押した。
 あたしに椎名さんを責められる権利はない。椎名さんとは付き合っているわけでもないし、あたし自身、椎名さん以外の男性と体を繋げたのは一度や二度じゃなかった。あたしから誘ったこともある。奈々には彼氏がいるから、その点を考えれば椎名さんと奈々の関係は褒められた好意ではない。けれどもそれは、奈々自身の問題だから、あたしがどうこう言える立場でない。
「それってぇ、いつの話ですかぁ?」
 深く考えずに思わず聞いていた。
「それって答えないといけないことかな」
 にっこりと微笑む椎名さんは、だけれど答える意思がないことは伝わってきた。どうしてなのかは知らない。だけれど、あたしではなく奈々のことを思っての返答だということは分かった。だからあたしもそれ以上は聞けなかった。
 押し黙るあたしを傍目に、椎名さんは残りのハンバーグと、セットのライスを平らげた。
 割り勘なんてせこいことはせずに、この日も椎名さんの奢りになったけれど、そのまま駅に送られて別れる。今日はそんな雰囲気じゃないからね、と椎名さんは言ったけれど、きっとそれはあたしではなく彼の意思だろう。もしかしたら気づかない内に、あたしの方が椎名さんを怒らせたのかもしれなかった。そう気づいたのは、電車に揺られて、降りる駅のホームが近づいた時だった。


 夏休みが終わって今日も食堂は賑わっている。後期の講義は奈々と同じものが少ないから、週に何度かは待ち合わせないと一緒に昼食を取ることもままならない。けれども食堂を横断した時点で奈々の姿を見つけられず、仕方なく携帯で連絡を取った。どこに居るのかと問い合わせれば、今日は混んでいるから大教室で食べることになったとの答えが返ってきた。
「あれぇ、オカンもいるんだぁ。珍しいねぇ?」
 サトシが一緒に据わっているのを見て思わず口にしていた。奈々と同じ講義ではなかったはずで、それでなくてもいつもならばサークルの部室で昼食を取ることが多いサトシが、奈々達と並んでいるのは少しの違和感があった。
「だから俺はお前のオカンじゃねーし」
「つか、なんでオカン?」
 既に慣れているはずのサトシがあたしの付けたあだ名に反応するのかと思えば、そういえば、奈々達の前で言ったことはなかったかもしれないと思い当たる。
「夏休み後半、ちょっと世話してやったらオカン呼びになってた」
 サトシがあたしの代わりに答える。それは半分正解で半分不正解だった。でもあたしは訂正せずにユッコの隣に座った。あたしの昼食は最近作り始めた自作弁当だ。夏休みの間、サトシの規則正しい生活を共にしたせいか、体重が増えてしまっていた。ただでさえぽっちゃり体形なのに、これ以上は危険だと自分で判断し、サトシに相談した結果の弁当だ。
「まぁサトシは面倒見良いもんね。エミが懐くのも分かるかも」
 笑いながら納得したのは奈々だ。相変わらずスレンダーな体形を維持しながらも、その手に持っているのは丼だ。今日の日替わり定食はカツ丼と味噌汁のセットらしい。あたしの好物だった。
「懐くって……。どうせなら俺は可愛い子に懐かれたいよ。ていうか好かれたい! 彼女欲しい!」
「この前の子は振られたんだっけ? 芸大のナントカって子。バイトが一緒だったんだっけ」
「傷口を掘り返すなよっ。そうだよ、振られたよ。だってまさか店長とデキてるなんて思わないだろーっ!!」
「アハハッ。災難だったねぇ」
「店長っていくつ?」
「45。しかもバツイチ、子持ち。あんなオヤジのどこが良いのか俺には分からん」
 そこまで言ってサトシは、ちらりとあたしを見た。何だ? と首を傾げれば、サトシは盛大に溜め息を吐いた。
「懐くって言えば、エミもオヤジ好きだよな。多嶋にすっげぇ懐いてんじゃん」
 その言い草がまるで馬鹿にされたようで、思わずムッとする。
「先生はオヤジじゃないもん。まだ30だもん」
「いやいや、30なら充分オッサンだって。なぁ?」
 サトシがあたし以外に話を振れば、奈々が「そうかなぁ」と曖昧に答えた。奈々にも年の離れた彼氏がいるから、賛同はし難いだろう。ユッコは気にした風もなく「人それぞれじゃない」と素気無く返していた。
「なんだよー。俺の味方してくれる奴いないのかよー」
 拗ねてみせるサトシは、しかしすぐに立ち直るので、あたし達は誰も気に留めることはなかった。
「それよりエミ、多嶋のこと本気じゃないなら椎名さんにしときなよ」
「どうしたの、奈々、急に?」
 あたしもそうだけど、ユッコも驚いたように聞いた。今までさり気なく言うことはあったけれど、こんなにもはっきりと言ってくることはなかったからだ。
「急にじゃないわよ。エミがその気ならどっちでもいいと思うけど。だってあの多嶋だよ? 得体知れないじゃない。椎名さんだったら優しいし、紳士的だし、むしろ勿体無いくらい。ユッコも会ってみたら分かるわ、絶対」
 力強く奈々が主張すれば、ユッコも何となくそんな気になったようで、そうかもしれない、と呟いた。あたしだけその言葉にムッとした。
「先生は得体知れなくないよぉ。優しいしカッコいいもん」
「多嶋がカッコいいなんて嘘だぁ」
「いつもモサイ格好してんじゃん」
 先生のことを笑われて、腹立たしい気持ちになるのはこれが初めてじゃない。けれど全然慣れることもなくて、どうして分からないんだろうと憤慨する。少し前は、先生のカッコイイ姿は独り占めをしているようで優越感に浸ることもできたけど、今はどうして、先生のカッコ良さが伝わればいいのにと思ってしまう。だけどやっぱり皆に知られるのは勿体無いような気もして、見せてあげる、とは言えなかった。
 そんなことを言い合っているうちに休み時間の終了を告げる鐘が鳴った。奈々達は慌てて食堂へ食器を返しに立ち上がる。
 ユッコとサトシとは食堂で別れ、あたしと奈々は次の講義のために再び大教室へ戻った。
「あのねぇ、奈々。椎名さんと寝たことあるって本当ぉ?」
 椎名さんを薦めてきた時点で気になって、どうしても聞きたかったことを、二人になってすぐに口にしてみた。一瞬呆気に取られた奈々だったけど、すぐにいつもの表情に戻って「本当だよ」と何でもない声で応えた。これがポーカーフェイスが上手いってことなんだろうか、とその横顔を見つつ思う。あたしだったら動揺してこんな風に答えられないだろう。
「椎名さんが言ったの?」
 逆に聞き返されて、戸惑いつつも頷いた。
「話の流れで……」
 やっぱり本当だったのだと確認して、少なからずショックを受けている自分を隠せなかった。焼餅とは少し違う。言い知れない不安が胸の中に広がっていく感じを覚えた。椎名さんから聞いた時も同じ感覚を味わった。
「別に深い意味はないわ。私には彼氏がいるし、椎名さんにはエミがいる。お互い本気じゃなかったの」
「じゃあ、どうしてぇ?」
「エミが本気だったら寝てない。祐と同じよ。椎名さんがイイ男だったから。それだけ」
 そこで奈々が、以前執拗に祐との関係を持ちたがっていたことを思い出した。あの時は祐が働きかけて元鞘に収まったけれど、根本的な部分は変わっていなかったようだ。でもそれとコレとは関係がないような気がする。
「エミが椎名さんに本気だったら寝なかったってことぉ?」
 でもどうしてあたしが椎名さんに本気じゃないなんて、当人でもない奈々に分かるんだろうか。信じられなくて疑いの目を向けてしまうが、奈々は気にした様子もなくさらりとかわした。
「そうよ。エミを見てれば分かるもの。でも、エミには椎名さんの方が合うと思うのも本当。だから多嶋より椎名さんにした方が良いと言ったのよ、さっき」
 どうしてだろう。あたしには分からないことを、あたしではない奈々や椎名さんが分かっているのは。二人の言うとおりにすれば、あたしは自分の気持ちが分かるのだろうか。でもそれは、本当にあたしの気持ちなのだろうか。
 椎名さんは“エミが望めば”と言った。嘘でも、口にしてしまえばそれは椎名さんの言うところの望みになるのだろうか。
「先生は、エミに自分を大事にしなさいって言ったの」
 講義開始の鐘が鳴る。担当の教授が来るのはもうすぐだ。それまでに答えが返ってくるとは思わないけれど、奈々に問わずにはいられなかった。
「椎名さんを選んだら、エミは自分を大事にできるのかなぁ」