彼女の場合

16

 8月ももうするぐ終わる週中、セックスもしないのにあたしは相変わらずオカンことサトシの部屋に入り浸っていた。
「今日はどうするんだ、エミ?」
 薄い味噌汁のお椀を手にしながらオカンは尋ねた。彼の予定は聞かなくても分かる。恋人がいない彼の日程はほぼ決まっていて、バイトに励むか友人達と遊ぶかの二択しかないからだ。あたしも似たようなものだけど、それにしても何と味気ない日常だろうか。
「バイトも夜からだしぃ、学校に寄ってから行こうかなぁ」
 ついでに、というニュアンスを持たすように言ってみたけれど、本当は学校に寄ることの方が主体だったりする。それは既にオカンも分かっていることで、呆れたように目を細めた。
「今日もかよ。どうせ相手にされてないんだろう? 懲りないよな」
 味噌汁を飲み込みながら呟かれた言葉は正にそのとおりだ。反論の余地もなく、あたしはすぐには何も言い返せなかった。懲りないと言われればそうなのだ。それでも諦めの悪さは、認めたくないけど、親に似てしまったのだろうと思う。あれでも、祖父から聞いた話によれば、二人は大恋愛の末の結婚だったそうだ。
「引越し考えてんのも多嶋が原因だろう。もうストーカーの域じゃね?」
「なっ……、ストーカーって言いすぎじゃなぁい!?」
 薄々自分でも気づいていたことをズバリと言われて一瞬言葉を失った。確かに引越しまではやりすぎかなぁ、と最近になって思い始めていたところだ。冷静になってきたということだろう。あの時は先生に無視されたことに頭に来て、それだけで精一杯で、突発的に口走ってしまったけれど、実際はそんな簡単な話ではなかった。とりあえず目先の問題として金銭的なことだ。仕送りは月にいくらか貰っているけれど、家賃の他にも食費や化粧品や洋服代と使うことも多くて、なかなか貯まっていかない。
「ていうかさ、エミって多嶋のどこがそんなに好きなわけ。ダサいし暗そうだしなんかオタクっぽいじゃん。しかも年も離れてるし、話合うのか?」
 不思議そうに聞くオカンにはきっと先生のイメージが良く映ってないんだろう。あたしも祐の話を聞いてる限りだったら同じような事を思っていたかもしれない。そもそも、単位の取りやすい先生なんだろう、くらいにしか認識してなかったもの。話が合うとか、そういう次元じゃなかった。だから改めて聞かれるとあたしも首を傾げたくなる。どうしてこんなに先生のことばかりを考えてしまうんだろうって。どうして一度無視をされたくらいでムキになっているんだろうって。――今となってはその回数も両手で足りなくなっているけれど。
「エミは好きってよく分かんないよぉ。でもなんとなく気になるんだぁ。気になってしょうがないの」
 どこが気になるのか、何が気になるのか、なぜ気になるのか、あたし自身も幾度となく考えた。けれどいつだってその答えを見つけ出せずにいる。ただ気になるという事実しか見えてこないのだ。
「うん? それが好きってことなんじゃないのか?」
 味噌汁を最後まで飲み干したオカンは首を捻る。
 そうなんだろうか。気になるってことは好きってことと同一の事なんだろうか。だったら椎名さんのことも好きということになるし、倉掛さんのことは好きじゃなかったことになる。
「よく……わかんない……」
 最近はいつもこんなことばかりを考えている。椎名さんとは会って、体を重ねて、それだけだったのに、気持ちの奥を探るようなことは考えたことがなかった。気持ち良ければそれで良いと思っていたのに、それが全てだと思っていたのに、今までの何もかもを覆されそうで怖くなって、結局思考はそこで止まるのだ。それでもやっぱり次の瞬間には同じことを考えている。
 何も分かったことなんてないのに、だからこそだろうか、考えることを止められないのは。こんなに頭を使ったことなんて受験のときでさえなかった。おかげで眠る時の偏頭痛が酷い。きっと慣れない思考回路を使っているから疲れてきているんだろう。
 癒されたい。そう思う時は、いつも先生の匂いが記憶を掠めた。本の積み上げられた研究室や、いつも着ている白衣や、僅かに漂う煙草の匂いが思い出された。煙草の匂いはどちらかといえば苦手なものなのに……。
「そういえばオカンは煙草吸わないねぇ」
 ふと思ってそう呟けば、オカンは何を今更とあたしを見つめた。
「あんなの百害あって一利無しの典型だろ。俺には良さが分からん」
「だよねぇ」
 だけど先生が煙草を吸う姿は格好良くて、煙草を挟む指筋はとても綺麗だった。


 ドアを開けた先生は目を丸くして驚いたかと思えば、すぐに表情を歪めて嫌そうに目を細めた。
「懲りないな、お前も」
 夏休みにも拘らず、あたしが先生の研究室に通い始めて十数日が経つ。最初こそ姿を見ればシカトされることも多かったけれど、今は先生も諦めたのか逃げることもなく、かといって構うこともなく、見逃してくれるようになった。これは大きな進歩と捉えている。欲を言えばもっと構ってほしいのだが、無視されるよりはずっといい。
 先生は呆れ顔のまま図書館から持って来た資料らしいものを無造作に机の空いているスペースに置き、どさっと椅子に腰を下ろした。年季の入った皮製の椅子はギシっと音を立てて揺れたが、しっかりと先生を支えるように受け止めた。
「邪魔するなよ」
 これから作業に入るらしく、こちらをチラリとも見ずに先生はパソコンに向かった。これも慣れたほどにいつものことなので、はーい、と良い子の返事をしてじっと静かにしている。
 息を潜めるようにしていれば、先生はそこに居ることを許してくれた。話をしなくたって先生の傍は心地良いもので、カタカタとキーボードが打たれる音や、時たま資料を捲る紙の音があるだけの静かな空間を苦痛に感じることは一度もなかった。
 先生は集中すると自分の世界に完全に入り込むというか、その間だけは外界からの感覚は全てシャットアウトされるようで、いくらあたしがじっと見つめていてもその視線は気にならないみたいだった。それをいいことに、あたしはこのほとんどの時間を先生の観察に徹していた。観察と言っても先生は動き回るわけじゃないし、特に変な癖があるというわけでもない。でも意外に睫毛が長いんだな、とか、鼻筋は整っていて唇は薄めだな、とか、そんな些細な発見を楽しむくらいだ。それでも誰も知らない先生を見つけることはあたしにとっては大切な時間だった。今、先生の時間を共有しているのはあたしだけだ、という優越感に浸るだけでも、充分に時間を過ごせた。
 それから一番の収穫だったのは、先生の素顔を見られるということだった。普段は前髪を下ろして分厚いレンズの眼鏡をかけて、たまに無精髭も生やしっぱなしのだらしない先生だけれど、講習会等の公の席がある前日にはきっちりと髪をセッティングして、眼鏡も瓶底じゃなくて細い黒のフレームのオシャレなものに変わっている。勿論髭もちゃんと剃られているから、ほぼ限りなく素顔に近い先生の姿なのだ。きっと見慣れていない他の学生だったら、絶対に一目では多嶋先生だとは思わないだろう。
 それが先生だと知られたとしても、モデルのような美形というわけではないから騒がれることはないだろうけれど、年齢は随分若く見えるし、もしかしたら好意を抱かれてることがあるかもしれない。ううん、性格だってぶっきら棒だけれど優しいし、恋人がいても可笑しくない。今のところそんな雰囲気は感じないけど、どうなんだろうか。まだ聞いたことがないから何とも言えなくて心許ない。
 もし先生に可愛い彼女がいたら、どんな風だろう?
 もし先生に綺麗な彼女がいたら、どんな風だろう?
 誰とも知らない女性と幸せそうに並ぶ先生は想像も出来ないけど、あたしには見せたことのない表情を振りまける女性が先生の隣にいたら、先生はどんな風に笑うのだろう?
 考えるだけで心臓が騒がしくなってきた。息苦しくて、モヤモヤと気持ちの悪い感覚が襲ってくる。
 あたしは慌てて頭を振り、己の想像を打ち消した。
 違うことを考えようと、自分の胸元を撫で、落ち着きを取り戻す。
 例えば、椎名さんだったらどうだろう。椎名さんの隣に相応しい女性はどんな人だろうか。
 今度は簡単に想像できた。椎名さんはプライドが高くて、自分の意思をはっきりと持った人だ。遊び心もあって、納得するまで追及する人だ。そんな人には、人に合わせられる包容力と柔軟性、人の考えに流されないキャリアウーマンのような確固たる己を持った強い女性が似合うんじゃないだろうか。そしてそれは、あたしではありえないのだ。
 その想像にあたしは納得できるし、モヤモヤとした息苦しさはなかった。なぜだろう、とは考えなかった。むしろすっきりとした気持ちよさがあった。
「――ば、木庭!」
 不意に名前を呼ばれ、焦点を先生の方へ合わせた。眉根を寄せて難しい顔をした先生がこちらを見ていた。滅多に呼ばれない名字を先生の口から聞いたのは片手で数えるほどしかなく、それが自分の名前だと認識するのに一瞬の躊躇があった。
「気づいてないのか。さっきから鳴ってるの、お前の携帯だろう」
 言われて初めて気づいた。バッグの中から微かな音が漏れていて、拾い上げれば確かにあたしの携帯が音を立てて震えていた。だから先生は機嫌が悪いのだ、と同時に気づき、急いで部屋を出ようと立ち上がった。邪魔するなよ、とは再三言われた言葉で、今日も釘を刺された事だ。
「ここでいい」
「え?」
「出て行かなくていいから、ここで取れ」
「……でもぉ……」
「早く出なくていいのか」
 どうして突然そんなことを言い出すのだろう。
 でもいつまでもぐずぐずしているわけにもいかないから、通話ボタンを押した。掛けて来たのは椎名さんだった。時間を見ればちょうど午後になった頃で、きっと昼休みにでも入ったのだろう。昼間から電話をかけてくるのは珍しかった。いつもはメールだからだ。
「もしもしぃ?」
 隣に先生の視線があるのはなんだかこそばゆくて、声が上擦ってしまう。それを気づかれないように喉元をそっと抑えながら問いかけた。もしもし、と穏やかな椎名さんの声が機械越しに聞こえた。
 話の内容はいつもどおり、食事の約束だった。だけれど椎名さんは今忙しいようで、食事だけになるとも言った。この間のようなイジワルをしているわけじゃないよ、とも笑いながら言っていたけれど、あたしはすぐに返事が出来なかった。そっと先生の方へ視線を向ける。睨まれてるように思うのは気のせいだろうか。
『エミちゃん?』
 答えないあたしに、椎名さんは焦れたような声で名前を呼んだ。
「あ、うん、あの……返事は後でメールしてもいいですかぁ」
 先生に睨まれたままで「はい」と答えることが出来なかった。どうして先生は急にこんなふうにしてくるんだろう。
 戸惑いを隠せないまま、椎名さんにははっきりと動揺していることもバレていて、うまく誤魔化すこともできずに通話を切った。
「男からだったな。彼氏か?」
 椎名さんの声は漏れ聞こえていたようだ。椎名さん自身はっきりとした喋り方で、地声も小さい方ではないから不思議ではないのだけれど、確かめるような先生の口調に違和感を覚えたのも確かだ。
「彼氏……って程じゃないかなぁ」
 倉掛さんとは別の意味で知られたくないと思う余り、口篭ってしまった。そのせいで先生の眉間の皺が更に深くなって、向けられる視線は鋭くなった。怖いけど、どうしてそんなふうに睨まれるのかが分からなくて、思わず俯いてしまった。
「俺は学生に対して興味がないから、お前達の評価を公平に見るには普段の態度は考慮しない形を取っている。学科長には嫌味を言われ続けているが、俺の性格的には今の方法がベストなんだ」
 先生がレポート重視の評価方法を取る理由を知って、驚くことはなかった。やはりそうか、と納得することはできたけれど。でもそれが今何だというのか分からなくて、続きを待つようにそっと俯いていた頭を上げた。
 重なった視線の先には、既に鋭い雰囲気はなかった。
「なのにお前の噂は耳に入ってくるんだ。お節介な学生や教授との付き合いを取らない俺でさえ耳にするほどだ」
「それって……」
「余程軽い女なんだろうと思っていた」
 あ――。
 ああ――。
 なんてことだろう。
――ショックだ。
 とても、なんてものじゃないほど、ショックだった。
 目を閉ざしたいのに先生からの視線を外せなくて。耳を閉ざしたいのに先生は淡々と言葉を続けて言った。
「見かける度に違う男を連れて、噂を聞く度に違う男の名前が出てくる。俺には関係ないことだと聞き流していたが、なぜかお前は俺に懐いてきた。無視を決め込んでも懲りずにやって来る。ここまで関わった人間に情が沸かないほど俺は冷徹でもないんだ」
 先生の声が遠くに聞こえる。近くに居るはずなのにどうしてだろう。
「そんなふうに泣くくらいなら、もう少し自分を大事にしろよ。泣かれるとどうしていいか分からない」
 いつの間にか先生は目の前に立っていて、そっとあたしの頬が大きな手に包まれる。音もなく流れる涙には、先生の指に払われて初めて気づいた。
 どうして?
 どうしてあたしは泣いているんだろう。
 どうして先生は、蔑むような目で見た後に、そんなふうに優しい声を掛けてくれるんだろう。
「参ったな……。俺は女の慰め方なんて知らないんだ」
 そう言って胸を貸してくれる先生は、ぎこちない手で髪を撫でてくれた。知らないなんて嘘だ、と思ったけれど、あたしの喉からは嗚咽が漏れるだけだった。
 あたしは自分を大事に出来ていないんだろうか……?